春を縫う娘
昔、昔。
山々がまだ名を持たず、川がどこへ流れるのかも知られていなかった頃。
北の山のふもとに、小さな村がございました。
その村には、春が来ませんでした。
冬が終われば、また冬が来ました。
雪は幾度も降り積もり、湖には厚い氷が張り、木々は白い枝を空へ伸ばしたまま、何年も眠っておりました。
村の年寄りたちは、かつて春というものがあったと申しました。
春には雪が溶け、草が芽吹き、色とりどりの花が咲くのだそうです。
けれども、若い者たちは誰一人、それを見たことがありませんでした。
花とは、どのようなものでしょう。
ある者は、雪の結晶に似ていると言いました。
ある者は、鳥の羽のように柔らかいものだと言いました。
またある者は、地面に咲く小さな星だと言いました。
誰も、本当のことは知りませんでした。
その村に、リネという娘がおりました。
リネは針仕事がたいそう上手でございました。
羊毛を紡ぎ、布を織り、糸を染め、衣のほころびを直して暮らしておりました。
なかでも彼女が得意としたのは、刺繍でございました。
リネは、まだ見たことのない花を、布の上に縫うのが好きでした。
赤い糸で丸い花を。
青い糸で細長い花を。
白い糸で、雪よりも柔らかそうな花を。
村の者たちは、彼女の刺繍を見て笑いました。
「春というものは、きっとこんな姿をしているのだろうね」
リネも、そうであればよいと思いました。
*
ある年のこと。
村に、一人の旅人がやってまいりました。
旅人は雪の積もった外套をまとい、古びた木の杖を持っておりました。
リネは旅人を家へ招き、温かな汁物をふるまいました。
すると旅人は、壁に掛けられた刺繍を見て、たいそう驚きました。
そこには、リネが想像した、たくさんの春の花が縫われていたのでございます。
旅人は、長いことその布を眺めておりました。
そして、春を呼ぶ古い言い伝えを教えてくれました。
春の花を一つ残らず布に縫えば、その土地に春が帰ってくる。
ただし、花は見たままを写してはならず、まだこの世にない花を、自分の心で考えて縫わねばならないのだそうです。
リネは、それを聞いて喜びました。
まだこの世にない花ならば、自分にも作れると思ったからでございます。
翌朝、旅人は村を去りました。
その足跡は、雪の中にしばらく残っておりましたが、昼を知らせる鐘が鳴る頃には、どこにも見当たらなくなっておりました。
*
それから、リネは大きな布を織り始めました。
白い羊毛を幾日も紡ぎ、村のどの家の戸よりも大きな布を作りました。
そして、その布に花を縫い始めたのでございます。
初めに縫ったのは、小さな黄色い花でした。
雪の中で迷った人が、遠くからでも見つけられるようにと、明るい色にいたしました。
次に縫ったのは、薄紫色の花でした。
寒さに震える鳥が、羽を休められるようにと、大きな花びらをつけました。
その次には、赤い花を縫いました。
祝いの日に、若い娘が髪に飾れるようにと考えました。
リネは毎日、毎日、花を縫いました。
朝を知らせる鐘が鳴れば針を取り、夜を知らせる鐘が鳴れば、ようやく手を休めました。
けれども、春は訪れませんでした。
雪は変わらず降り続け、村の井戸は凍ったままでございました。
それでもリネは、針を置きませんでした。
*
村には、トルという若い木こりがおりました。
トルはリネと幼い頃から仲がよく、雪の日には薪を届け、彼女の家の屋根に積もった雪を下ろしてやりました。
リネが花を縫っておりますと、トルはよく、その傍らで木を削っておりました。
ある日、トルは小さな木箱を作り、リネに贈りました。
蓋には、彼女の刺繍をまねた花が彫られておりました。
リネはたいそう喜び、その箱に大切な糸をしまいました。
二人は、いつか春が来たならば、一緒に野原を歩こうと約束しました。
リネは、その日のために、白い花の刺繍をした衣を作り始めました。
それは、いつしか花嫁衣装となりました。
*
何度も冬が過ぎました。
リネの布には、数えきれないほどの花が咲きました。
赤、青、黄、紫。
見たこともない形の花々が、白い布の上で互いに寄り添い、まるで一つの大きな野原のようになりました。
村の子供たちは、リネの家へ来ては、その布を眺めました。
「これは、何という花?」
リネは、そのたびに新しい名を考えてやりました。
星を待つ花。
雪を眠らせる花。
小鳥を呼ぶ花。
遠くへ行った人が、帰り道を見つけられる花。
そうして、花には一つずつ、名がつけられていきました。
ところが、布の端まで縫い終えようという頃、リネは困ってしまいました。
もう、新しい花が思いつかなくなったのでございます。
どれほど考えても、これまでに縫った花と似たものばかり浮かびました。
彼女は針を置き、窓の外を眺めました。
そこには、いつもの雪が降っておりました。
その晩、リネは不思議な夢を見ました。
雪の降らない野原に、大勢の娘たちが立っておりました。
娘たちは皆、見たこともない花を一輪ずつ持っておりました。
ある娘は、金色の花を。
ある娘は、透き通った花を。
ある娘は、夜になると青く光る花を。
リネは、その美しさに見とれました。
そして目を覚ますと、忘れぬうちに針を取りました。
夢で見た花を、一つずつ布へ縫い始めたのでございます。
それからは、不思議なほど次々と花が思い浮かびました。
眠るたびに、まだ知らない娘が夢に現れ、まだ知らない花を見せてくれました。
リネはそれを、毎日縫いました。
とうとう布には、一つの隙間もなくなりました。
*
最後の花を縫い終えた日。
リネは、出来上がった布を家の外へ広げました。
村人たちは、皆、見物に集まりました。
それは、まことに美しい布でございました。
誰も見たことのない花々が、色とりどりの糸で縫われておりました。
風が吹くと、花びらが揺れているようにさえ見えました。
そのとき、布の上に、小さな雫が落ちました。
村人たちは空を見上げました。
雪ではありませんでした。
屋根から落ちた、雪解けの水でございました。
やがて、村のあちらこちらから、水の滴る音が聞こえてまいりました。
氷が緩み、小川が流れ始めました。
白かった山の斜面に、黒い土が顔を出しました。
そして、村の入り口にある古い木の根元に、小さな黄色い花が咲いたのでございます。
それは、リネが初めに縫った花と、そっくりでございました。
村人たちは、たいそう喜びました。
春が帰ってきたのでございます。
*
それから村は、すっかり変わりました。
野原には花が咲き、木々には若葉が茂り、川には魚が戻りました。
村人たちは、初めて春の暖かさを知りました。
リネの刺繍にあった花々は、次々と野原に姿を現しました。
星を待つ花も。
雪を眠らせる花も。
小鳥を呼ぶ花も。
どれも、彼女が縫ったとおりの姿でございました。
村人たちは、リネを春の娘と呼びました。
そして、春を迎えた最初の祝いの日に、リネはトルと結婚いたしました。
彼女は、自分で縫った白い花嫁衣装をまといました。
トルは、かつて贈った木箱と同じ花を、小さな髪飾りに彫ってやりました。
二人は花の咲く野原を歩きました。
幼い頃からの約束が、ようやくかなったのでございます。
村人たちは歌い、踊り、春の訪れと二人の婚礼を祝いました。
それからも、春は毎年訪れました。
雪が溶ければ花が咲き、花が散れば実がなり、実が落ちれば再び雪が降りました。
そしてまた、春が来ました。
リネとトルも、仲睦まじく暮らしました。
二人の間には、元気な男の子が生まれました。
村中が、その子の誕生を喜びました。
*
さて。
春が戻ってからというもの、その村では、不思議なことが一つだけ起こっておりました。
女の子が、一人も生まれなくなったのでございます。
初めのうちは、誰も気に留めませんでした。
次に生まれる子は、きっと女の子だろうと思っておりました。
けれども、次も、その次も、男の子ばかりでございました。
十年が過ぎても、二十年が過ぎても、女の子は生まれませんでした。
村の年寄りたちは首を傾げましたが、春は毎年、変わらず訪れました。
野原には、ますます多くの花が咲くようになりました。
リネの刺繍にはなかった花さえ、見られるようになりました。
それらは、まだ誰も名づけていない、美しい花々でございました。
リネは時折、昔の夢を思い出しました。
花を一輪ずつ持っていた、大勢の娘たちの夢でございます。
不思議なことに、あの娘たちの顔は、もう一人も思い出せませんでした。
ただ、彼女たちが持っていた花の色だけは、今でもよく覚えておりました。
ただ春の花たちは枯れる事なく咲き続けています。




