シーン1:名も知らぬあの子
夜の酒場は、酔客たちの笑い声と、グラスの触れ合う音で賑わっていた。
その喧騒から切り離されたように、店の隅のテーブル席で、リーアが一人酒を飲んでいる。
頬杖をつくでもなく、誰かを待つでもない。
ただ伏し目がちにグラスを傾け、ときおり物思いに耽るように酒の水面を見つめていた。
そんな女性が一人で飲んでいるというのに、不思議と誰も声をかけようとはしない。
酔った勢いで近づこうとした男も、あと数歩というところで足を止める。
リーアが何かしたわけではない。
ちらりと視線を向けられただけで、男は気まずそうに踵を返していった。
そんな彼女のテーブルへ、酒瓶を載せた盆を片手に、小さな影が近づいてくる。
ミアラ:「いらっしゃい」
ことり、と酒瓶がテーブルに置かれた。
ミアラ:「最近、よく来るね」
その声に、伏し目がちだったリーアが顔を上げる。
そして、目の前に立つ少女の顔を見た途端、わずかに目を見開いた。
リーア:「……あれ。あんたは」
ミアラ:「やっぱり覚えてた」
ミアラは嬉しそうに、にこりと笑う。
ミアラ:「前に会ったよね」
リーアはしばらくミアラの顔を見つめた。
森の街道。
野盗に囲まれた中で、呑気にリュートを鳴らしていた小さな吟遊詩人。
見間違えるはずもない。
リーア:「……こんなところで何してんだ、あんた」
ミアラ:「バイトだよ。冒険者の仕事がなかなかなくてね」
ミアラはそう言って笑いながら、空になった酒瓶を盆の上へ載せた。
リーア:「もったいないね」
リーアは新しい酒瓶を手に取り、グラスへ酒を注ぐ。
リーア:「あんた、腕はいいのにな」
ミアラ:「ありがと」
ミアラは嬉しそうに笑い、ぺこりと頭を下げた。
リーアはそれ以上何も言わず、再びグラスへ視線を落とす。
そして、注いだばかりの酒を一口飲んだ。
ミアラ:「お酒、好きなんだね」
リーア:「……これぐらいしか、楽しみがなくてね」
グラスを指先で軽く揺らす。
中の酒が、ゆらゆらと小さく波打った。
ミアラ:「……そういえば」
何かを思い出したように、ミアラが顔を上げる。
それから少し身を屈め、リーアの耳元へ顔を寄せた。
ミアラ:「今日、レックス君も飲みに来てるよ」
リーア:「レックス君?」
その名に覚えがないのか、リーアは怪訝そうに眉をひそめる。
ミアラ:「ほら。前に、わたしたちと一緒に野盗退治した人」
ミアラはにっこり笑った。
リーア:「……ああ」
ようやく顔と名前が結びついたのか、リーアの目がわずかに細くなる。
リーア:「あいつが、レックス……そうか。ここにいるのか」
どこか含みのある声でそう呟くと、リーアはグラスを口元へ運んだ。
ミアラ:「呼んでくる?」
ミアラはにこにこしながら、リーアの顔を覗き込む。
リーア:「......いや。遠慮しておくよ」
リーアは困ったように苦笑した。
リーア:「今は、一人で飲みたい気分なんだ」
ミアラ:「そっか。じゃあ、ごゆっくり」
ミアラはそう言って微笑むと、盆を抱えてカウンターの方へ戻っていった。
リーア:「……」
リーアは、その小さな背中をしばらく目で追う。
やがて、手元のグラスへ視線を落とした。
リーア:「まさか、ここでまたあいつに会うとはね……」
どこか感慨深そうに呟くと、リーアは静かに酒を口へ運んだ。
ミアラは客たちの間を縫うように歩き、カウンターへ向かっていた。
その途中――。
ドンッ。
ふらふらと歩いてきたレックスと肩がぶつかる。
レックス:「あ、ごめん」
レックスは反射的に軽く頭を下げた。
ミアラ:「あ。レックス君」
レックス:「ん? なんだ、ミアラさんか」
聞き覚えのある声に、レックスは顔を上げる。
ミアラ:「ねえ、ねえ」
ミアラは声を潜めると、胸元で小さく指を動かした。
ミアラ:「この前の子、来てるよ」
レックス:「この前の子?」
怪訝そうに眉をひそめながら、ミアラの示した方へ顔を向ける。
店の隅のテーブル席。
そこに、一人静かにグラスを傾けるリーアの姿があった。
レックス:「……」
レックスは何も言わず、思わずその姿に見入ってしまう。
レックス:(……あれ? こんな子だったかな)
前に会ったときは、荒っぽく野盗に立ち向かっていた。
だが、今は一人でしっとりと酒を嗜んでいる。
状況が変わると、こうも印象が変わって見えるものなのだろうか。
ミアラ:「気になってるみたいだね」
横から楽しそうな声が飛んできた。
レックス:「えっ?」
振り向くと、ミアラが目を細めて笑っている。
ミアラ:「声、かけてみたら?」
レックスはもう一度、リーアへ目を向けた。
酒場の喧騒の中で、彼女だけがぽつりと取り残されているように見える。
しばらくして――。
レックス:「……やめとくよ」
レックスは視線を外した。
レックス:「別に、気になんてなってないさ」
ミアラ:「ほんとにー?」
半眼になり、じっとレックスの顔を覗き込む。
レックス:「……」
一瞬だけ言葉に詰まったが、すぐに肩をすくめた。
レックス:「それに、あの子も一人で飲みたいんだろ」
ちらりとリーアを見る。
レックス:「話しかけるなオーラが駄々漏れだ」
ミアラ:「そうだね。……でも」
今度はミアラがリーアへ目を向けた。
ミアラ:「なんか、寂しそうに飲んでるね」
レックス:「……」
再び、その視線がリーアへ戻る。
グラスを片手に、一人静かに座っている姿をしばらく見つめた。
レックス:「……そうだな」
ぽつりと呟く。
ミアラ:「じゃあ、わたし行くね」
レックス:「ああ」
ミアラは盆を抱え直し、そのままカウンターへ向かっていった。
だが――。
数歩進んだところで、ふと後ろを振り返る。
レックスはまだ、その場にいた。
頭を掻きながらリーアへ目を向けては、すぐに逸らす。
そしてまた、しばらくすると彼女を見る。
リーア:「……」
そんな視線に気づいたのか、リーアもふと顔を上げた。
二人の視線が、一瞬だけ重なる。
レックス:「……」
リーア:「……」
だが、どちらから声をかけることもない。
リーアは何事もなかったようにグラスへ視線を戻し、レックスも気まずそうに顔を逸らした。
その様子を遠くから眺めながら――。
ミアラは、そっと微笑んだ。
♢
クリスはグラスに継がれた飲み物をじっと見つめていた。
マスター:「お探しの方ではありませんでした?殿下」
コップを拭きながら、酒場のマスターが声をかけてきた。
クリス:「……まだ、わかりません。でも……」
クリスはグラスを上げた。
クリス:「彼女はただ者ではなさそうですね」
クリスはそう言ってグラスの飲み物を口にした。
バルサム卿が暗殺されてから、一か月が経つ。
クリスは、姿を消した二人の暗殺者につながる手がかりを探し続けていた。
そして数日前、この酒場に最近、怪しげな女性がよく飲みに来ているとの情報が入った。
クリス:(せっかく掴んだ手がかりだ。逃すものか)
今夜、クリスは父ジョッシュが護衛として遣わした戦士――隻腕のドワーフ、ワードックとともに、この酒場を訪れていた。
ワードック:「あ奴が、ラミアスの倅か」
クリス:「ええ。レックスさんです」
隣に座るクリスが、小さく頷く。
ワードック:「父親に似て、すっとぼけた奴じゃのう」
ワードックは低く喉を鳴らした。
だが、その目はどこか楽しそうだった。
ワードック:「もっとも――目は母親に似ておるがな」
目を細め、懐かしむように笑う。
クリス:「……それよりも、ワードックさん」
ワードック:「分かっておるよ」
その一言で、ワードックの表情から笑みが消えた。
視線の先にいるのは、レックスではない。
一人で酒を飲んでいるリーアだった。
ワードック:「あの女子……ただ者ではないな」
クリス:「わかります?」
ワードック:「己の気配を完璧に操れておるわ」
ワードックは目を細める。
ワードック:「並の者にできる芸当ではないな」
クリス:「やっぱり……」
クリスは椅子を引き、立ち上がった。
ワードック:「まあ、待つのじゃ」
リーアの方へ向かおうとしたクリスを、ワードックの声が引き止める。
クリス:「でも……」
ワードック:「奴さんが何をしに来たのか、それを確かめるのが先じゃ」
ワードックはリーアから目を離さない。
ワードック:「今は、近づかん方がええ」
クリス:「……でも」
クリスは唇を噛み、拳を強く握った。
クリス:「また、もたもたしてたら……」
ワードック:「バルサム卿のことは、おぬしのせいではない」
鋭い声が飛ぶ。
クリスの肩がぴくりと動いた。
ワードック:「急いては事を仕損じる。ここは焦らず行くのじゃ」
クリス:「……」
ワードック:「今は待て」
ワードックは静かにリーアを見据える。
ワードック:「その時は、必ず来る」
クリス:「……はい」
しばらく立ち尽くしていたクリスだったが、やがて諦めたように息を吐き、席へ戻った。




