↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
短編  作者: かめ
PR
5/7

春を縫う娘

昔、昔。

山々がまだ名を持たず、川がどこへ流れるのかも知られていなかった頃。

北の山のふもとに、小さな村がございました。

その村には、春が来ませんでした。

冬が終われば、また冬が来ました。

雪は幾度も降り積もり、湖には厚い氷が張り、木々は白い枝を空へ伸ばしたまま、何年も眠っておりました。

村の年寄りたちは、かつて春というものがあったと申しました。

春には雪が溶け、草が芽吹き、色とりどりの花が咲くのだそうです。

けれども、若い者たちは誰一人、それを見たことがありませんでした。

花とは、どのようなものでしょう。

ある者は、雪の結晶に似ていると言いました。

ある者は、鳥の羽のように柔らかいものだと言いました。

またある者は、地面に咲く小さな星だと言いました。

誰も、本当のことは知りませんでした。

その村に、リネという娘がおりました。

リネは針仕事がたいそう上手でございました。

羊毛を紡ぎ、布を織り、糸を染め、衣のほころびを直して暮らしておりました。

なかでも彼女が得意としたのは、刺繍でございました。

リネは、まだ見たことのない花を、布の上に縫うのが好きでした。

赤い糸で丸い花を。

青い糸で細長い花を。

白い糸で、雪よりも柔らかそうな花を。

村の者たちは、彼女の刺繍を見て笑いました。

「春というものは、きっとこんな姿をしているのだろうね」

リネも、そうであればよいと思いました。

*

ある年のこと。

村に、一人の旅人がやってまいりました。

旅人は雪の積もった外套をまとい、古びた木の杖を持っておりました。

リネは旅人を家へ招き、温かな汁物をふるまいました。

すると旅人は、壁に掛けられた刺繍を見て、たいそう驚きました。

そこには、リネが想像した、たくさんの春の花が縫われていたのでございます。

旅人は、長いことその布を眺めておりました。

そして、春を呼ぶ古い言い伝えを教えてくれました。

春の花を一つ残らず布に縫えば、その土地に春が帰ってくる。

ただし、花は見たままを写してはならず、まだこの世にない花を、自分の心で考えて縫わねばならないのだそうです。

リネは、それを聞いて喜びました。

まだこの世にない花ならば、自分にも作れると思ったからでございます。

翌朝、旅人は村を去りました。

その足跡は、雪の中にしばらく残っておりましたが、昼を知らせる鐘が鳴る頃には、どこにも見当たらなくなっておりました。

*

それから、リネは大きな布を織り始めました。

白い羊毛を幾日も紡ぎ、村のどの家の戸よりも大きな布を作りました。

そして、その布に花を縫い始めたのでございます。

初めに縫ったのは、小さな黄色い花でした。

雪の中で迷った人が、遠くからでも見つけられるようにと、明るい色にいたしました。

次に縫ったのは、薄紫色の花でした。

寒さに震える鳥が、羽を休められるようにと、大きな花びらをつけました。

その次には、赤い花を縫いました。

祝いの日に、若い娘が髪に飾れるようにと考えました。

リネは毎日、毎日、花を縫いました。

朝を知らせる鐘が鳴れば針を取り、夜を知らせる鐘が鳴れば、ようやく手を休めました。

けれども、春は訪れませんでした。

雪は変わらず降り続け、村の井戸は凍ったままでございました。

それでもリネは、針を置きませんでした。

*

村には、トルという若い木こりがおりました。

トルはリネと幼い頃から仲がよく、雪の日には薪を届け、彼女の家の屋根に積もった雪を下ろしてやりました。

リネが花を縫っておりますと、トルはよく、その傍らで木を削っておりました。

ある日、トルは小さな木箱を作り、リネに贈りました。

蓋には、彼女の刺繍をまねた花が彫られておりました。

リネはたいそう喜び、その箱に大切な糸をしまいました。

二人は、いつか春が来たならば、一緒に野原を歩こうと約束しました。

リネは、その日のために、白い花の刺繍をした衣を作り始めました。

それは、いつしか花嫁衣装となりました。

*

何度も冬が過ぎました。

リネの布には、数えきれないほどの花が咲きました。

赤、青、黄、紫。

見たこともない形の花々が、白い布の上で互いに寄り添い、まるで一つの大きな野原のようになりました。

村の子供たちは、リネの家へ来ては、その布を眺めました。

「これは、何という花?」

リネは、そのたびに新しい名を考えてやりました。

星を待つ花。

雪を眠らせる花。

小鳥を呼ぶ花。

遠くへ行った人が、帰り道を見つけられる花。

そうして、花には一つずつ、名がつけられていきました。

ところが、布の端まで縫い終えようという頃、リネは困ってしまいました。

もう、新しい花が思いつかなくなったのでございます。

どれほど考えても、これまでに縫った花と似たものばかり浮かびました。

彼女は針を置き、窓の外を眺めました。

そこには、いつもの雪が降っておりました。

その晩、リネは不思議な夢を見ました。

雪の降らない野原に、大勢の娘たちが立っておりました。

娘たちは皆、見たこともない花を一輪ずつ持っておりました。

ある娘は、金色の花を。

ある娘は、透き通った花を。

ある娘は、夜になると青く光る花を。

リネは、その美しさに見とれました。

そして目を覚ますと、忘れぬうちに針を取りました。

夢で見た花を、一つずつ布へ縫い始めたのでございます。

それからは、不思議なほど次々と花が思い浮かびました。

眠るたびに、まだ知らない娘が夢に現れ、まだ知らない花を見せてくれました。

リネはそれを、毎日縫いました。

とうとう布には、一つの隙間もなくなりました。

*

最後の花を縫い終えた日。

リネは、出来上がった布を家の外へ広げました。

村人たちは、皆、見物に集まりました。

それは、まことに美しい布でございました。

誰も見たことのない花々が、色とりどりの糸で縫われておりました。

風が吹くと、花びらが揺れているようにさえ見えました。

そのとき、布の上に、小さな雫が落ちました。

村人たちは空を見上げました。

雪ではありませんでした。

屋根から落ちた、雪解けの水でございました。

やがて、村のあちらこちらから、水の滴る音が聞こえてまいりました。

氷が緩み、小川が流れ始めました。

白かった山の斜面に、黒い土が顔を出しました。

そして、村の入り口にある古い木の根元に、小さな黄色い花が咲いたのでございます。

それは、リネが初めに縫った花と、そっくりでございました。

村人たちは、たいそう喜びました。

春が帰ってきたのでございます。

*

それから村は、すっかり変わりました。

野原には花が咲き、木々には若葉が茂り、川には魚が戻りました。

村人たちは、初めて春の暖かさを知りました。

リネの刺繍にあった花々は、次々と野原に姿を現しました。

星を待つ花も。

雪を眠らせる花も。

小鳥を呼ぶ花も。

どれも、彼女が縫ったとおりの姿でございました。

村人たちは、リネを春の娘と呼びました。

そして、春を迎えた最初の祝いの日に、リネはトルと結婚いたしました。

彼女は、自分で縫った白い花嫁衣装をまといました。

トルは、かつて贈った木箱と同じ花を、小さな髪飾りに彫ってやりました。

二人は花の咲く野原を歩きました。

幼い頃からの約束が、ようやくかなったのでございます。

村人たちは歌い、踊り、春の訪れと二人の婚礼を祝いました。

それからも、春は毎年訪れました。

雪が溶ければ花が咲き、花が散れば実がなり、実が落ちれば再び雪が降りました。

そしてまた、春が来ました。

リネとトルも、仲睦まじく暮らしました。

二人の間には、元気な男の子が生まれました。

村中が、その子の誕生を喜びました。

*

さて。

春が戻ってからというもの、その村では、不思議なことが一つだけ起こっておりました。

女の子が、一人も生まれなくなったのでございます。

初めのうちは、誰も気に留めませんでした。

次に生まれる子は、きっと女の子だろうと思っておりました。

けれども、次も、その次も、男の子ばかりでございました。

十年が過ぎても、二十年が過ぎても、女の子は生まれませんでした。

村の年寄りたちは首を傾げましたが、春は毎年、変わらず訪れました。

野原には、ますます多くの花が咲くようになりました。

リネの刺繍にはなかった花さえ、見られるようになりました。

それらは、まだ誰も名づけていない、美しい花々でございました。

リネは時折、昔の夢を思い出しました。

花を一輪ずつ持っていた、大勢の娘たちの夢でございます。

不思議なことに、あの娘たちの顔は、もう一人も思い出せませんでした。

ただ、彼女たちが持っていた花の色だけは、今でもよく覚えておりました。

ただ春の花たちは枯れる事なく咲き続けています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。