第21話 1秒の侵心
第21話です。
分断された先で始まった、それぞれの戦い。
今回描かれるのは、ひかりとハヤトの前に現れた敵との対峙です。
力の強さだけでは押し切れない相手。
むしろ、心の揺らぎや迷いそのものを突いてくる厄介な敵。
明るく前に出るひかりと、後ろから支えるハヤト。
これまで自然に噛み合っていた二人の形が、ここで初めて強く試されることになります。
見えているはずなのに、届かない。
そんな不穏さごと、楽しんでいただけたら嬉しいです。
斜面の土は、思ったより柔らかかった。
踏みしめた足がわずかに沈み、ひかりは反射的に重心を引き戻す。止まったつもりでも、細かな砂と小石が靴底の下でさらさらと流れ続けていた。
足場が悪い。
それだけで、いつもの自分の動きがほんの少しずつズレる。
ひかりは息を整えながら、視線を上げた。
目の前に立っているのは、細身の男だった。
木々の間から差し込む光が、その輪郭を斑に照らしている。肩の力は抜けていて、構えらしい構えも見えない。片手をポケットに入れたまま、こちらを値踏みするみたいに見ていた。
軽い。
雰囲気だけなら、ひどく軽い。
なのに、そこから目を離してはいけないと本能が告げている。
「二対一か」
男が口元を歪めた。
「不公平って言ってほしい?」
ひかりは眉をひそめる。
「言わない」
自分でも思ったより強い声が出た。
「だよね」
男は笑った。
「君、そういう子だと思った」
その言い方が、妙に癪に障る。
ひかりは一歩前へ出た。
その動きに合わせて、隣でハヤトも半歩だけ位置をずらす。直接前に出るわけではない。ひかりの動線を邪魔しない角度。退路も、援護も取れる位置。
視界の端で、その動きを確認する。
いつも通りだ。
訓練でもそうだった。ひかりが前へ出て、ハヤトが後ろから全体を見る。別に最初から約束していたわけじゃないのに、自然とそうなる。
相性は悪くない。
少なくとも、そう思っていた。
「雨宮」
ハヤトが低く言う。
「様子見から入る。真正面はまだ――」
「分かってる」
ひかりは短く返した。
本当は、完全には分かっていなかった。
正確に言えば、分かっていても、じっとしているのが苦手だった。
何も分からない相手だからこそ、一度ぶつかってみたい。そうしないと、距離感も、危険度も、何も掴めない。
ひかりは足裏に力を込める。
脚部モジュール《スパークル・ダンサー》が、わずかに光った。
次の瞬間。
ドンッ、と地面が鳴る。
ひかりの身体が前へ弾けた。
いつも通りの初速。
足首から脛に沿って装着されたフレームが反発を真っ直ぐ返し、加速をきれいに押し出してくる。風が頬を打つ。斜面の不安定さを補正しながら、身体が最短距離を選んでいく。
速い。
自分でもそう思う。
この距離なら、普通は見てから反応できない。
男の顔が、目の前まで一気に近づく。
(もらった!)
拳に光が集まる。
打ち込む。
その瞬間だった。
男の目が、笑った。
「見つけた」
耳元で、誰かがそう囁いた気がした。
「――っ!?」
拳が止まる。
いや、止まったんじゃない。
目の前の男の顔が、一瞬だけ別のものに見えた。
泣いている、小さな背中。
雨の音。
暗い廊下。
自分が何も言えなかった夜。
それは一瞬だった。
本当に、瞬きひとつ分にも満たない。
なのに。
ひかりの拳は、確かに遅れた。
男の身体が、紙一重でその軌道から外れる。
空を切った光が、岩肌をかすめて弾けた。
「っ、な……!」
着地しながら、ひかりは自分の呼吸が乱れていることに気づく。
今のは何だ。
何を見た。
男は数歩後ろへ下がっただけで、こちらを面白そうに見ている。
「へえ」
笑みが少し深くなる。
「本当に残ってるんだ」
「……何が」
問い返すひかりの声は、思ったより低かった。
「嫌なやつ」
男は肩をすくめる。
「見ないふりして、明るくして、上に塗ってるやつ」
心臓がひとつ、嫌な打ち方をした。
ひかりの眉がぴくりと動く。
「……意味分かんない」
「分かるでしょ」
男の声音は、妙にやさしかった。
だからこそ、余計に気持ち悪い。
「だって今、止まったじゃん」
言い返せない。
止まった。
それは事実だった。
あの距離で、あの速度で、打ち込めると思った。なのに拳が遅れた。身体より先に、心のどこかが引っかかった。
「雨宮!」
ハヤトの声。
その直後、男の横合いの岩へ何かが突き刺さる。細い発光体。ハヤトが投げた簡易制御針だった。
小型だが、アフェクト流路を乱して一瞬だけ体勢を崩す補助器具だ。純粋な武器というほど強いものじゃない。だが、相手の動きを切るには十分な場合もある。
男はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「そっちが頭脳役?」
ハヤトは答えない。
視線だけで、ひかりの立ち位置と男の重心を確認している。
「今の何をされた?」
「……分かんない」
ひかりは歯を食いしばる。
「でも、一瞬……変なの見えた」
「幻覚系か」
ハヤトの声が低くなる。
男が楽しそうに笑う。
「幻覚って言い方、浅いな」
「じゃあ説明してくれよ」
「やだ」
即答だった。
その軽さが、逆に怖い。
ハヤトは小さく舌打ちした。
「雨宮、距離を詰めすぎるな。目を合わせるな」
「分かった」
返事をしながら、ひかりは自分の拳を握り直す。
少しだけ、震えていた。
(落ち着け)
大丈夫。
今のは不意を突かれただけだ。
次は食らわない。
そう思うのに、胸の奥のざわつきは消えない。
男が片手をひらひら振った。
「もう来ないの?」
「黙ってろ」
ひかりは吐き捨てた。
その一歩で、もう一度踏み込む。
今度はさっきより角度をつける。真正面からじゃない。斜め。視線を正面から外しつつ、死角寄りへ滑り込む。
《スパークル・ダンサー》が接地を補正し、崩れかけた斜面でも加速を殺さない。
右。
左。
一瞬で切り返し、拳ではなく蹴りへ変える。
光が足先へ走る。
だが、男の表情は変わらない。
「明るい子ほど、怖がりだよね」
その一言と同時に。
ひかりの視界が、また揺れた。
今度ははっきり見えた。
暗い教室の隅。
笑っている自分。
笑っているのに、誰にも気づかれないように爪を立てていた掌。
声が、重なる。
大丈夫だよ。
平気平気。
私、そういうの気にしないから。
全部、自分の声だ。
「――っ、うるさい!」
叫ぶように蹴りを振り抜く。
だが、軌道が荒い。
男は半歩ずれただけで回避した。
着地と同時に、ひかりの身体がぐらつく。
その瞬間だった。
カラン、と乾いた音が鳴った。
斜面を、透明な小球がひとつ跳ねる。
ガラスのように光を弾く、丸い小さな玉――ビー玉だった。
「な……?」
ひかりの目がそちらへ向く。
男が、さっきまでポケットに入れていた手をゆっくり引き抜いていた。指の間には、同じ透明な玉がいくつも挟まっている。
次の瞬間、男はそれを軽く弾いた。
カラン。
カラン。
カラン。
複数のビー玉が斜面を転がり、土と石の間を縫うように散らばっていく。
「雨宮!」
ハヤトが前へ出る。
その瞬間、男の視線が今度はハヤトへ向いた。
「君は優しいね」
ハヤトの足が止まる。
男は笑っていた。
「でも、君みたいなのって一番分かりやすい」
声が、近い。
距離はあるはずなのに、耳元で囁かれているみたいに聞こえる。
「一人じゃ戦えないと思ってるでしょ」
ハヤトの表情がわずかに変わった。
「……何」
「違う?」
男は首を傾げる。
「後ろから見て、支えて、危ない時だけ手を出して、それが自分の役割だって」
「そんなふうに決めてないと、前に出る理由が持てない」
ハヤトの喉が、かすかに鳴る。
ひかりがそれに気づく。
(……ハヤトくん?)
今まで見たことのない顔だった。
怒っているわけでも、焦っているわけでもない。
ただ、一番触れられたくない場所を見つけられた人間の顔。
「黙れ」
ハヤトが言う。
だが、その声にはいつもの切れ味がない。
「お、図星?」
男が笑う。
「いやでも、悪いことじゃないよ。向いてることやればいい」
「無理して前に出なくてもさ」
その言葉は、慰めみたいな形をしている。
だから余計に腹が立つ。
「……黙れって言ってんだろ」
ハヤトがもう一度言う。
今度は、少しだけ低かった。
だが男は楽しそうに肩を揺らしただけだ。
「いいね」
「そっちも綺麗に残ってる」
ひかりは唇を噛んだ。
この敵は強い。
ただ強いんじゃない。
心の中へ手を入れて、最も嫌な場所だけを撫で回してくる。
攻撃されているのに、どこが傷ついているのか見えない。
それが一番厄介だった。
しかも今、そこに物理的な“罠”まで重ねてきた。
斜面のあちこちで、透明な玉が不規則に光っている。石の影に入り、草の根元に引っかかり、足元の死角へ潜り込む。綺麗なのに、妙に悪意があった。
斜面を吹き抜ける風が冷たい。
さっきまで普通に感じていた山の空気が、今はやけに薄い。
ひかりは呼吸を整えようとする。
だが、うまく入らない。
男は二人を交互に見ていた。
「いいコンビだね」
その声に、悪意が滲む。
「だから壊しやすい」
その瞬間。
ひかりの頭の中で、何かが切れかけた。
足元が光る。
《スパークル・ダンサー》のフレームが、さっきより強く明滅した。
行く。
迷う前に、叩く。
それしかない。
「雨宮、待て!」
ハヤトの制止より早く、ひかりは飛び出していた。
斜面を蹴る。
光が尾を引く。
今度は最初から全力だった。
地面の凹凸も、視界の揺れも、全部ごと押し切る。考えるな。止まるな。余計なものが入り込む前に、真正面から叩き潰す。
「消えろ!」
拳が振り抜かれる。
だが。
男は避けなかった。
いや、正確には――
男の前で、空気が“揺れた”。
ひかりの拳が届く寸前、その位置に透明な膜みたいなものが生まれた気がした。壁ではない。防御でもない。ただ、接触の瞬間だけ、何かが割り込んだ。
バチン、と嫌な音が鳴る。
「きゃっ……!」
ひかりの身体が逆にはじかれる。
思い切り踏み込んだ勢いそのまま、肩から地面へ転がった。
その転がった先で。
カチ、と小さな音がした。
まずい、と気づいた時には遅かった。
男が、楽しそうに指を鳴らす。
次の瞬間。
バンッ!!
足元でビー玉が爆ぜた。
「っ、ああっ……!」
土と石が跳ね上がり、ひかりの身体がさらに斜面の下へと押し流される。爆発自体は大きくない。だが、足場の悪い斜面では十分すぎるほど厄介だった。受け身を取ろうとしても、次の石に肩がぶつかり、体勢が整わない。
「雨宮!」
ハヤトが駆け寄ろうとする。
男の声がそれを止める。
「ほら」
「やっぱりそうだ」
ハヤトは足を止めた。
「君はすぐ助けに行く」
「でも、助けに行った先で自分が戦える形は、まだ持ってない」
図星を突かれた時の沈黙があった。
ひかりが地面に手をつく。
肩が痛い。
胸の奥がざわざわする。
今の一撃は、力負けじゃない。
何かに“返された”。
それが余計に悔しい。
その上、追い打ちみたいに仕込まれていたビー玉が爆ぜた。真正面の打ち合いじゃない。転ばせて、崩して、足元ごと潰しに来る。やり口が、ひどく陰湿だった。
「……っ」
立ち上がろうとした時、視界の端にハヤトの横顔が見えた。
静かだった。
いつも以上に。
その静けさが逆に、危うかった。
「ハヤトくん」
ひかりが呼ぶ。
ハヤトは答えない。
ただ、敵を見ている。
眼鏡の奥の目が、今までとは違う鋭さで細められていた。
男は、なおも楽しそうだった。
「怒った?」
「それとも、悔しい?」
「どっちでもいいけど」
一拍。
「君、一人じゃ何もできないと思われてるよ」
それは、敵の言葉だった。
けれど同時に、ハヤト自身がどこかで自分に向けていた言葉でもあった。
支える側。
見る側。
補助する側。
それでいいと、思っていた。
いや、思い込んでいたのかもしれない。
前に出るのは、未来やひかりやガイみたいなやつらだと。
自分は違う、と。
その方が楽だった。
その方が、自分の役割を見失わずに済んだ。
だが今。
目の前で、ひかりが崩されている。
しかも相手は精神だけじゃない。心を乱した隙へ、ためらいなく物理の刃を差し込んでくる。見えていても避けづらい。避けようとしても、迷えば終わる。そういう戦場を作られている。
そして自分は、まだ“見ること”しかできていない。
(違う)
ハヤトの指先が、わずかに震えた。
(違うだろ)
見るために戦うんじゃない。
戦うために見てきたはずだ。
佐伯の白衣の袖。
夜の研究棟。
工具の音。
短いやり取り。
頭の奥で、記憶が繋がる。
――お前の能力は、単体戦闘には向いてない。
――なら、向く形にすればいい。
――銃か?
――“撃つため”じゃない。“合わせるため”です。
ハヤトの視線が落ちる。
腰の後ろ。
制服の下に隠すように固定されたケース。
まだ使うつもりはなかった。
今はまだ早いと思っていた。
でも。
目の前の現実は、そんな判断を待ってくれない。
男が笑った。
「どうする?」
「そのまま終わる?」
ひかりが立ち上がる。
呼吸は乱れている。
だが目は、まだ折れていない。
その周囲には、また新しいビー玉が転がっていた。男はいつの間にか片手を軽く振り、斜面の中腹へいくつもの小球を散らしている。逃げ道も、踏み込みも、さっきよりさらに狭くなっていた。
「……終わらない」
小さく言う。
男は口元を歪める。
「うん。そういう顔の方が好きだよ」
その言い方が、心底気持ち悪かった。
ひかりは拳を握る。
足元のフレームが微かに光る。
まだ行ける。
でも、今のままじゃ届かない。
そのことも分かっていた。
「ハヤトくん」
ひかりが、目を向けないまま呼ぶ。
「……うん」
「次、行くから」
「分かってる」
短いやり取り。
それだけで、少しだけ呼吸が戻る。
男はそれを見て、面白そうに目を細めた。
「へえ」
「まだ合わせるんだ」
「ならさ」
声が、少しだけ低くなる。
「次は、どっちから壊れるか見せてよ」
風が吹く。
葉が鳴る。
斜面の上で、三人の位置がもう一度定まる。
ひかりは前へ。
ハヤトは後ろへ。
男は、その中間を食い破る位置に。
そして足元には、散らばったビー玉。目に見える罠。だが、見えているから安全というわけじゃない。心を揺らされれば、たったひとつ踏み間違えるだけで終わる。
胸の奥がざわつく。
足元は悪い。
相手の能力も、まだ全部は見えていない。
それでも。
ここで止まるわけにはいかない。
ひかりは息を吸う。
ハヤトの指先が、腰のケースへわずかに触れた。
まだ抜かない。
でも、もう迷ってはいなかった。
次の一手で、何かが変わる。
変えなければ、終わる。
男が笑う。
「じゃあ、続きやろうか」
ひかりが一歩踏み出す。
その足元で、カラン、とまた新しいビー玉が転がった。
ハヤトが目を細める。
そして――
戦いは、さらに深い場所へ沈んでいった。
次回
第22話 1秒の引き金
第21話を読んでいただきありがとうございます。
今回は、ひかりとハヤトの戦いを中心に、
“力そのもの”ではなく“心の揺れ”を突かれる怖さを描いています。
真正面からぶつかるだけでは通じない相手に対して、
ひかりの強さと脆さ、そしてハヤトの内面が少しずつ見え始めた回でもあります。
また、今回の敵は精神作用だけでなく、
物理的な罠も絡めてくることで、より嫌らしく、厄介な相手として立たせています。
そしてハヤトは、ここでただ“支える側”のままではいられなくなっていきます。
次回は、いよいよその先。
ここまで張ってきたものが、ひとつ形になり始める回です。
引き続き、読んでいただけたら嬉しいです。
ブックマークや感想、評価もとても励みになります。




