シーン4:エルーデの亡霊
カキン、カキン――。
金属のぶつかり合う音が、静まり返った廊下の奥から微かに聞こえてくる。
レックスとクリスは足音を忍ばせ、音を頼りにバルサム卿の宿泊する部屋までたどり着いた。
扉は半ば開いている。
その隙間から部屋の中を覗くと、クインと仮面をつけた暗殺者が、激しく剣を交えていた。
クインの振るう長剣を、暗殺者が短剣で受け流す。
カキンッ。
甲高い音とともに、二人の刃が弾かれた。
レックスとクリスはすぐさま戸口から身を引き、廊下の物陰に身を潜めた。
クリス:「よかった……大佐は無事ですね」
クリスは胸を撫で下ろした。
レックス:「いや、まだ油断はできませんよ」
レックスは物陰から、二人の戦いを見つめる。
クリス:「えっ?」
レックス:「とにかく、俺は大佐の加勢に入ります」
そう言うと、レックスは部屋の奥へ目を向けた。
壁際では、バルサム卿が身を縮め、震えながら戦いの行方を見守っている。
レックス:「殿下はその隙に、バルサム卿を部屋から連れ出してください」
クリス:「分かりました」
クリスは緊張した面持ちで頷いた。
レックス:「ただし、無理はなさらないように」
レックスはクリスへ振り返ると、ふっと表情を和らげた。
レックス:「危ないと思ったら、バルサム卿を置いて逃げてください」
クリス:「……はい」
レックスは再び部屋へ目を向ける。
そして剣の柄に手をかけ、戸口へ足を踏み出した。
その時だった。
リーア:「ソフィ。どいてろ」
部屋の死角から、冷たい女の声が飛んだ。
レックスの足がぴたりと止まる。
そのまま片腕を横へ伸ばし、後ろに続こうとしたクリスを制した。
声の主が、ゆっくりと部屋の死角から姿を現す。
――その姿は、ソフィと呼ばれた暗殺者と同じ仮面とローブを身に着けていた。
クリス:「もう一人いたのか」
クリスがレックスの背中越しに覗き込む。
レックス:「……護衛をやったのは、たぶん彼女ですよ」
クリス:「えっ」
クリスが思わずレックスの横顔を見上げる。
レックスの額から一筋の汗が流れていた。
クイン:「い、いつの間に部屋に入ってきたんだ……」
クインの目が大きく見開かれる。
バルサム:「……ま、まさか、き、貴様は」
壁際では、バルサム卿が身を縮めたまま、がたがたと震えている。
ソフィ:「リ、リーア様……」
仮面の奥の表情は見えない。
だが、その声は明らかに上ずっていた。
ソフィ:「なぜ、こちらへ……」
リーアは、それに答えずゆっくりと歩み寄る。
そして、剣を構えるクインとソフィの間に立った。
次の瞬間、リーアの姿が揺らいだ。
レックス:「危ない、大佐!」
レックスの叫び声が響く。
クイン:「な、なんだ――」
クインが声の方へ顔を向ける。
だが、その時にはもう遅かった。
クイン:「ぐほっ……!」
クインの身体が大きく揺れ、その場に片膝をつく。
ゴホッ。
口元を押さえた手の隙間から、血が床へ滴り落ちた。
クイン:「な……にが……」
クインは苦しげに顔を上げる。
目の前に立つリーアの手には、いつの間にか血の付いた短剣が握られていた。
リーア:「ほう……」
仮面の奥で、リーアの目が細められる。
リーア:「今ので駄目だったか」
リーアが短剣を構え直し、クインへ一歩近づく。
レックス:「うおおおおっ!」
物陰から飛び出したレックスが、リーアをめがけて突っ込んだ。
リーアが倒れたクインへ短剣を突き出す。
カキンッ!
その刃を、レックスの剣が横から弾き飛ばした。
レックスは返す手でクインの身体を抱え上げる。
そのまま勢いを緩めることなく、正面の窓へ向かって駆けた。
クリス:「レックスさん!?」
ガッシャアアアン!
窓ガラスが激しい音を立てて砕け散る。
レックスはクインを抱えたまま窓の外へ飛び出し、二人の姿は夜の闇へ消えていった。
部屋の中に、冷たい夜風が吹き込む。
リーア:「……」
リーアは砕けた窓の前まで歩み寄ると、暗闇の底をじっと見つめた。
しかし、追うような素振りは全く見せなかった。
リーア:「相変わらず、役立たず」
背を向けたまま、冷たく言い放つ。
ソフィ:「……申し訳ございません」
ソフィは短剣を下ろし、リーアに向かって深々と頭を下げた。
ソフィ:「これ以上、お手間は取らせません」
ソフィは頭を上げた。
その姿が、ふっと掻き消える。
クリス:「――っ!」
次の瞬間、バルサム卿を連れて戸口まで来ていたクリスの目の前に、ソフィが立っていた。
ソフィ:「逃げられると思ったの?」
クリス:「くそっ……」
クリスは奥歯を噛み締め、バルサム卿を庇うように一歩後ずさる。
ソフィ:「邪魔よ」
右足が、鞭のようにしなった。
ドガッ!
クリス:「うわっ!」
横薙ぎの蹴りをまともに受け、クリスの身体が木の葉のように吹き飛ぶ。
そのまま床へ叩きつけられ、何度も転がった。
バルサム:「ひっ……」
取り残されたバルサム卿が、小さく息を呑む。
足を震わせながら、目の前に立つ暗殺者を見上げた。
クリス:《雷よ》!
床に倒れたまま、クリスが片手を突き出す。
バチンッ!
眩い稲光が、ソフィとバルサム卿の間を切り裂いた。
ソフィ:「……しつこい坊やだね」
ソフィはうんざりしたようにクリスへ顔を向けると、ゆっくりと歩み寄っていく。
クリス:「に……逃げて……」
浅い息を繰り返しながら、クリスはバルサム卿へ必死に訴えた。
だが、バルサム卿はぶるぶると首を振るばかりだった。
腰が抜けたように、その場から一歩も動けずにいる。
ソフィ:「無駄よ」
冷たく言い放ち、ソフィはクリスの傍らに立った。
そして、起き上がろうとするその背中を、ブーツの底で容赦なく踏みつける。
クリス:「ぐわああっ!」
クリスの悲鳴が、部屋の中に響き渡った。
バルサム卿は震えながら、その光景を見つめている。
そのとき、彼の前に黒い影が差した。
怯えた顔で、バルサム卿がゆっくりと振り返る。
そこには、リーアが立っていた。
バルサム:「……亡霊どもが」
バルサム卿は、長年抱き続けてきた畏怖をにじませながら、リーアを睨みつけた。
リーア:「亡霊か」
リーアは、ふっと鼻で笑う。
リーア:「確かに、エルーデなどもうない国だ」
肩をすくめ、バルサム卿を見据える。
リーア:「ない国の亡霊なんぞを、なぜ恐れる」
バルサム:「ぐっ……」
バルサム卿の喉から、押し殺したような呻き声が漏れた。
バルサム:「……貴様らは、脅威そのものなのだよ」
唇を震わせながらも、その目はリーアを睨み続けている。
リーア:「だから、黙って死ねというのか」
リーアは静かに言い放った。
リーア:「嫌だね」
そう言って、一歩前へ出る。
バルサム:「……そうか。だが、私が死ねばロールブレアが動く」
恐怖に引きつったバルサム卿の口元に、わずかに歪んだ笑みが浮かぶ。
その言葉に、床へ伏せていたクリスの指がぴくりと動いた。
バルサム:「ロールブレアには――アーポットがいる。貴様らは――」
リーア:「そうかい」
リーアの右手が閃いた。
クリス:「やめろ!」
クリスの叫びが飛ぶ。
だが、短剣はすでにバルサム卿の胸を深々と貫いていた。
クリス:「……ああ」
クリスの喉から、かすれた声が漏れる。
薄れゆく意識の中、リーアがバルサム卿の胸から短剣を引き抜く姿が見えた。
力を失ったバルサム卿の身体が、ゆっくりと床へ崩れ落ちる。
その姿を最後に、クリスの視界は暗闇に閉ざされた。
リーアは短剣についた血を振り払い、腰の鞘へ納めた。
ソフィ:「この坊やは、どうします?」
気を失ったクリスの背中を踏みつけたまま、ソフィが問いかける。
リーア:「捨ておけ。問題ない」
ソフィ:「しかし……」
リーア:「あいつが戻る前に、ここを出るぞ」
ソフィ:「あいつ?」
ソフィは訝しげに眉を寄せた。
リーアは、壊れた窓へ目を向ける。
リーア:「さっき、そこから出ていった奴だ」
ソフィ:「奴が、戻ってくると?」
リーア:「……」
リーアはわずかに目を伏せた。
リーア:「あいつは、お前の手に負える相手じゃない」
そう言って、窓へ向かって歩き出す。
リーア:「このあたしやアーツマンでも、手を焼くだろうな」
ソフィ:「……」
ソフィはクリスの背中から足を退けたものの、その場を動こうとはしなかった。
リーアは窓際まで来ると、足を止める。
リーア:「帰るぞ」
振り返らないまま、少し苛立った声で告げた。
ソフィ:「帰れません」
リーア:「……なに?」
ソフィ:「私はこの国に残り、次のご指示を待ちます」
ソフィはその場で、恭しく頭を下げた。
リーア:「あたしの指示が聞けないのか」
リーアの声には、なおも苛立ちが残っている。
ソフィ:「そうではございません」
ソフィはわずかに頭を上げた。
ソフィ:「あの男が連れていった護衛は、バルサムからヴィクター隊長のことを聞いております」
そこで初めて、リーアは振り返った。
ソフィの姿を、じっと見据える。
やがて、その視線が裂けたローブの袖口で止まる。
黒い布には、傷口から滲んだ血がじっとりと染み込んでいた。
リーア:「あとは、あたしがやる。お前は帰れ」
ソフィ:「……しかし」
なおも言葉を続けようとするソフィを、リーアは片手を上げて制した。
そのとき――。
廊下の向こうから、こちらへ駆けてくる足音が響いてきた。
リーアの目が、鋭く戸口へ向く。
リーア:「行くぞ」
ソフィ:「……はい」
リーアが窓枠へ足をかけ、そのまま外の闇へ身を躍らせる。
ソフィも一度だけ倒れているクリスを振り返ると、その後を追った。
二人の姿が闇の中へ消えて、間もなく――。
勢いよく扉が開いた。
レックス:「殿下!」
部屋へ駆け込んできたレックスは、床に倒れているクリスを見つけると、すぐさまその傍らへ膝をついた。




