霧の森の歌姫
昔、昔。
まだ王様たちが高い石の城に住み、村の鐘が人々に朝と夕べを知らせていた頃のことでございます。
山々に囲まれた小さな村に、ステラという少女がおりました。
ステラは、歌うことが好きでした。
朝には小鳥と歌い、昼には小川のせせらぎに合わせて歌い、夜には母の紡ぐ糸車の音を聞きながら、小さな声で歌いました。
けれども、ステラは歌が上手ではありませんでした。
高い声を出そうとすれば裏返り、踊ろうとすれば自分の足につまずいてしまいます。
それでも少女は、歌うことが好きでした。
村の外れには、大きな森がございました。
その森には一年を通して白い霧が立ちこめ、昼間でさえ、木々の奥を見通すことはできませんでした。
村人たちは、めったに森へ入りませんでした。
森には、道を忘れさせる霧があるといわれていたからでございます。
*
ある春の日。
ステラが森の近くで花を摘んでおりますと、どこからともなく、美しい歌声が聞こえてまいりました。
それは、少女がこれまでに聞いたこともない歌でございました。
鐘のように澄み、春の風のように柔らかく、遠い星の光が声になったなら、きっとこのように響くのであろうと思われるほど、美しい歌声でした。
ステラは、花籠を抱えたまま、その声を追いました。
一歩、また一歩。
白い霧の中へ入っていきました。
歌声は、近づいたかと思えば遠ざかり、遠ざかったかと思えば、すぐ耳元で聞こえるのでございます。
気がつくと、少女はすっかり道に迷っておりました。
けれども、不思議と恐ろしくはありませんでした。
歌声が、まだ聞こえていたからです。
やがて霧が薄くなり、小さな広場が現れました。
そこには白い花が一面に咲き、古い石造りの噴水が、静かに水をたたえておりました。
そして、噴水の縁に、一人の少女が座っておりました。
少女は、たいそう美しい姿をしておりました。
淡い金色の髪は絹糸のように柔らかく、瞳は朝の空を映した水のように澄んでおりました。
身にまとった白い衣は少し古びておりましたが、袖口には細やかな銀の刺繍が施されておりました。
ステラが近づくと、少女は歌うのをやめました。
そして、嬉しそうに微笑みました。
少女の名は、ソルナと申しました。
ソルナは、ずっとこの森に住んでいるのだそうです。
ステラが先ほどの歌を褒めますと、ソルナはたいそう喜びました。
そして、もう一度歌い始めました。
ステラも、隣に座って歌いました。
初めは、二人の声はちぐはぐでございました。
ソルナの声は美しく、ステラの声は少しばかり調子が外れておりました。
それでもソルナは、少しも気にしませんでした。
やがて彼女は立ち上がり、ステラの手を取って、花の上をくるりと回りました。
ステラも真似をしました。
二人は歌い、踊り、笑いました。
木々の間から差し込む陽の光が、二人の髪をきらきらと照らしました。
そうしているうちに、いつしか夕方になっておりました。
遠くで村の鐘が鳴りました。
するとソルナは、ステラを森の入り口まで送ってくれました。
ステラが振り返ったときには、もう少女の姿は霧に隠れておりました。
*
翌日、ステラはまた森へ行きました。
ソルナは、昨日と同じ噴水の縁に座っておりました。
その次の日も。
また、その次の日も。
ステラが森へ入ると、ソルナはいつも、同じ場所で歌っておりました。
二人は、たくさんの歌を歌いました。
小鳥の歌。
雨の歌。
遠い国の王女の歌。
春を迎える歌。
ソルナは、ステラの知らない歌を幾つも知っておりました。
また、踊りもたいそう上手でした。
指先を伸ばせば花が開くようであり、くるりと回れば、白い衣が風に溶けてしまいそうでございました。
ステラは、その姿に憧れました。
そして、毎日ソルナの真似をしました。
初めは転んでばかりおりましたが、ソルナはいつも笑顔で手を差し伸べてくれました。
二人は、日が暮れるまで歌い、踊りました。
それが、いつしか当たり前のことになりました。
*
夏が訪れました。
森には青い花が咲き、噴水の水面には、木漏れ日が揺れておりました。
ステラは、少しずつ歌が上手になりました。
以前は出せなかった高い声も、今では美しく響くようになりました。
踊りも、すっかり上達いたしました。
ソルナと手を取り合って回れば、どちらが先に足を運んだのか分からぬほど、二人の動きはぴったりと重なりました。
ある日、ソルナはステラに、小さな花冠を作ってくれました。
白い花と、薄紫色の花を編んだものでございました。
ステラは喜び、ソルナにも同じ花冠を作りました。
二人はそれを頭に載せ、噴水の水面に顔を映しました。
水面には、よく似た二人の少女が映っておりました。
ソルナは、たいそう嬉しそうでした。
それから二人は、以前よりも長く歌うようになりました。
夕方の鐘が鳴っても、あと一曲、もう一曲と歌い続けました。
ステラが家へ帰る頃には、森の外に星が見えることもございました。
*
秋の初めのことでございます。
村へ、一人の年老いた旅の学者がやってまいりました。
学者は、村の宿で、遠い町に住んでいた博士の話をいたしました。
その博士は、たいそう頭のよい人物でございました。
星の動きを読み、時計を作り、水の力で回る車を作り、誰も見たことのない不思議な仕掛けを幾つも生み出しておりました。
博士には、一人の娘がおりました。
娘は、歌と踊りが大好きでございました。
けれども、生まれつき身体が弱く、外へ出て遊ぶことができませんでした。
博士は、娘のために、一体の機械人形を作ることにいたしました。
それは、ただ歩いたり、手を動かしたりするだけの人形ではありませんでした。
博士は、国中を旅して、美しく歌う者、美しく踊る者を訪ね歩きました。
宮廷の歌姫。
祭りで踊る娘。
山の上で羊を追いながら歌う少年。
川辺で子守歌を歌う母親。
博士は、そうした人々の歌や踊りのきらめきを、一つずつ集めました。
そして、銀の歯車と金の細工で作った小さな胸の中へ、そのきらめきを収めたのでございます。
人形が完成すると、博士の娘は、たいそう喜びました。
人形は、どの歌も美しく歌いました。
どの踊りも、見事に踊りました。
娘が歌えば、人形も歌いました。
娘が笑えば、人形も笑いました。
二人は、毎日一緒に過ごしました。
ところが、人形の美しさは、やがて町中の噂となりました。
誰もがその姿を見たがり、誰もがその歌を聞きたがりました。
博士は、人形が誰かに奪われてしまうことを恐れました。
そこで、人形を遠く離れた森の奥へ隠し、いつか娘のために迎えに行こうと考えたのでございます。
けれども、博士が再び森を訪れたとき。
人形は、もうそこにはおりませんでした。
残されていたのは、白い花の咲く広場と、古い石造りの噴水だけでございました。
*
ステラは、その話を聞いて、胸がいっぱいになりました。
次の日、少女は朝早く家を出ました。
森の中を走り、白い霧を抜け、いつもの広場へ向かいました。
ソルナは、そこにおりました。
いつものように噴水のそばで歌っておりました。
淡い金色の髪。
澄んだ瞳。
白い衣。
そして、どこまでも美しい歌声。
ステラは、しばらく立ち尽くしました。
ソルナは彼女に気づくと、いつもどおり微笑みました。
そして、手を差し伸べました。
ステラは、その手を取りました。
温かな手でございました。
二人は、歌い始めました。
*
その日、ステラは、初めて気づいたことがございました。
ソルナが歌うとき、その胸の奥から、かすかな鈴のような音が聞こえるのでございます。
また、踊っているときには、足音の間に、時計の針が進むような小さな音が混じっておりました。
ステラは、ソルナの胸元を見つめました。
白い衣の下で、何かが淡く光っておりました。
ソルナは、何も言いませんでした。
ただ、歌い続けました。
ステラも、歌いました。
そのとき、不思議なことが起こりました。
二人の声が、まったく同じ高さで重なったのでございます。
ステラの声は、いつの間にか、ソルナと同じくらい美しくなっておりました。
そればかりではありません。
二人が踊れば、足音も、衣の揺れる音も、すべてが一つに重なりました。
ステラは、自分の胸の奥にも、小さな鈴の音が鳴っていることに気づきました。
けれども、それを恐ろしいとは思いませんでした。
ただ、歌うことが、これまでになく楽しかったのでございます。
*
それから、ステラは毎日、森へ通いました。
秋が深まり、木々の葉が色づいても。
冬が訪れ、村に雪が降っても。
二人は、変わらず歌い、踊りました。
ソルナの白い衣は、少しも汚れませんでした。
ステラの靴も、いつしか擦り切れなくなりました。
寒い日でも、二人は手袋を必要としませんでした。
食事を忘れることもございました。
それでも、二人は元気でございました。
ある日、ステラの母は、娘の様子が以前と少し違うことに気づきました。
ステラは、たいそう美しくなっておりました。
頬は白く、瞳は澄み、髪には、陽の光を集めたような艶がございました。
そして、眠っている間にも、かすかな歌声が聞こえてくるのでございます。
母は、不思議に思いました。
けれども、娘があまりに幸せそうだったので、何も尋ねませんでした。
*
やがて、再び春が訪れました。
森には白い花が咲き、噴水の水は、以前よりも澄んでおりました。
ある日、二人は、いつものように花冠を作りました。
ステラは、ソルナの髪に花冠を載せました。
ソルナも、ステラの髪に花冠を載せました。
そして、二人は手を取り合い、歌い始めました。
その歌は、これまでに歌ったどの歌とも違っておりました。
誰かから教わった歌ではありませんでした。
ソルナが覚えていた歌でも、ステラが村で聞いた歌でもありませんでした。
二人が、一緒に作った歌でございました。
森の木々が、静かに揺れました。
噴水の水面に、幾つもの光が浮かびました。
白い花は、風もないのに、ゆっくりと揺れ始めました。
二人は踊りました。
一歩、また一歩。
ステラの足は、もう地面を踏んでおりませんでした。
ソルナの白い衣も、風の中に溶けるように、ふわりと広がっておりました。
二人の胸からは、小さな鈴の音が聞こえておりました。
それは、銀の歯車が回る音にも似ておりました。
けれども、いつしか、その音も聞こえなくなりました。
代わりに、森いっぱいに、美しい歌声が響き渡りました。
*
その夕方。
村の鐘が鳴っても、ステラは帰ってまいりませんでした。
母は心配して、森の入り口まで迎えに行きました。
すると、白い霧の向こうから、二人の少女の歌声が聞こえてまいりました。
それは、たいそう美しい歌でございました。
母は、思わず足を止めました。
歌声は、近くから聞こえたかと思えば遠ざかり、遠ざかったかと思えば、すぐ耳元で聞こえました。
やがて霧の向こうに、二人の少女の姿が見えました。
二人は白い花冠を載せ、手を取り合って踊っておりました。
母は、娘の名を呼びました。
ステラは、振り返りました。
そして、いつものように微笑みました。
けれども、母のもとへは戻ってまいりませんでした。
ソルナが、そっとステラの手を取りました。
二人は、また歌い始めました。
白い霧が、ゆっくりと二人を包みました。
母がもう一度目を凝らしたときには、そこには、白い花が咲いているばかりでございました。
*
それから、森には、二人の少女の歌声が聞こえるようになりました。
春には、花の間から。
夏には、木々の梢から。
秋には、落ち葉の上から。
冬には、雪の降る空から。
歌声は、いつも二つ重なっておりました。
村人たちは、それを森の歌の精の声だと申しました。
美しい歌声に誘われて森へ入った者は、時折、白い花の咲く広場を見つけることがございました。
そこには、古い石造りの噴水がありました。
噴水の縁には、白い花冠が二つ、並んでおりました。
けれども、どれほど長く待っても、少女たちの姿を見ることはできませんでした。
ただ、歌声だけが聞こえておりました。
おしまい




