名前を売る市
昔、昔。
大きな山脈の南に、青い瓦屋根の連なる、小さな町がございました。
町の名を、柳安と申しました。
柳安には、町を二つに分けるようにして、一本の川が流れておりました。川には古い石橋が架かり、橋のたもとには柳の木が植えられておりました。
春には柳の枝が水面を撫で、夏には蓮の花が咲き、秋には山から金色の葉が流れてまいりました。
たいそう美しい町でございました。
この町には、古くから一つの言い伝えがありました。
七月の最後の夜、月が山の向こうへ沈む頃、川の向こう岸に市が立つ。
その市では、どのような願いもかなえる品が売られている。
ただし、銭も銀も使うことはできず、品を買うには、自分の名前を差し出さねばならない。
人々は、それを「名前を売る市」と呼んでおりました。
けれども、市へ行ったという者は、町にはほとんどおりませんでした。
昔はいたのかもしれません。
ただ、誰も、その者の名を覚えてはいなかったのでございます。
*
柳安の町に、清蓮という娘がおりました。
清蓮は、川のほとりで小さな薬屋を営む父と、年の離れた弟と暮らしておりました。
母は弟を産んで間もなく亡くなり、父は薬草を採りに山へ入ることが多かったため、弟の世話は清蓮がしておりました。
弟の名を、明玉と申しました。
明玉は幼い頃から身体が弱く、冬になると熱を出し、夏になると咳をいたしました。
それでも、姉のことがたいそう好きな、明るい子供でございました。
清蓮が薬草を干していれば、その隣で小さな葉を並べました。
清蓮が薬を包んでいれば、紙を折る手伝いをいたしました。
また、姉の名を書くことが好きで、覚えたばかりの文字で、紙の端に何度も「清蓮」と書いておりました。
清蓮は、それを見るたびに笑いました。
弟の書く文字は、いつも少し傾いていたからでございます。
ある夏のこと。
明玉は、これまでにないほど重い病にかかりました。
父は山から薬草を持ち帰り、町の医者も幾度となく家を訪れましたが、病は少しもよくなりませんでした。
やがて明玉は、寝床から起き上がることもできなくなりました。
清蓮は毎晩、弟の枕元に座り、冷たい布で額を拭いてやりました。
窓の外では、蓮の花が次々と開いておりました。
そうして、七月の最後の日がやってまいりました。
*
その夜、清蓮は弟が眠ったのを見届けると、一人で家を出ました。
町の人々は皆、戸を閉めておりました。
通りには人影もなく、軒先に吊るされた灯籠だけが、静かに揺れておりました。
清蓮は川へ向かいました。
石橋の上に立つと、向こう岸に、見慣れぬ赤い灯が幾つも並んでいるのが見えました。
普段なら、そこには柳の林があるばかりです。
けれども、その夜は違いました。
赤い提灯が、ずっと奥まで続いておりました。
清蓮は橋を渡りました。
すると、いつの間にか、辺りには大勢の人が行き交っておりました。
絹の衣をまとった女。
大きな籠を背負った老人。
顔を白い布で隠した男。
皆、静かに店先を眺めておりました。
市には、実にさまざまなものが売られておりました。
竹籠の中には、まだ鳴いたことのない鳥がおりました。
小さな壺には、遠い国の雨が入っておりました。
翡翠の皿には、失くしたはずの簪が並び、漆塗りの箱には、誰かの幼い頃の夢が収められておりました。
どの店にも値札はございませんでした。
ただ、店先には筆と硯、それから細長い白い紙が置かれておりました。
客たちは紙に何かを書き、品と引き換えに店の主人へ渡しておりました。
その紙は、受け取られると赤い糸で結ばれ、店の奥へ運ばれていきました。
*
清蓮は、市の一番奥にある薬屋を訪ねました。
店の軒先には、銀色の鈴が七つ吊るされておりました。
店番をしていたのは、白い髪を長く結った女でございました。
女の前には、小さな青磁の瓶が一つ置かれておりました。
清蓮が弟の病について話すと、女は瓶を差し出しました。
中には、薄い金色の薬が入っておりました。
これを飲ませれば、弟は朝までに元気になるのだそうです。
清蓮は喜びました。
そして、代金を尋ねました。
女は、白い紙と筆を差し出しました。
そこへ自分の名前を書けばよい、と申しました。
清蓮は、少しの間、筆を持ったまま考えました。
自分の名は、亡くなった母がつけてくれたものでございました。
清らかな蓮のように、泥の中でも美しく咲く娘になるようにと、そう願ってつけた名でございました。
けれども、弟の命には代えられません。
清蓮は墨をすり、紙の上に、二つの文字を書きました。
清蓮。
女はその紙を受け取り、赤い糸で結びました。
すると、不思議なことに、紙に書かれた二つの文字が、墨の乾かぬうちに消えてしまいました。
女は何も言わず、薬の瓶を清蓮に渡しました。
清蓮はそれを懐へしまい、急いで市を後にしました。
*
家へ戻ると、弟はまだ眠っておりました。
清蓮は薬を少しずつ飲ませました。
すると、明玉の頬に、たちまち赤みが戻りました。
荒かった息は穏やかになり、長いこと冷たかった手にも、温もりが戻ってまいりました。
夜明けには、明玉は自分で起き上がれるようになりました。
父はたいそう驚き、喜びました。
明玉も、久しぶりに腹いっぱい粥を食べました。
清蓮は、その姿を見て、ようやく安心いたしました。
ところが、その日の昼頃。
父が彼女を呼ぼうとして、不思議そうな顔をいたしました。
娘の名前が、どうしても思い出せないのでございます。
父は、何度も口を開きました。
けれども、名前だけが出てまいりませんでした。
清蓮は笑って、自分の名を教えようといたしました。
しかし、彼女自身も、その二つの文字を思い出すことができませんでした。
昨日までは、あれほど慣れ親しんでいた名でございます。
それが、まるで初めからなかったかのように、どこを探しても見つかりませんでした。
*
それから、娘の暮らしは少しずつ変わってまいりました。
父は、彼女を「娘」と呼ぶようになりました。
近所の人々は、「薬屋の姉さん」と呼びました。
明玉だけは、変わらず「姉さま」と呼びました。
初めのうち、娘はそれで十分だと思っておりました。
弟は元気になり、家には笑い声が戻ったのですから。
けれども、やがて不思議なことが起こり始めました。
町の者たちは、娘に頼んだ仕事を忘れるようになりました。
薬を買いに来た客は、彼女から薬を受け取っても、誰に売ってもらったのか思い出せませんでした。
娘が道を歩いていても、人々は彼女を避けようといたしませんでした。
そこに人がいると、気づかないのでございます。
ある日、娘は市場で父とすれ違いました。
父は、娘の顔を見て会釈をいたしました。
そして、そのまま通り過ぎてしまいました。
娘はしばらく立ち尽くしました。
家へ帰ると、父はいつもどおり彼女を迎えました。
けれども、市場で娘に会ったことは、少しも覚えておりませんでした。
*
月日が流れました。
明玉はすっかり丈夫になり、町の子供たちと遊ぶようになりました。
川で魚を捕り、柳の枝で笛を作り、山へ登っては珍しい石を拾ってまいりました。
娘は、その成長を喜びました。
しかし、明玉もまた、少しずつ姉のことを忘れ始めておりました。
一緒に食事をしても、翌朝には、昨晩誰と食べたのか覚えておりませんでした。
姉が新しい衣を縫ってやっても、父が買ってくれたものだと思っておりました。
娘は、弟を責めませんでした。
ただ、以前よりも長く、弟の顔を眺めるようになりました。
ある晩、明玉が寝床に入ると、娘は昔のように、その枕元に座りました。
そして、幼い頃に母が歌ってくれた子守歌を歌いました。
明玉は、しばらく不思議そうに聞いておりました。
やがて、姉の手を握りました。
その手は、昔と同じように温かいものでございました。
翌朝、明玉は、誰が子守歌を歌ってくれたのか覚えておりませんでした。
*
それから幾年か過ぎました。
父は年を取り、明玉は立派な青年になりました。
薬屋の仕事も、今では明玉が引き継いでおりました。
娘は相変わらず家に住んでおりましたが、父も弟も、彼女のことを家族とは思わなくなっておりました。
二人には、誰かが家事を手伝ってくれていることだけが分かっておりました。
けれども、それが誰なのか、どうしても思い出せませんでした。
娘は、毎朝、井戸から水を汲みました。
薬草を干し、食事を作り、店の床を掃きました。
夜になれば、弟のために灯をともしました。
それが、彼女の暮らしでございました。
*
ある年の七月。
明玉は、町の美しい娘と婚礼を挙げることになりました。
薬屋には祝いの品が届き、赤い布が飾られ、家中が華やかになりました。
娘は、弟のために婚礼の衣を縫いました。
襟元には、幼い頃、明玉が好きだった小さな蓮の花を刺繍いたしました。
婚礼の日。
明玉は、その衣をたいそう気に入りました。
けれども、誰が縫ってくれたのかは分かりませんでした。
娘は、祝いの席の隅に座っておりました。
客たちは彼女の姿を見ても、誰も声をかけませんでした。
酒が振る舞われ、琴が奏でられ、人々は新しい夫婦を祝いました。
娘は、弟の幸福な姿を見つめておりました。
その夜、家の戸口に、赤い紙が一枚落ちておりました。
紙には、細い墨の文字で、こう書かれておりました。
お買い上げの品は、確かにお届けいたしました。
*
娘は、その紙を拾いました。
そして、七月の最後の夜が来たことを知りました。
彼女は、久しぶりに川へ向かいました。
石橋の向こうには、あの赤い提灯が並んでおりました。
市は、以前と少しも変わっておりませんでした。
絹の衣をまとった女も、大きな籠を背負った老人も、顔を白い布で隠した男もおりました。
娘は、市の一番奥にある薬屋を訪ねました。
白い髪の女は、昔と同じ姿で座っておりました。
娘は、自分の名前を返してほしいと頼みました。
女は、静かに首を振りました。
売られた名前は、もう持ち主のものではないのだそうです。
ただし、別の名前を買うことならできると申しました。
娘は、その値を尋ねました。
女は、赤い糸で結ばれた小さな紙を一枚、取り出しました。
そこには、娘がかつて売った二つの文字が書かれておりました。
清蓮。
娘は、長いこと、その紙を見つめておりました。
それは、母が彼女につけてくれた名前でございました。
けれども、不思議なことに、娘はその文字を見ても、少しも懐かしいとは思いませんでした。
まるで、見知らぬ誰かの名を読んでいるようでございました。
女は、紙をしまいました。
そして、新しい名前を買うためには、代わりに差し出すものが必要だと申しました。
娘には、もう売れる名前がありませんでした。
女は、店の奥を指さしました。
そこには、名前を持たぬ者たちが、大勢働いておりました。
品を運ぶ者。
提灯に火をともす者。
帳簿をつける者。
皆、静かに働いておりました。
娘は、しばらく考えました。
そして、市で働くことにいたしました。
*
それから、娘は薬屋の店番をするようになりました。
市には、毎年さまざまな客が訪れました。
富を求める者。
若さを求める者。
失ったものを取り戻そうとする者。
娘は、客の望みを聞き、品を渡し、名前を書いた紙を赤い糸で結びました。
名前を売った者たちは、皆、満足そうに帰っていきました。
娘は、その後ろ姿を見送りました。
ある年のこと。
一人の若い男が、薬屋を訪ねてまいりました。
男は、病に伏せる父を救う薬を求めておりました。
娘は、男の顔を見て、たいそう驚きました。
それは、明玉でございました。
かつての弟は、今では立派な大人になっておりました。
明玉は、娘に気づきませんでした。
ただ、薬を求めて、丁寧に頭を下げました。
娘は、昔と同じ青磁の瓶を取り出しました。
明玉は喜び、筆を取りました。
そして、白い紙に、自分の名前を書こうといたしました。
そのとき、娘は、ふと彼の手を止めました。
明玉は、不思議そうに顔を上げました。
娘は、しばらく弟を見つめておりました。
そして、薬の瓶を、そのまま渡しました。
代金はいらないと申しました。
明玉は驚きましたが、何度も礼を述べ、薬を懐にしまいました。
それから、急いで市を後にしました。
娘は、その後ろ姿を、赤い提灯の見えなくなるところまで見送っておりました。
*
翌朝。
柳安の町では、一人の老人が病から回復いたしました。
息子の明玉はたいそう喜び、家族とともに祝いの膳を囲みました。
その夜、明玉は不思議な夢を見ました。
幼い自分が、誰かの膝に頭を乗せておりました。
その人は、優しい声で子守歌を歌っておりました。
顔は見えませんでした。
けれども、その手が温かかったことだけは、よく覚えておりました。
明玉は目を覚ましました。
そして、なぜか涙を流しました。
妻が訳を尋ねましたが、明玉にも分かりませんでした。
ただ、昔、自分には姉がいたような気がするのだと申しました。
妻は首を傾げました。
明玉は、一人息子だったからでございます。
*
その頃、市の薬屋では、白い髪の女が帳簿を開いておりました。
そこには、これまで売られた名前が、一つ残らず記されておりました。
女は、清蓮の名を探しました。
けれども、どの頁にも、その二つの文字はございませんでした。
不思議に思って、店の奥を覗きました。
そこには、いつものように、名前を持たぬ者たちが働いておりました。
品を運ぶ者。
提灯に火をともす者。
帳簿をつける者。
そして、薬の瓶を並べる者。
女は、薬の瓶を並べている者に、何かを尋ねようといたしました。
けれども、どうしても、その者の顔が思い出せませんでした。
女は、しばらく考えました。
それから、帳簿の最後の頁を開きました。
そこには、まだ何も書かれていない白い紙が、一枚挟まっておりました。
女は、その紙を取り出しました。
すると、紙の端に、小さな文字が一つ、浮かび上がってまいりました。
それは、名前ではございませんでした。
ただ、幼い子供が覚えたばかりの文字で書いたような、少し傾いた字でございました。
姉。
女は、それを見て、静かに紙を閉じました。
市の外では、夜明けが近づいておりました。
赤い提灯が、一つ、また一つと消えていきました。
そして、石橋の向こうには、いつもの柳の林が戻っておりました。
柳安の町では、その年も、蓮の花が美しく咲きました。
人々は、花を眺めて喜びました。
ただ、川のほとりの薬屋には、毎年七月の最後の夜になると、誰が置いたとも知れぬ青磁の瓶が、一つだけ届くようになりました。
瓶には、赤い糸が結ばれておりました。
その糸の先には、何も書かれていない、小さな白い紙が下がっておりました。
めでたし、めでたし。




