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終わりの名を持つ君へ  作者: そらいろは
第2部 旅の始まり

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第23章 忘れられない名

第2部 旅の始まり

 夜になっても、星は見えなかった。


 空は灰に閉ざされたままだった。


 昼よりも暗くなったぶん、雲の厚さだけがよく分かる。


 上を見ても、黒い夜ではない。


 重く濁った灰色が、丘の上に低く垂れ込めている。


 星を見るための場所だったはずなのに。


 ここには、星がない。


 イロハは墓標から少し離れた場所に座っていた。


 膝を抱え、肩にかけた水の容器をそばに置く。


 足元の白い小石は、夜の中で昼よりも淡く見えた。


 光っているわけではない。


 ただ、灰の色が沈むと、その白さだけが少し浮かび上がる。


 地面に落ちた、小さな星の名残。


 そんなふうに見えた。


 クルムは墓標の前に立っている。


 ずっと。


 日が傾いても、空が暗くなっても、彼はほとんど動かなかった。


 祈るわけではない。


 何かを語りかけるわけでもない。


 ただ、そこにいる。


 見えない星を待っているように。


 いいや。


 星ではないのかもしれない。


 ここに眠る誰かを、見ているのかもしれない。


 イロハは、墓標を見る。


 小さな墓。


 風除けの岩の間。


 白い小石の円。


 欠けた星のような模様。


 文字は読めない。


 名前も残っていない。


 それなのに、クルムには分かる。


 ここに誰が眠っているのか。


 ここが何の場所なのか。


 忘れられないから。


 イロハは小さく息を吐いた。


「名前、消えちゃってるね」


 言ってから、すぐに口を閉じた。


 また踏み込みすぎたかもしれない。


 でも、クルムは怒らなかった。


 墓標を見たまま、低く言う。


「石に残る名など、いずれ消える」


「でも、消えたら分からなくなる」


「分からなくなる者には、それでいい」


 イロハは眉を寄せた。


「どういう意味」


「名は、石に刻むためだけのものではない」


 クルムの声は静かだった。


「呼ぶ者がいなければ、どれほど深く刻んでも死ぬ」


 イロハは墓標を見る。


 文字のない石。


 名前のない墓。


 でも、クルムはここへ来た。


 三千年経っても、ここを忘れなかった。


「じゃあ、あなたの中には残ってるの」


 イロハは聞いた。


「この墓の人の名前」


 風が吹いた。


 白い小石の上を灰が薄く流れていく。


 クルムは答えない。


 それでも、否定はしなかった。


 イロハはそれ以上聞けなかった。


 名前を聞いてはいけない。


 今はまだ。


 そう分かっていた。


     *


 夜の丘は寒かった。


 風を避ける岩の間にいても、冷たさは体に染み込んでくる。


 イロハは肩を抱いた。


 灰の街で拾った布を巻いてはいるが、それでも寒い。


 クルムは寒さを感じているのか分からない。


 ただ、彼の横顔は昼よりも白く見えた。


 月もない。


 星もない。


 火もない。


 それなのに、クルムの赤い瞳だけが、夜の中で静かに浮かんでいる。


 イロハはその目を見て、ふと思い出した。


 約束の庭。


 人間の墓と吸血鬼の墓が並んでいた場所。


 同じ台座に置かれた二つの石。


 同じ器を挟むように眠っていた、誰かたち。


 あの時は、分かったようで、分かっていなかった。


 人間と吸血鬼が一緒に眠る。


 その意味を、まだきちんと聞いていない。


「クルム」


 呼ぶと、彼は少しだけこちらを見た。


「何だ」


「約束の庭のこと、聞いてもいい?」


 クルムの目が細くなる。


 イロハは慌てて言葉を足した。


「このお墓のことじゃない。名前も聞かない。ただ、あそこにあった約束が何だったのか、知りたい」


 クルムは黙る。


 イロハは胸の前で手を握った。


 掌の傷が、布の下でじんと痛む。


「あそこでは、人間と吸血鬼が一緒に眠ってた」


 イロハは言った。


「でも、私はずっと、吸血鬼は人間を襲うものだと思ってた。村でも、そういうものだって言われてた」


「間違ってはいない」


 クルムは短く言った。


 イロハは顔を上げる。


「でも、全部じゃないんでしょ」


 クルムは答えない。


「あの庭を見たら、そう思った。最初からずっと敵同士だったなら、あんな場所は残らない」


 風が二人の間を抜ける。


 墓標の前の白い石が、小さく鳴った。


 クルムは長く黙っていた。


 やがて、墓標から視線を外さないまま言う。


「人間と吸血鬼の間には、約束があった」


 イロハは息を止めた。


「約束」


「血の約束だ」


 血。


 その言葉に、イロハは思わず自分の掌を見た。


 布の下にある傷。


 自分で差し出した血。


 クルムに飲ませた血。


 あの夜の感覚が、ほんの少し蘇る。


「食べられるために?」


 声が小さくなった。


 クルムは少しだけ眉を動かした。


「違う」


「じゃあ」


「生きるためだ」


 イロハは黙った。


「人間は血を差し出した。吸血鬼は、その人間を守った」


 クルムの声は低く、淡々としていた。


 でも、ただの説明には聞こえなかった。


 墓標の前で、その言葉は古い記憶のように響いた。


「家を。子を。村を。時には街を」


「守るために、血を飲んだの?」


「そういう約束もあった」


「狩りじゃなくて?」


「狩りではない」


「支配でもなくて?」


「支配と呼ぶ者もいた」


 クルムは静かに言った。


「だが、少なくとも始まりは違った」


 イロハは約束の庭の墓を思い出す。


 人間の墓。


 吸血鬼の墓。


 同じ場所に並んでいた石。


「じゃあ、血をあげた人と、血を飲んだ吸血鬼は……敵じゃなかったの」


「敵ではなかった者もいる」


「家族になった人も?」


「いた」


「友達も?」


「いた」


「一緒に眠るくらい、大切な相手になった人も?」


 クルムは少しだけ目を伏せた。


「いた」


 イロハは胸が締めつけられるのを感じた。


 あの庭の墓は、ただ珍しいものではなかった。


 人間と吸血鬼が、確かに共に生きた証だった。


 血を奪うものと、奪われるものではなく。


 怖がるものと、怖がられるものだけではなく。


 互いに生きるために、何かを差し出し、何かを守った者たち。


「だから、あそこに一緒に眠ってたんだ」


「そうだ」


 クルムは短く答えた。


 その声には、懐かしさはなかった。


 いいや、懐かしさを出さないようにしているのかもしれない。


 イロハには、まだ分からなかった。


     *


 風が一度、強く吹いた。


 墓標に残っていた灰が薄く払われる。


 欠けた星のような模様が、夜の中で少しだけはっきりした。


 イロハはそれを見つめながら、言った。


「でも、壊れたんだよね」


 クルムは答えない。


「その約束」


 しばらく沈黙が落ちた。


 遠くで、灰の街のどこかが軋む音がした。


 建物が崩れたのかもしれない。


 風で何かが鳴っただけかもしれない。


 クルムは墓標の前に立ったまま、低く言った。


「約束は、便利な言葉だった」


「便利?」


「守るためにも使える。縛るためにも使える」


 イロハは眉を寄せる。


「血を差し出す人間を、裏切り者と呼ぶ者が現れた」


 クルムの声は静かだった。


 静かすぎて、かえって冷たく聞こえた。


「血を受ける吸血鬼を、化け物と呼ぶ者が増えた」


 イロハは何も言えない。


「約束は、いつの間にか罪になった」


 罪。


 その言葉が、胸に落ちる。


 イロハは自分の手を握った。


 あの夜、自分は血を差し出した。


 クルムに死んでほしくないと思って。


 自分で選んだ。


 もし村の人がそれを見たら、何と言っただろう。


 恐ろしいと言っただろうか。


 裏切りだと言っただろうか。


 自分でも、自分の選択を完全には説明できない。


 でも、あれは奪われたのではない。


 自分が決めたことだった。


「それでも、守ろうとした人はいたの」


 イロハは聞いた。


「人間にも、吸血鬼にも」


 クルムは答える。


「いた」


「でも、守れなかった」


 クルムは沈黙した。


 その沈黙が、答えだった。


 イロハは墓標を見る。


 小さな墓。


 名の消えた石。


 ここに眠る誰かも、その壊れた約束の中にいたのだろうか。


 守ろうとしたのか。


 守られようとしたのか。


 それとも、守られなかったのか。


 聞きたかった。


 けれど、聞けなかった。


 今、クルムが語っているのは、まだ遠い話だ。


 この墓の奥にある、本当に痛い場所には触れていない。


 それが分かったから。


     *


 しばらく、二人は黙っていた。


 クルムは墓標の前から動かない。


 イロハは膝を抱えたまま、足元の白い小石を見ていた。


 血の約束。


 人間が血を差し出し、吸血鬼が守る。


 狩りでも、支配でもない。


 共に生きるための約束。


 イロハはその言葉を、何度も胸の中で繰り返した。


 すると、約束の庭で見た墓の形が、少し違って見えてくる。


 同じ台座に置かれた二つの石。


 同じ器を挟むように眠っていた者たち。


 あれは死者のための形であると同時に、生きていた時の関係を残す形だったのだ。


 名を交わしたのかもしれない。


 血を交わしたのかもしれない。


 守り、守られたのかもしれない。


 家族だったのかもしれない。


 イロハは、ふと自分の村を思い出した。


 村では、誰かと何かを約束した記憶が少ない。


 約束と言えば、守るべき掟のことだった。


 入ってはいけない場所。


 してはいけないこと。


 聞いてはいけない話。


 村の外へ出てはいけない。


 祠に近づいてはいけない。


 約束はいつも、自分を縛るものだった。


 でも、クルムが語った約束は違う。


 誰かを生かすためのものだった。


 それも、いつか壊れてしまったのだとしても。


「約束って、壊れたら終わりなのかな」


 イロハは呟いた。


 クルムがこちらを見る。


「何だ」


「一度壊れたら、もう戻らないのかな」


「戻らないものはある」


「全部?」


「全部ではない」


 イロハは顔を上げた。


 クルムは墓標を見ている。


「だが、戻ったものを、同じものとは呼べない」


「同じじゃなくても」


 イロハは言った。


「残るものはあるんじゃないの」


 クルムは答えない。


 イロハは足元の白い小石を見た。


 ずれていても。


 割れていても。


 灰に埋もれていても。


 残っている。


 前にクルムが言った言葉を思い出す。


 それでも、残っている。


「この石みたいに」


 イロハは小さく言った。


 クルムは何も言わなかった。


 でも、その沈黙は怒りではなかった。


     *


 夜は深くなっていく。


 星はやはり見えない。


 見えないまま、丘の上の風だけが変わっていく。


 強くなり、弱くなり、また強くなる。


 灰が舞うたび、墓標の小さな模様が見えたり隠れたりした。


 イロハは少し眠気を覚えた。


 けれど、眠れなかった。


 この墓の前で眠るのは、何か違う気がした。


 クルムも眠る気配はない。


 吸血鬼が眠るのかどうかも、よく分からない。


「クルムは」


 イロハはぽつりと言った。


「誰かと約束したこと、あるの」


 クルムの赤い瞳が、夜の中でこちらを向いた。


 イロハはすぐに言い直そうとした。


「答えたくなければ、いい」


 クルムは黙っている。


 風が通り過ぎる。


 長い沈黙の後、彼は言った。


「ある」


 イロハは驚いて、顔を上げた。


 答えてくれると思っていなかった。


「それは、血の約束?」


「違う」


「じゃあ」


「もっと小さな約束だ」


 小さな約束。


 クルムの口からそんな言葉が出ることが、不思議だった。


「小さいのに、覚えてるの」


「忘れられない」


「吸血鬼だから?」


「それもある」


 それも。


 ということは、それだけではない。


 イロハはそう思った。


「どんな約束?」


 聞いた瞬間、クルムの目が冷えた。


 イロハはすぐに口を閉じる。


 また踏み込みすぎた。


 でも、クルムは怒鳴らなかった。


 墓標へ視線を戻し、低く言う。


「果たせなかった約束だ」


 イロハの胸が痛んだ。


 それ以上は聞けなかった。


 果たせなかった約束。


 忘れられない名。


 星の見えない丘。


 小さな墓。


 それらが、言葉にならないまま繋がっていく。


 イロハは墓標を見た。


 この墓に眠る誰かと、クルムは何かを約束したのだろうか。


 それを果たせなかったのだろうか。


 だから、三千年経ってもここへ来たのだろうか。


 答えはない。


 けれど、クルムの沈黙が、そうだと言っている気がした。


「ごめん」


 イロハは言った。


「また、聞きすぎた」


 クルムは答えない。


 ただ、少しだけ息を吐いた。


「お前は謝りすぎる」


「だって」


「知らないだけだと言った」


「でも、知らないまま傷つけるのは嫌」


 クルムはしばらく黙った。


 やがて言う。


「知らずに傷つけることもある」


「うん」


「知っていても、傷つけることはある」


 イロハは言葉を失う。


「なら、どうすればいいの」


「知らん」


「またそれ」


「本当に知らん」


 その声には、珍しく疲れが混じっていた。


 イロハは少しだけ笑いそうになって、やめた。


 笑う場所ではないと思ったからだ。


 でも、そのやりとりで、少しだけ息がしやすくなった。


     *


 墓標の前で夜を過ごすことになった。


 火は焚かなかった。


 クルムが必要ないと言ったからだ。


 獣に見つかる可能性もある。


 イロハは岩陰に背を預け、膝を抱えた。


 寒い。


 でも、完全に凍えるほどではない。


 クルムは墓標の近くに立ったままだった。


 時折、丘の端へ行き、周囲を確かめる。


 獣の気配を探っているのかもしれない。


 それ以外の時は、やはり墓の前に戻る。


 まるで、そこを離れすぎてはいけないと思っているようだった。


 イロハは目を閉じかけて、また開けた。


 眠れば、夢を見る気がした。


 村の火。


 白い閃光。


 外の者たちの血。


 そして、まだ見たことのない誰かの夢。


 この墓に眠る誰か。


 クルムが名前を呼ばない誰か。


 イロハは膝を抱える腕に力を込めた。


「名前を呼ばないのは、どうして?」


 気づけば、そんなことを聞いていた。


 クルムはすぐには答えなかった。


 聞いてはいけない問いだったかもしれない。


 でも、イロハは続けた。


「忘れてないんでしょ」


「忘れていない」


「なら、呼べるはずなのに」


 クルムは墓標を見る。


 長い銀白の髪が風に揺れる。


「呼べば、戻るのか」


 イロハは何も言えなくなった。


「名を呼べば、返ってくるのか」


 その声は静かだった。


 けれど、胸を刺すようだった。


 返せ。


 あの言葉が、イロハの耳の奥で蘇る。


 封印の光の中で聞いた声。


 目覚めた時に、クルムがこぼした言葉。


 返せ。


 あれは何を返せと言っていたのか。


 誰を返せと言っていたのか。


 今なら、少しだけ分かってしまう。


 イロハは声を震わせた。


「戻らない」


 クルムは答えない。


「でも、呼ばないと、もっと遠くなる気がする」


 自分で言いながら、何を言っているのか分からなかった。


 でも、言葉は続いた。


「私、村の人たちの名前を、全部ちゃんと覚えてるわけじゃない」


 胸が痛む。


「顔は思い出せるのに、名前が曖昧な人がいる。声は思い出せるのに、何て呼ばれてたか分からない人もいる」


 それが、怖い。


 村を好きだったわけではない。


 戻りたいわけでもない。


 でも、名前が消えていくことが怖い。


 自分の中からさえ消えてしまうことが怖い。


「だから、呼べる名前があるなら……」


 イロハは言葉を止めた。


 自分は何を言おうとしているのだろう。


 クルムに、この墓の名を呼ばせたいのか。


 そんな権利はない。


 イロハは首を振った。


「ごめん。違う。呼んでって言いたいんじゃない」


 クルムは黙っている。


「ただ、名前って、残したいものなんだと思っただけ」


 風が灰を運ぶ。


 墓標の表面には、名前がない。


 けれど、そこに眠る誰かの名は、クルムの中にある。


 消えずに。


 苦しいほどに。


 クルムは長く黙っていた。


 やがて、低く言った。


「残したくなくても、残る名がある」


 イロハは顔を上げる。


「忘れたいの?」


 クルムは答えない。


「それとも、忘れたくないの?」


 答えはなかった。


 けれど、その沈黙はどちらでもないように思えた。


 忘れたい。


 忘れたくない。


 どちらも、もう意味がない。


 忘れられない。


 ただ、それだけ。


 イロハは胸の奥が痛くなった。


     *


 夜明け前、空が少しだけ薄くなった。


 星は最後まで見えなかった。


 雲の向こうにあるはずの光は、何一つ届かなかった。


 それでも、丘の上には白い小石が残っている。


 灰の下の星。


 見えない空の代わりのように。


 イロハは浅い眠りから目を覚ました。


 いつの間にか、少しだけ眠っていたらしい。


 体が冷えている。


 肩が痛い。


 掌の傷も、鈍く痛む。


 クルムはまだ墓標の前にいた。


 本当に一晩中そこにいたのかもしれない。


 イロハは起き上がり、そっと近づいた。


 踏み込みすぎない距離で止まる。


 墓標の小さな模様が、薄明かりの中でかすかに見えた。


 欠けた星。


 名のない石。


 忘れられない名。


「ここに来たかったんでしょ」


 イロハは言った。


「来る必要があった」


「それは、同じことじゃないの」


「違う」


 クルムは墓標を見る。


「来たかっただけなら、来なかった」


 イロハはその言葉の意味を考える。


 来たかった。


 それだけなら来なかった。


 必要があったから来た。


 何のために。


 墓を見るため。


 場所を確かめるため。


 それとも、忘れられないものを、もう一度受け止めるため。


 イロハには分からない。


 でも、ここへ来る前のクルムと、今のクルムは少し違って見えた。


 傷が癒えたわけではない。


 救われたわけでもない。


 ただ、閉じていたものの隙間から、ほんの少しだけ過去の光が漏れた。


 そんな気がした。


「この人のこと」


 イロハは言った。


 クルムの視線がこちらを向く。


 イロハは慎重に言葉を選んだ。


「いつか、話してくれる?」


 クルムは答えなかった。


 拒まれると思った。


 関係ない、と言われると思った。


 聞くな、と言われると思った。


 でも、クルムはどれも言わなかった。


 ただ、墓標を見ていた。


 長い沈黙の後、低く言う。


「知れば、お前は私を憎むかもしれない」


 イロハは息を呑んだ。


「どうして」


「そういう話だ」


「あなたは、私に憎まれたくないの?」


 言った瞬間、クルムの赤い瞳がわずかに揺れた。


 ほんの一瞬。


 すぐに消えた。


「どうでもいい」


「嘘」


 イロハは小さく言った。


 クルムの目が冷える。


 けれど、イロハは目を逸らさなかった。


「本当にどうでもいいなら、そんなこと言わない」


 風が吹く。


 灰が二人の間を流れる。


 クルムはしばらくイロハを見ていた。


 やがて、墓標へ視線を戻す。


「お前は、知らないだけだ」


「うん」


「知らないから、そう言える」


「そうかもしれない」


 イロハは頷いた。


「でも、知らないまま決めたくない」


 自分の声が、思ったより静かだった。


 村にいた頃、自分は何も知らなかった。


 外の世界も。


 祠の正体も。


 吸血鬼のことも。


 人間がどうなったのかも。


 知らないまま、怖がり、憧れ、逃げて、封印を解いた。


 知らないことは、時に人を傷つける。


 でも、知ったからといって正しくなれるわけでもない。


 それでも。


 知らないまま決めたくない。


 今は、そう思った。


 クルムは答えなかった。


 でも、拒みもしなかった。


 それだけで十分だった。


     *


 朝の薄い光が、丘の上へ少しずつ広がっていく。


 星は見えない。


 墓標の上に積もった灰だけが、白く浮かび上がっていた。


 クルムは、その前から動かなかった。


 イロハは少し離れた場所に戻り、膝を抱えた。


 いつ立ち上がるのかと思った。


 いつものように、進むぞと言うのかと思った。


 けれど、クルムは何も言わない。


 丘の端を見ることもなかった。


 次に進むべき道を探すこともなかった。


 ただ、墓標を見ていた。


 ようやく辿り着いた場所で。


 ようやく見つけたものの前で。


 その先に何があるのか、分からなくなった者のように。


 イロハは、その背中を見つめた。


 これまでクルムは、いつも前を歩いていた。


 灰の道でも。


 壊れた線路でも。


 人の消えた街でも。


 どこかに行くために、迷わず進んでいた。


 イロハは、置いていかれないように追いかけてきた。


 けれど今、クルムは歩こうとしない。


 ここが、彼の行き先だったのだ。


 この墓を探すために歩いていたのだ。


 そして、辿り着いてしまった。


 イロハは、ようやくそれに気づいた。


 墓標の小さな模様が、薄明かりの中で見えたり、灰に隠れたりしている。


 欠けた星。


 名のない石。


 忘れられない名。


 クルムは声を出さなかった。


 指先で墓標に触れることもしなかった。


 ただ、そこに立っていた。


 どれほど時間が過ぎても。


 風が吹いても。


 朝が来ても。


 動かなかった。


 イロハも声をかけなかった。


 今は、まだ。


 この人を動かす言葉を、自分は持っていない。


 そう思った。


 丘の上には、二人だけが残った。


 行き先を失った吸血鬼と。


 その背中を見つめる少女。


 空には、最後まで星が見えなかった。


 それでも、灰の下には白い石が残っていた。


 消えた名の代わりのように。


 忘れられない夜の名残のように。


第2部 旅の始まり 完

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