シーン3:運命の夜は、始まったばかり
店内に響き渡るミアラの歌声は、もはや暴風のようだった。
空気を震わせ、鼓膜を容赦なく打ち据えるその歌声が、レックスたちのテーブルにも襲いかかる。
マイケル:「あ、あばばば……! ミアラさんだああああ! ミアラさんが歌い始めやがった……っ!」
ピート:「誰だぁ! どこのどいつがミアラさんに歌わせたんだよぉ……!」
二人は必死に耳を塞ぎ、椅子から転げ落ちて床をのたうち回っている。
レックス:「ははっ、大袈裟なんだよ、お前ら。少しは落ち着けって」
苦しむ二人を横目に、レックスは愉しげにグラスを傾け、琥珀色の酒を喉へ流し込んだ。
マイケル:「……っ、お、お前……正気かよ」
涙目で耳を押さえながら、マイケルは信じられないものを見るようにレックスを見上げる。
マイケル:「……なんともないのか!?」
レックス:「ああ、別に」
レックスはそよ風でも受けているかのような涼しい顔で、あっさりと答えた。
レックス:「何度か聞いてるうちに、もう慣れちまったよ」
ピート:「……慣れるか!」
吐き捨てるように言ったピートの顔は、苦痛で青ざめていた。
レックス:「まあ、うまい歌とは言えないけどさ」
レックスは慣れた手つきで、再びグラスを酒で満たしていく。
レックス:「聴けば聴くほど、こう……独特の味があっていいじゃないか」
そのとき、フードを目深に被ったリーアが、凛とした足取りでレックスの背後を通りかかった。
レックス:「なあ、君もそう思うだろ?」
同意を求めるように、レックスは手にしたグラスを掲げてみせた。
リーア:「……そうね」
リーアはわずかにレックスへ顔を向けただけで、足を止めることなく出口へと向かっていった。
ピート:「……とんでもない子だ」
息も絶え絶えに呟くピートをよそに、レックスは目を細めた。
店中を揺らすミアラの歌声など気にも留めていないかのように、リーアは変わらぬ足取りで扉へ向かっていた。
レックスはしばらく、その後ろ姿を呆然と見送っていた。
だが――
レックス:「……えっ?」
レックスはハッと目を見開いた。
レックス:「あの子、金を払ってない!」
レックスは慌ててグラスをテーブルへ置くと、リーアを追って店を飛び出した。
ワードック:「こりゃ、たまらんわい……」
ワードックは片手で頭を押さえ、苦しそうに顔をしかめる。
クリス:「そうですね……あっ」
クリスも冷や汗を浮かべながら答えたが、店を出ていくリーアとレックスの姿を見逃さなかった。
クリス:「行きましょう」
ワードック:「うむ」
二人もすぐに椅子から立ち上がり、後を追うように出口へ向かった。
酒場を飛び出したレックスは通りへ出ると、すぐさま左右を見渡した。
レックス:「……いた」
少し先を歩いていくリーアの背中を見つけ、レックスは小走りで後を追う。
レックス:「君! 金を払ってないぞ!」
足早に遠ざかる背中へ向かって、大声で呼びかける。
その声を聞いたリーアは、フードの奥でニヤリと口元を歪めた。
そして振り返ることもなく、突然走り出す。
レックス:「おい、待てよ!」
レックスも慌てて地面を蹴り、その後を追った。
リーアの姿が、通りの角へ消える。
一足遅れてレックスも角を曲がったが――そこにリーアの姿はなかった。
レックス:「……追いつけないとはな。ずいぶんすばしっこい奴だ」
レックスは足を止めて辺りを見回したが、人影一つ見つけられない。
悔しそうに眉をひそめ、リーアが消えた路地の奥をしばらく睨んでいた。
クリス:「代金なら、さっき小人族の給仕さんに渡していましたよ」
背後から聞こえてきた声に、レックスが振り返る。
酒場のほうから、クリスとワードックがゆっくりと歩いてきていた。
クリス:「レックスさん」
レックス:「……殿下?」
思いがけない人物の姿に、レックスは驚いたように目を丸くする。
レックス:「また城を抜け出してきたんですか?」
腰に手を当て、呆れたようにクリスを見つめる。
クリス:「今日は一人じゃないですよ。連れもいますし」
クリスが隣へ目を向ける。
レックスとワードックは、互いに軽く会釈を交わした。
クリス:「彼女とは知り合いなんですか?」
レックス:「知り合いってほどでもないんだけど……」
レックスは視線を泳がせながら、後頭部を掻いた。
わずかに赤らんでいる頬も、どうやら酒のせいだけではなさそうだ。
レックス:「旅の途中で、ちょっと会っただけさ」
クリス:「本当ですかぁ?」
クリスが疑わしそうな目で、レックスの顔をじっと見つめる。
レックス:「本当だって。それより――」
その視線から逃れるように、レックスは腕を組み、リーアが消えた通りの先へ目を向けた。
レックス:「金を払ってたなら、なんで逃げたんだろう」
クリスはそんなレックスの顔を覗き込んだ。
クリス:「さあ……」
その口元に、にやりと笑みが浮かぶ。
クリス:「あなたをからかったんじゃないですか?」
レックス:「俺をからかったぁ?」
レックスは不満そうに顔をしかめた。
やがて小さく息を吐くと、再び通りの先を見つめる。
レックス:「なんで、そんなことするんだよ……」
納得がいかない様子で呟くレックスのそばへ、クリスがそっと顔を寄せた。
クリス:「あなたが声をかけなかったからですよ」
レックス:「えっ?」
驚いて振り返る。
だが、クリスは何も言わず、にこりと笑っているだけだった。
クリス:「それでは、僕らはこれで」
レックス:「この前みたいに、危険なことはしないでくださいよ」
釘を刺され、クリスは困ったように苦笑いを浮かべる。
クリス:「気をつけます」
クリスは軽く頭を下げると、ワードックとともに通りを歩いていった。
レックスは二人の後ろ姿を見送ってから、酒場へと戻っていった。
♢
通り沿いの建物。
その屋根の上から、リーアは酒場へ戻っていくレックスの後ろ姿を眺めていた。
レックスが店内へ入り、酒場の扉が閉まる。
それを見届けると、リーアは満足そうに微笑んだ。
リーア:「ふう……やはり、あいつは面白いな」
リーアは夜空を見上げ、穏やかな表情で呟く。
リーア:「……あいつとなら、美味い酒が飲めるかな」
その光景を思い浮かべるように、リーアは夜空を眺めていた。
しばらくすると、何者かの気配を感じ取り、わずかに肩を落とす。
しかし、すぐにその表情を険しくした。
リーア:「来たか」
リーアが視線を向けた先へ、五つの影が次々と舞い降りた。
いずれもリーアと同じようにフードを目深に被り、腰には二本の短剣を提げている。
五人の男たちはリーアの前に片膝をつき、揃って頭を下げた。
リーアは彼らの姿を、一人ずつ確かめるように見据えていく。
リーア:(こいつらが、ソフィの代わりか)
身のこなしを見るかぎり、よく鍛えられた精鋭であることは間違いない。
リーア:「相手はソフィに深手を負わせたクインだ。油断するなよ」
リーアが低い声で告げる。
影の男たち:「おう」
五人の声が短く重なった。
そのうちの一人が、リーアの前へ進み出る。
リーア:「どうした?」
影:「ヴィクター様から、言伝を預かっております」
リーア:「言伝?」
リーアは首を捻った。
影:「死にたくなかったら、まだアーポットとは戦うな、と」
リーア:「……そうか」
リーアはわずかに顔を伏せた。
フードの奥で、その口元にかすかな笑みが浮かぶ
リーア:「行くよ」
影の男たち:「おう」
リーアは屋根を蹴り、通りへ飛び降りた。
外套をひるがえしながら、何事もなかったように音もなく着地する。
五人の男たちも次々と屋根から飛び降りると、リーアの後に続いて通りを歩き始めた。
その一行を、建物の物陰からクリスとワードックが見つめていた。
ワードック:「つけるのか?」
ワードックが声を潜めて尋ねる。
クリス:「そのために来たんです」
クリスはリーアたちの背中を見据えたまま答えた。
一行が通りの奥へ進むのを待ってから、クリスとワードックも物陰を離れ、その後を追っていく。
運命の夜は、まだ始まったばかりだった。




