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短編  作者: かめ
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6/7

名前を売る市

昔、昔。

大きな山脈の南に、青い瓦屋根の連なる、小さな町がございました。

町の名を、柳安と申しました。

柳安には、町を二つに分けるようにして、一本の川が流れておりました。川には古い石橋が架かり、橋のたもとには柳の木が植えられておりました。

春には柳の枝が水面を撫で、夏には蓮の花が咲き、秋には山から金色の葉が流れてまいりました。

たいそう美しい町でございました。

この町には、古くから一つの言い伝えがありました。

七月の最後の夜、月が山の向こうへ沈む頃、川の向こう岸に市が立つ。

その市では、どのような願いもかなえる品が売られている。

ただし、銭も銀も使うことはできず、品を買うには、自分の名前を差し出さねばならない。

人々は、それを「名前を売る市」と呼んでおりました。

けれども、市へ行ったという者は、町にはほとんどおりませんでした。

昔はいたのかもしれません。

ただ、誰も、その者の名を覚えてはいなかったのでございます。

*

柳安の町に、清蓮という娘がおりました。

清蓮は、川のほとりで小さな薬屋を営む父と、年の離れた弟と暮らしておりました。

母は弟を産んで間もなく亡くなり、父は薬草を採りに山へ入ることが多かったため、弟の世話は清蓮がしておりました。

弟の名を、明玉と申しました。

明玉は幼い頃から身体が弱く、冬になると熱を出し、夏になると咳をいたしました。

それでも、姉のことがたいそう好きな、明るい子供でございました。

清蓮が薬草を干していれば、その隣で小さな葉を並べました。

清蓮が薬を包んでいれば、紙を折る手伝いをいたしました。

また、姉の名を書くことが好きで、覚えたばかりの文字で、紙の端に何度も「清蓮」と書いておりました。

清蓮は、それを見るたびに笑いました。

弟の書く文字は、いつも少し傾いていたからでございます。

ある夏のこと。

明玉は、これまでにないほど重い病にかかりました。

父は山から薬草を持ち帰り、町の医者も幾度となく家を訪れましたが、病は少しもよくなりませんでした。

やがて明玉は、寝床から起き上がることもできなくなりました。

清蓮は毎晩、弟の枕元に座り、冷たい布で額を拭いてやりました。

窓の外では、蓮の花が次々と開いておりました。

そうして、七月の最後の日がやってまいりました。

*

その夜、清蓮は弟が眠ったのを見届けると、一人で家を出ました。

町の人々は皆、戸を閉めておりました。

通りには人影もなく、軒先に吊るされた灯籠だけが、静かに揺れておりました。

清蓮は川へ向かいました。

石橋の上に立つと、向こう岸に、見慣れぬ赤い灯が幾つも並んでいるのが見えました。

普段なら、そこには柳の林があるばかりです。

けれども、その夜は違いました。

赤い提灯が、ずっと奥まで続いておりました。

清蓮は橋を渡りました。

すると、いつの間にか、辺りには大勢の人が行き交っておりました。

絹の衣をまとった女。

大きな籠を背負った老人。

顔を白い布で隠した男。

皆、静かに店先を眺めておりました。

市には、実にさまざまなものが売られておりました。

竹籠の中には、まだ鳴いたことのない鳥がおりました。

小さな壺には、遠い国の雨が入っておりました。

翡翠の皿には、失くしたはずの簪が並び、漆塗りの箱には、誰かの幼い頃の夢が収められておりました。

どの店にも値札はございませんでした。

ただ、店先には筆と硯、それから細長い白い紙が置かれておりました。

客たちは紙に何かを書き、品と引き換えに店の主人へ渡しておりました。

その紙は、受け取られると赤い糸で結ばれ、店の奥へ運ばれていきました。

*

清蓮は、市の一番奥にある薬屋を訪ねました。

店の軒先には、銀色の鈴が七つ吊るされておりました。

店番をしていたのは、白い髪を長く結った女でございました。

女の前には、小さな青磁の瓶が一つ置かれておりました。

清蓮が弟の病について話すと、女は瓶を差し出しました。

中には、薄い金色の薬が入っておりました。

これを飲ませれば、弟は朝までに元気になるのだそうです。

清蓮は喜びました。

そして、代金を尋ねました。

女は、白い紙と筆を差し出しました。

そこへ自分の名前を書けばよい、と申しました。

清蓮は、少しの間、筆を持ったまま考えました。

自分の名は、亡くなった母がつけてくれたものでございました。

清らかな蓮のように、泥の中でも美しく咲く娘になるようにと、そう願ってつけた名でございました。

けれども、弟の命には代えられません。

清蓮は墨をすり、紙の上に、二つの文字を書きました。

清蓮。

女はその紙を受け取り、赤い糸で結びました。

すると、不思議なことに、紙に書かれた二つの文字が、墨の乾かぬうちに消えてしまいました。

女は何も言わず、薬の瓶を清蓮に渡しました。

清蓮はそれを懐へしまい、急いで市を後にしました。

*

家へ戻ると、弟はまだ眠っておりました。

清蓮は薬を少しずつ飲ませました。

すると、明玉の頬に、たちまち赤みが戻りました。

荒かった息は穏やかになり、長いこと冷たかった手にも、温もりが戻ってまいりました。

夜明けには、明玉は自分で起き上がれるようになりました。

父はたいそう驚き、喜びました。

明玉も、久しぶりに腹いっぱい粥を食べました。

清蓮は、その姿を見て、ようやく安心いたしました。

ところが、その日の昼頃。

父が彼女を呼ぼうとして、不思議そうな顔をいたしました。

娘の名前が、どうしても思い出せないのでございます。

父は、何度も口を開きました。

けれども、名前だけが出てまいりませんでした。

清蓮は笑って、自分の名を教えようといたしました。

しかし、彼女自身も、その二つの文字を思い出すことができませんでした。

昨日までは、あれほど慣れ親しんでいた名でございます。

それが、まるで初めからなかったかのように、どこを探しても見つかりませんでした。

*

それから、娘の暮らしは少しずつ変わってまいりました。

父は、彼女を「娘」と呼ぶようになりました。

近所の人々は、「薬屋の姉さん」と呼びました。

明玉だけは、変わらず「姉さま」と呼びました。

初めのうち、娘はそれで十分だと思っておりました。

弟は元気になり、家には笑い声が戻ったのですから。

けれども、やがて不思議なことが起こり始めました。

町の者たちは、娘に頼んだ仕事を忘れるようになりました。

薬を買いに来た客は、彼女から薬を受け取っても、誰に売ってもらったのか思い出せませんでした。

娘が道を歩いていても、人々は彼女を避けようといたしませんでした。

そこに人がいると、気づかないのでございます。

ある日、娘は市場で父とすれ違いました。

父は、娘の顔を見て会釈をいたしました。

そして、そのまま通り過ぎてしまいました。

娘はしばらく立ち尽くしました。

家へ帰ると、父はいつもどおり彼女を迎えました。

けれども、市場で娘に会ったことは、少しも覚えておりませんでした。

*

月日が流れました。

明玉はすっかり丈夫になり、町の子供たちと遊ぶようになりました。

川で魚を捕り、柳の枝で笛を作り、山へ登っては珍しい石を拾ってまいりました。

娘は、その成長を喜びました。

しかし、明玉もまた、少しずつ姉のことを忘れ始めておりました。

一緒に食事をしても、翌朝には、昨晩誰と食べたのか覚えておりませんでした。

姉が新しい衣を縫ってやっても、父が買ってくれたものだと思っておりました。

娘は、弟を責めませんでした。

ただ、以前よりも長く、弟の顔を眺めるようになりました。

ある晩、明玉が寝床に入ると、娘は昔のように、その枕元に座りました。

そして、幼い頃に母が歌ってくれた子守歌を歌いました。

明玉は、しばらく不思議そうに聞いておりました。

やがて、姉の手を握りました。

その手は、昔と同じように温かいものでございました。

翌朝、明玉は、誰が子守歌を歌ってくれたのか覚えておりませんでした。

*

それから幾年か過ぎました。

父は年を取り、明玉は立派な青年になりました。

薬屋の仕事も、今では明玉が引き継いでおりました。

娘は相変わらず家に住んでおりましたが、父も弟も、彼女のことを家族とは思わなくなっておりました。

二人には、誰かが家事を手伝ってくれていることだけが分かっておりました。

けれども、それが誰なのか、どうしても思い出せませんでした。

娘は、毎朝、井戸から水を汲みました。

薬草を干し、食事を作り、店の床を掃きました。

夜になれば、弟のために灯をともしました。

それが、彼女の暮らしでございました。

*

ある年の七月。

明玉は、町の美しい娘と婚礼を挙げることになりました。

薬屋には祝いの品が届き、赤い布が飾られ、家中が華やかになりました。

娘は、弟のために婚礼の衣を縫いました。

襟元には、幼い頃、明玉が好きだった小さな蓮の花を刺繍いたしました。

婚礼の日。

明玉は、その衣をたいそう気に入りました。

けれども、誰が縫ってくれたのかは分かりませんでした。

娘は、祝いの席の隅に座っておりました。

客たちは彼女の姿を見ても、誰も声をかけませんでした。

酒が振る舞われ、琴が奏でられ、人々は新しい夫婦を祝いました。

娘は、弟の幸福な姿を見つめておりました。

その夜、家の戸口に、赤い紙が一枚落ちておりました。

紙には、細い墨の文字で、こう書かれておりました。

お買い上げの品は、確かにお届けいたしました。

*

娘は、その紙を拾いました。

そして、七月の最後の夜が来たことを知りました。

彼女は、久しぶりに川へ向かいました。

石橋の向こうには、あの赤い提灯が並んでおりました。

市は、以前と少しも変わっておりませんでした。

絹の衣をまとった女も、大きな籠を背負った老人も、顔を白い布で隠した男もおりました。

娘は、市の一番奥にある薬屋を訪ねました。

白い髪の女は、昔と同じ姿で座っておりました。

娘は、自分の名前を返してほしいと頼みました。

女は、静かに首を振りました。

売られた名前は、もう持ち主のものではないのだそうです。

ただし、別の名前を買うことならできると申しました。

娘は、その値を尋ねました。

女は、赤い糸で結ばれた小さな紙を一枚、取り出しました。

そこには、娘がかつて売った二つの文字が書かれておりました。

清蓮。

娘は、長いこと、その紙を見つめておりました。

それは、母が彼女につけてくれた名前でございました。

けれども、不思議なことに、娘はその文字を見ても、少しも懐かしいとは思いませんでした。

まるで、見知らぬ誰かの名を読んでいるようでございました。

女は、紙をしまいました。

そして、新しい名前を買うためには、代わりに差し出すものが必要だと申しました。

娘には、もう売れる名前がありませんでした。

女は、店の奥を指さしました。

そこには、名前を持たぬ者たちが、大勢働いておりました。

品を運ぶ者。

提灯に火をともす者。

帳簿をつける者。

皆、静かに働いておりました。

娘は、しばらく考えました。

そして、市で働くことにいたしました。

*

それから、娘は薬屋の店番をするようになりました。

市には、毎年さまざまな客が訪れました。

富を求める者。

若さを求める者。

失ったものを取り戻そうとする者。

娘は、客の望みを聞き、品を渡し、名前を書いた紙を赤い糸で結びました。

名前を売った者たちは、皆、満足そうに帰っていきました。

娘は、その後ろ姿を見送りました。

ある年のこと。

一人の若い男が、薬屋を訪ねてまいりました。

男は、病に伏せる父を救う薬を求めておりました。

娘は、男の顔を見て、たいそう驚きました。

それは、明玉でございました。

かつての弟は、今では立派な大人になっておりました。

明玉は、娘に気づきませんでした。

ただ、薬を求めて、丁寧に頭を下げました。

娘は、昔と同じ青磁の瓶を取り出しました。

明玉は喜び、筆を取りました。

そして、白い紙に、自分の名前を書こうといたしました。

そのとき、娘は、ふと彼の手を止めました。

明玉は、不思議そうに顔を上げました。

娘は、しばらく弟を見つめておりました。

そして、薬の瓶を、そのまま渡しました。

代金はいらないと申しました。

明玉は驚きましたが、何度も礼を述べ、薬を懐にしまいました。

それから、急いで市を後にしました。

娘は、その後ろ姿を、赤い提灯の見えなくなるところまで見送っておりました。

*

翌朝。

柳安の町では、一人の老人が病から回復いたしました。

息子の明玉はたいそう喜び、家族とともに祝いの膳を囲みました。

その夜、明玉は不思議な夢を見ました。

幼い自分が、誰かの膝に頭を乗せておりました。

その人は、優しい声で子守歌を歌っておりました。

顔は見えませんでした。

けれども、その手が温かかったことだけは、よく覚えておりました。

明玉は目を覚ましました。

そして、なぜか涙を流しました。

妻が訳を尋ねましたが、明玉にも分かりませんでした。

ただ、昔、自分には姉がいたような気がするのだと申しました。

妻は首を傾げました。

明玉は、一人息子だったからでございます。

*

その頃、市の薬屋では、白い髪の女が帳簿を開いておりました。

そこには、これまで売られた名前が、一つ残らず記されておりました。

女は、清蓮の名を探しました。

けれども、どの頁にも、その二つの文字はございませんでした。

不思議に思って、店の奥を覗きました。

そこには、いつものように、名前を持たぬ者たちが働いておりました。

品を運ぶ者。

提灯に火をともす者。

帳簿をつける者。

そして、薬の瓶を並べる者。

女は、薬の瓶を並べている者に、何かを尋ねようといたしました。

けれども、どうしても、その者の顔が思い出せませんでした。

女は、しばらく考えました。

それから、帳簿の最後の頁を開きました。

そこには、まだ何も書かれていない白い紙が、一枚挟まっておりました。

女は、その紙を取り出しました。

すると、紙の端に、小さな文字が一つ、浮かび上がってまいりました。

それは、名前ではございませんでした。

ただ、幼い子供が覚えたばかりの文字で書いたような、少し傾いた字でございました。

姉。

女は、それを見て、静かに紙を閉じました。

市の外では、夜明けが近づいておりました。

赤い提灯が、一つ、また一つと消えていきました。

そして、石橋の向こうには、いつもの柳の林が戻っておりました。

柳安の町では、その年も、蓮の花が美しく咲きました。

人々は、花を眺めて喜びました。

ただ、川のほとりの薬屋には、毎年七月の最後の夜になると、誰が置いたとも知れぬ青磁の瓶が、一つだけ届くようになりました。

瓶には、赤い糸が結ばれておりました。

その糸の先には、何も書かれていない、小さな白い紙が下がっておりました。

めでたし、めでたし。

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