第72話:支配の糸が切れる時
――王都、昼下がり。
街は本来あるべき昼の顔を取り戻しつつあった。
その上空を淡い光をまとった小さな影が舞っている。
妖精リュミエルは、高く高く舞い上がり、街全体を見渡していた。
「……あっ」
広場の中央。
先ほどまで、命令を待つかのように無言で立ち尽くしていた人々が、
次々と動きを止め、周囲を見回し始めている。
「……え?」
「俺、なんで……ここに?」
一人の男が、額を押さえながら呟いた。
視線が彷徨い、太陽を仰ぎ、まるで今初めて昼に気づいたかのような顔をする。
「昼……だよな? 仕事は……?」
隣にいた女も、はっとして自分の手を見る。
「……私、ずっとここで……何してたんだっけ?」
「え、いつから……?」
市場の隅では、膝をついていた若者が息を吸い込んだ。
「……空気、うまい……」
「なんだこれ……胸が……軽い……」
街のあちこちで、同じ言葉が溢れ出す。
「俺たち……今まで、何してたんだ?」
「記憶が……抜けてる……」
恐怖より先に、困惑が来る。
昼の光が容赦なく現実を照らし、人々は自分が空白の時間を生きていたことを悟り始めていた。その光景を見て、リュミエルの胸がきゅっと締めつけられた。
(……思考が、戻ってる……)
(支配じゃない。自分で考えてる目だ……)
ロイドから街全体に張り巡らされていた見えない糸。
昼の光の中で、それが次々と断ち切られていくのが妖精の目にははっきりと見えた。
「成功してる!」
羽が、ぱっと輝く。
嬉しさと安堵が一気に込み上げた。
「レオンに……早く知らせなきゃ!」
自分の料理を口に運ぶロイドの姿を、レオンは静かに見つめていた。
歓声もざわめきも遠く、彼の意識はただ一人の男に向けられている。
ロイドの一挙一動を確かめるように視線を送りながら、レオンはゆっくりと調理台へ向き直った。そして役目を終えた指先を、布で静かに拭う。
その瞬間、淡い光がふわりと空気を揺らし彼の視界へと飛び込んできた。
「レオン!!」
弾む声。
興奮を抑えきれず、リュミエルは彼の目の前でくるくる回る。
「みんな急に止まって、周り見て、『俺たち何してたんだ』って!」
「スキルが解除され始めてる!」
レオンは、ゆっくりと目を閉じた。
昼の喧騒と遠くのざわめきが確かに生きた街の音として聞こえてくる。
「……そうか」
短い言葉。
だが、その声音には確信があった。
「……だが、まだ油断はできない」
レオンは、目を閉じたまま静かに続けた。
「俺の料理で強化されていた、ロイドのスキルがどこまで封じられたかは、まだ分からない」
ゆっくりと瞼を開き、視線を落とす。
「国全体を覆うほどの支配……それは間違いなく断ち切った」
「街の反応が、その証拠だ」
あれほど広範囲に張り巡らされていた糸は、もう感じられない。
「問題は近くにいた者たちだ」
低く、慎重な声音。
「俺の料理によって増幅されていたのは、ロイドの力の上澄みだ」
「だが、あいつ自身がもともと持っていたスキルの効果……それは、別だ」
封印は段階的に作用する。
広く薄く張られた支配ほど先に崩れる。
だが、濃く、近く、長く触れていた者ほど深く染み込んでいる
レオンの脳裏に、一人の姿が浮かぶ。
「……フローラ」
ぽつりと、その名を呼ぶ。
「彼女はロイドの一番近くにいた」
「一番長くあいつの力を浴びていたはずだ」
ロイドの支配が最も強く、最も自然に作用していた場所。
命令ではなく、当たり前として染みつく洗脳。
それは、料理一皿で完全に剥がせるほど単純ではない。
「街が戻ったからといって、すべてが終わったわけじゃない」
静かに、しかし断定的に。
「それを見誤れば……もう一度、同じことが起きる」
レオンは、深く息を吸った。
昼の空気は澄んでいて、確かに自由の匂いがする。
「あいつのすぐそばにいた者たちを、ひとりずつ見極める」
視線が、自然と王族席の方角へ向く。
「特にフローラ……彼女が、今どこまで自分でいられているか」
その確認こそが、次の一手だった。
レオンは、静かに振り返った。
そこにはユナとラースが控えている。
二人の視線が、同時に彼へ向いた。
「……今こそ、反逆の時だ」
その一言で、空気が変わる。
ユナが息を呑み、ラースは拳を握り締めた。
「反乱軍を動かす。準備はもう整っているはずだ」
レオンは一歩踏み出し続ける。
「ただし、無闇に血を流すな。これは武力で奪う戦いじゃない」
視線は、王都の街へ。
「国民たちに伝えるんだ。これまで何が起きていたのかを」
ユナが、静かに頷く。
「……ロイドのスキルによって、操られていたこと」
「自分の意思だと思わされていた時間が、嘘だったこと」
レオンは肯いた。
「命令されていたと知れば、人は怒る。だが、それ以上に……取り戻そうとする」
ラースが低く唸る。
「暴動になる可能性は?」
「ある。だけど沈黙よりはましだ」
彼は、二人を真っ直ぐに見据えた。
「人々は目覚めた直後で、疑問を抱いている」
「その疑問に、答えを与えろ」
ユナは胸に手を当て、決意を宿した目で応える。
「分かった。伝えるよ全部」
ラースも、力強く頷いた。
「そしてロイドの非道を王都全域に知らせる」
レオンは最後に、短く告げる。
「これは復讐じゃない。奪われた意思を、返す戦いだ」
その言葉を合図に、ユナとラースは走り出した。
昼の王都に、ついに真実が解き放たれようとしていた。




