第3話 小国の姫とお忍びの紳士の相逢
数千人程度しかいないこのアルヴァニア王国には、壮麗な宮殿など存在しない。王家の暮らしは古びた屋敷で営まれ、壁の漆喰は剥がれ、廊下の絨毯には継ぎ接ぎが目立っていた。かつての栄華を思えば、今は寂しい限りだった。
リュリアは中庭で桶を抱え、洗濯物を干していた。
この小国では人手が足りない。王族であっても、出来ることは自ら手を動かすしかないのだ。
「わー!ちょ、ちょっと姫様!!」
慌てた声に振り返ると、若い侍女エリーが手に持った箒を振りかざすように駆け寄ってきた。
リュリアは微笑み、濡れた手を布で拭いながら挨拶する。
「あら、エリー。おはよう」
「姫様は……ほんとに朝が早すぎます!もう少し王族らしく、ゆっくり寝ていてくださいませ!」
エリーは息を切らし、リュリアの手から雑巾を取り上げて、呆れたように肩を落とした。
「うふふ、ごめんなさい。でもね、身体が勝手に起きてしまうのよ」
国庫は空に近く、兵の鎧は擦り切れ、薬も食糧も足りない。
民は困窮し、時には些細なことで争いも起きる。
父王は帳簿に頭を抱え、病床の母は日ごとに弱っていく――。
けれども、そんな現実を前にしても、リュリアは決して下を向かなかった。
父が項垂れているときには温かな紅茶を淹れ、母には健康を第一に考えた料理を自ら作り、街に出れば民の小さな喧嘩でも仲裁に入った。
「姫様は……本当に、いつもそうなんだから」
エリーは小さく呟き、けれど目元はどこか誇らしげに緩んでいた。
厳しい国の暮らしの中で、リュリアの明るさと柔らかな声だけが、人々にとって救いだった。
やがて、屋敷の奥から足音が聞こえてきた。
父ダニエルと母イザリーヌが起きてきたのだ。
リュリアとエリーは慌ただしく準備していた食事をテーブルに並べていく。
焼きたての黒パン、ハーブで香りづけした野菜のスープ、塩気のきいたチーズ。豪華と言うには程遠いが、この国では貴重なご馳走だった。
母の専属侍女であるマリアナが、病弱なイザリーヌを車椅子で引きながら食堂へ入ってくる。白いナイトキャップの下から覗く母の顔色はまだ薄いが、それでも微笑んでいた。
家族が揃い、質素ながらも温かな朝食の時間が始まる。
それはアルヴァニア以前に家族として、何よりも大切な日課だった。
「さて、リュリア」
パンを手にしたダニエルが、真面目な声で口を開く。
「昨晩の舞踏会は……どうだったのだ?」
リュリアはパンをちぎった指を止め、硬直する。
目の前のスープの中で、人参がやけに鮮やかに見えた。
「え、ええと……あの……」
背筋を伸ばして作り笑いを浮かべる。
「至って普通の……舞踏会でしたわ!」
リュリアの妙に区切られた答えに、食卓の空気が一瞬止まった。
その時、エリーが思い出したように口を挟む。
「そういえば門番のディンスが言ってましたよ。姫様、行きに着ていったドレスと違う服で戻られたって!」
「……っ!」
リュリアはスプーンを落としそうになり、ダニエルはパンを握ったまま固まった。
「ち、違う服で……!?」
焦った声が食堂に響く。
「まぁ……!」
イザリーヌは両手を合わせ、ぱっと顔を輝かせた。
「誰かがリュリアに新しいドレスを? まぁまぁ、なんて素敵なことでしょう」
「そ、それは……っ」
リュリアはしどろもどろに視線を泳がせる。
「こら、余計なことを」
エリーが背後からマリアナに小突かれ、ぺろっと舌を出す。
リュリアはそんなエリーに視線を送りながら、スープに顔を近づけて必死に赤みを隠す。
ダニエルは腕を組み、じっとリュリアを見据えた。
「……リュリア。本当に“普通”だったのか?」
鋭い眼差しに射抜かれ、リュリアは背筋をピンと伸ばす。
「ふ、ふふ、普通でしたわ!ええ、普通中の普通!これ以上ないくらいに、普通でしたの!」
勢いよく断言したものの、耳まで赤くなっているのは隠せない。
父はまだ疑いの目を残しつつも、パンをもそりと噛んだ。
一方で、母イザリーヌは楽しげに微笑んでいた。
「まぁ、“普通”の舞踏会でよかったわねぇ。でも“普通”の舞踏会で、誰かに新しいドレスを用意してもらえるなんて……。ふふ、とっても素敵な“普通”の舞踏会だったのねえ」
「……っ!」
リュリアは紅茶を飲もうとしてむせそうになり、エリーが慌てて背をさする。
マリアナはそんな様子を見て、静かにため息を落とした。
「……姫様も奥様も、朝から賑やかでございますね」
ダニエルはパンをちぎりながら、深いため息をついた。
「はぁ……。確かに、婚約者の一人くらい見つけて欲しいとは言ったが……。もし、もしだぞ、一線を超えたなんて話があれば――」
「断じて超えてませんわ!!」
リュリアは食い気味に、力いっぱい言い切った。
その声の圧に、食卓の空気がしんと静まり返る
「……あ…」
沈黙に気づいたリュリアは、はっとしてこほんと咳払いをし、慌てて言葉を継いだ。
「ふ、服が……破けてしまったところを……お優しい方が助けてくださっただけですわ!それ以上でも、それ以下でもございません!」
勢いよく立ち上がると、スカートを揺らして食堂の扉へと向かう。
「本当に……ほんっとうに、なんでもありませんから!!」
そう吐き捨てるように言い残し、リュリアはばたんと扉を閉めて退出した。
残された食堂には、一瞬の静寂のあと、イザリーヌのくすくすとした笑い声が広がった。
「なんでもないと言う割には……あんなに顔が真っ赤なのねぇ」
その言葉に、ダニエルは机に肘をつき、手のひらで顔を支えながらやれやれと重いため息を落とした。
廊下を早足で抜け、リュリアは自室へと戻ってきた。
扉を閉めるなり、背をぴたりと扉に預け、肩で息をつく。
昨日のやり取りが、ぶわっと頭の中に広がった。
慌てて首を左右に振り、両手で頬をぺちぺちと叩く。
「……おちつきなさい、リュリア……」
深呼吸をひとつ。
胸に手を当て、必死に言い聞かせる。
――あれはただの、優しい紳士様。
粗相をしでかしたわたくしを、哀れに思って助けてくれただけ。
きっと、そうに決まっている。
けれど。
必死に理屈を並べても、胸の奥に宿った熱は一向に消えてくれなかった。
夜風の中で交わした言葉と、あの琥珀の瞳が、何度も鮮やかに甦ってしまうのだ。
――ただの同情に過ぎないわ。
そう自分に言い聞かせる。
けれど婚約の言葉を思い出すたび、胸の奥がざわめく。
冷静でいたいのに、心は勝手に揺らいでしまう。
「……まぁ、悩んでいても仕方ありませんわね」
リュリアは小さくため息をつき、首を振った。
気持ちを切り替えるように、鏡の前に座って髪を梳かし始める。
数日後の朝。
いつものように早起きして支度をしていると、エリーが足音も軽やかに駆け込んできた。
「姫様!お手紙が届きました!」
差し出されたのは、見慣れない上品な封筒だった。
リュリアが受け取って封を切ると、中には短い手紙が一枚。
――今度、そちらにお伺いします。
丁寧で端正な筆致でそう綴られており、最後にはカルよりと添えてある。
瞬間、リュリアの心臓が再び早鐘を打ち始めた。
「……っ」
手紙を握る指先まで熱を帯びてしまう。
横から覗き込んだエリーが、口に手を当ててぱっと目を丸くした。
「あら!そちらが……例の方ですか?」
「ち、違いますわ!!」
リュリアは慌てて手紙を背に隠す。
だがエリーはにやにやと笑みを浮かべたまま、赤茶色の髪を揺らして首を傾げた。
「ふふ……違わない顔してますよ、姫様」
「か、からかわないでくださいまし、エリー!」
リュリアは頬を赤くしながらぴしりと声を上げた
だがその日から、屋敷の中は大忙しとなった。
エリーとマリアナは箒と雑巾を手に、屋敷中を隅から隅まで磨き上げる。
床はつやつやに光り、窓はまるで鏡のように澄み渡り、さらには庭木の剪定にまで手を伸ばした。
「ちょ、ちょっと……やりすぎなのではなくて?」
リュリアが不安そうに声を掛ければ、マリアナはきっぱりと言い切った。
「いいえ。これくらい当然でございます」
館はまるで新品のごとく輝きを放ち、かつて見たことのないほど整えられていった。
さらに、リュリアの身支度にまで二人の熱は注がれた。
ドレスを広げては「これが似合う」と言い、別の布を持っては「いや、こちらのほうが」と言い合う。
アクセサリーは何色が映えるか、髪飾りはどちらが上品か。議論は止まらず、リュリア本人を放っておいて二人で勝手に盛り上がる。
「……あ、あの、本当にそこまでしなくても……」
おずおずと口を挟んだリュリアに、エリーがきらきらした目で振り返った。
「いいえ、姫様!まだまだ足りないくらいですよ!」
リュリアは苦笑を浮かべ、椅子にちょこんと座り込んだ。
彼女の意志など置き去りに、屋敷は刻一刻と“特別な日”のために整えられていくのだった。
そして当日がやってきた。
リュリアは朝から身支度を整えられ、落ち着かないまま椅子に座っていた。
エリーとマリアナが甲斐甲斐しく世話を焼いたおかげで、控えめながらも優美なドレスに身を包み、髪には繊細な飾りがあしらわれている。
鏡に映る自分の姿が、少しだけ見慣れない。
やがて、屋敷の門の前に馬車が停まった。
御者が扉を開けると――あの時の青年、カリオンが姿を現した。
舞踏会での整った礼服姿とは違い、今日はお忍びらしくラフな装い。
きっちり整えられていた髪はわずかに崩され、柔らかな雰囲気をまとっている。
同じ人であるはずなのに、その姿はまた違ったときめきをリュリアの胸に灯した。
「まあまあ……!」
隣で出迎えていたイザリーヌは、まるで少女のように目を輝かせる。
一方、ダニエルはその輝きに唖然とし、思わず口をぽかんと開けてしまっている。
カリオンは二人に向かって深く頭を下げ、礼儀正しく挨拶をする。
「本日はどうぞよろしくお願いいたします」
その声音に、場の空気は自然と整えられていく。
だが、ダニエルはふと眉をひそめた。
「……どこかで見たことがあるような……?」
顎に手を当ててじっと青年を見つめた。
カリオンは穏やかに微笑みながらも、さらりとかわすように視線を落とす。
カリオンはリュリアに伴われ、屋敷の庭へと歩みを進めた。
ダニエルとイザリーヌは互いに目を合わせ、にっこりと笑ってから二人に気を遣うように「ごゆっくり」と席を外した。
風がそよぎ、柔らかく枝葉を揺らす。
木々の間からこぼれる光が、石造りの小さなテーブルを斑に照らし、その上に置かれたティーセットの銀縁をきらきらと反射させていた。
エリーが用意した紅茶の香りが、涼やかな空気に混じって漂う。
カリオンはカップを手に取り、ひと口含む。
そして微笑を浮かべながら、静かに口を開いた。
「……素敵なところですね」
リュリアは緊張のあまり、紅茶のカップを持つ手がわずかに震える。
けれど、すぐに表情を整え、少し視線を逸らしながら答えた。
「と、とんでもありませんわ。帝都に比べれば……全然及びません。ですが――」
一度息を整え、カップをそっと置く。
目を細めると、庭を吹き抜ける風が栗色の髪を揺らし、淡い笑みが浮かんだ。
「わたくし、この場所が好きなのです」
リュリアの言葉に、カリオンは静かに目を細めた。
庭を渡る風が二人の間を抜け、木々の葉がさらさらと音を立てる。
「……そのお気持ちが、とてもよく伝わります」
カリオンの声は穏やかで、それでいて不思議な温かさを帯びていた。
庭の風に髪を揺らしながら、青年は紅茶のカップを静かに置いた。
「そういえば、きちんと自己紹介もしておりませんでしたね。私は――カリオン・バレリオ。オルディス帝国で……まぁ、貴族をしております」
言葉の途中でわずかに間があり、どこか誤魔化すような響きがあった。
リュリアは少し首を傾げつつも、慌てて自らも名乗る。
「わ、わたくしは……リュリア・アルヴァニア・エルディナと申します」
正式な名を告げたリュリアに、カリオンは目を細め、優しい声を落とした。
「美しいお名前ですね。よろしければ、少し親しみを込めて“リュリー”とお呼びしても?」
突然の申し出にリュリアは頬を染め、視線を泳がせる。
小さく頷くと、カリオンは心から嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとう、リュリー。では、私のことはこれからもカルと呼んでください」
「……はい、カル様」
ぎこちない声でそう答えると、胸の奥がじんわりと熱を帯びるのを感じた。
やがてカリオンは椅子から立ち上がり、庭の光を背にして彼女に向き直る。
「もしよろしければ、この街をご案内いただけませんか?」
胸が弾むのを抑えきれず、リュリアもすぐに立ち上がる。
「………はい、喜んで」
カリオンは自然な仕草で手を差し伸べた。
リュリアは一瞬ためらったが、次第に頬を染めながら、その手にそっと自分の手を重ねた。
温もりを感じた瞬間、心臓が大きく跳ねる。
カリオンの瞳はただ穏やかに細められ、安心を与えるような微笑が浮かんでいた。
二人は並んで屋敷を出る。
その時、エリーが慌てて駆け寄った。
心配そうに眉を寄せ、太陽が煌々と照りつける空を見上げて両手で日傘を差し出す。
姫の肌を守ろうとする侍女としての真心がこもっていた。
だが――カリオンはその手をそっと制し、代わりに自らの手に持っていた帽子を差し出した。
淡い紫の布に繊細なレースをあしらい、小花のブローチが添えられた、上品で可憐な帽子。
エリーは思わず息を呑み、瞳を丸くする。
日傘をそっと胸元へ引き戻すと、控えるように一歩下がった。
「リュリーに似合うと思って。よければ、身につけていただけませんか?」
帽子を受け取り、そっと頭にのせる。
カリオンは満足そうに微笑んだ。
「……ええ、本日の装いとよくお似合いです」
その言葉に、リュリアは帽子のつばをぎゅっと握り、真っ赤になった顔を隠す。
横でその様子を見ていたエリーは、微笑ましそうに目を細めていた。
はっと気づいたリュリアは、慌ててカリオンとともに馬車へ乗り込もうとした。
その直前、振り返ってエリーに声をかける。
「い、いってきますわ!」
エリーはにっこり笑みを浮かべ、日傘を胸に抱きながら小さく頭を下げた。
「行ってらっしゃいませ、姫様」
その言葉に背を押されるようにして、リュリアはカリオンと共に馬車へと乗り込む。
扉が閉じ、蹄の音が石畳を叩き、屋敷を離れていった。




