夜の昔話
昔々、夜の明けない国がございました。
その国には太陽も、朝焼けもありません。
空にはいつも大きな月が浮かび、銀色の星々が、深い藍色の天蓋に縫いつけられた宝石のように輝いておりました。
しかし、人々は少しも不自由を感じておりませんでした。
町には青白い光を放つ花々が咲き、石畳には星の欠片を混ぜた硝子灯が並び、家々の窓からは蜜色の明かりがこぼれておりました。
この国に王はおりません。
古くから続く七つの名家が国を治め、互いの権威を保ちながら、人々の暮らしを守っていたのでございます。
その中でも、ヴァレンタイン家とアルヴェイン家は、ひときわ大きな力を持っておりました。
ヴァレンタイン家の若き当主、エリアスは、それはそれは美しい青年でございました。
艶やかな黒髪に、夜空を映したような瞳。背が高く、立ち居振る舞いは優雅で、身分の低い者にも礼節を欠かない紳士として知られておりました。
そして彼には、幼い頃から定められた婚約者がおりました。
アルヴェイン家の令嬢、セレスティアでございます。
彼女もまた、艶やかな黒髪と淡い紫色の瞳を持つ、聡明で美しい女性でした。
二人の婚約は、国中の人々に祝福されておりました。
何しろ、二人が結ばれれば、国で最も権威ある二つの家が一つになるのです。
けれども、セレスティアにとって、それは家同士の取り決め以上の意味を持っておりました。
彼女は幼い頃から、エリアスを心から愛していたのでございます。
セレスティアには、ラーという侍女がおりました。
ラーはもともと、遠い土地から奴隷として連れてこられた娘でした。
まだ幼かった彼女を引き取ったのが、アルヴェイン家でございました。
セレスティアは、彼女に読み書きを教え、奴隷の身分から解放し、やがて自分の最も信頼する侍女として側に置きました。
「あなたは、私の大切な人よ」
セレスティアは、よくそう言いました。
ラーもまた、彼女を深く慕っておりました。
ある日のこと。
エリアスがアルヴェイン家を訪れた際、ラーは誤って銀の茶器を落としてしまいました。
彼女は青ざめ、慌てて膝をつきました。
「申し訳ございません!」
するとエリアスは、自ら床に落ちた茶器を拾い上げました。
「怪我はありませんか?」
ラーは驚きました。
「……はい」
「それならよかった」
エリアスは微笑みました。
そのとき、彼は初めてラーの顔をよく見たのでございます。
質素な衣服に、飾り気のない栗色の髪。
けれども、その瞳には、夜の国のどんな宝石にもない、温かな輝きがありました。
それからエリアスは、アルヴェイン家を訪れるたび、ラーに声をかけるようになりました。
初めは花の話。
次には、本や音楽の話。
やがて彼は、彼女のために珍しい書物を持参するようになりました。
ラーはそれを読み終えると、丁寧な文字で感想を書き、返しました。
エリアスは、その手紙を何度も読み返しました。
そして、いつしか気づいたのです。
自分があの屋敷を訪れる日を心待ちにしているのは、婚約者に会うためだけではないのだと。セレスティアは、すぐに気づきました。
エリアスがラーと話すときだけ、普段はあまり見せない笑顔を浮かべることに。
彼が贈る本が、いつもラーの好みに合っていることに。
そして、自分との茶会が終わっても、彼がすぐには帰ろうとしなくなったことに。
ある晩、セレスティアはラーに尋ねました。
「エリアス様は、あなたといるとき、楽しそうね」
ラーは顔を伏せました。
「……恐れ入ります」
「よいことだわ。あの方は昔から、あまり笑わない方だったもの」
セレスティアは微笑みました。
けれども、その夜、彼女は長いこと眠れませんでした。
それから間もなく、ルナリアでは、百年に一度の星祭りが近づいておりました。
星祭りの夜には、国中の光花が一斉に花開き、湖面には天の川が映るといわれておりました。
セレスティアは、この祭りのために、銀色の糸で縫われた美しい礼服をエリアスへ贈りました。
「あなたに、きっと似合うと思ったのです」
「ありがとう、セレスティア」
エリアスは礼を述べました。
そのとき、彼の視線が、彼女の後ろに控えるラーへ向けられました。
ほんの一瞬のことでございました。
しかし、セレスティアは見逃しませんでした。
星祭りの数日前、ラーは、古い温室の光花が枯れかけていることに気づきました。
その花は、セレスティアが幼い頃から大切に育てていたものでした。
ラーは何とか花を元気にしようと、古い書物を調べました。
すると、光花は月の光を直接浴びることで、再び輝きを取り戻すと書かれておりました。
けれども、温室の天井は長年の埃で曇り、月光が届かなくなっていたのです。
ラーは一人で天井を磨こうとしました。
そこへ、偶然エリアスが通りかかりました。
「何をしているのです?」
「お嬢様の大切なお花が、枯れかけているのです」
エリアスは彼女を見上げました。
「危ないですよ。私も手伝いましょう」
「いけません! あなた様に、そのようなことを」
「私の婚約者の大切な花なのでしょう?」
そう言って、彼は上着を脱ぎました。
二人は長い時間をかけて、温室の硝子を磨きました。
やがて、天井から月光が差し込みました。
すると、枯れかけていた花々が、ゆっくりと青白い光を取り戻したのでございます。
ラーは嬉しそうに笑いました。
「よかった……お嬢様が、きっとお喜びになります」
エリアスは、そんな彼女を見つめておりました。
「あなたは、いつもセレスティアのことを考えているのですね」
「はい。あの方は、私の恩人ですから」
「それでは、あなた自身は?」
ラーは首を傾げました。
「私、ですか?」
「あなたは、何を望んでいるのです?」
ラーは答えられませんでした。
今まで、誰かにそんなことを尋ねられたことがなかったからです。
エリアスは微笑みました。
「いつか、聞かせてください」
そのとき、ラーの胸の奥に、小さな灯火がともりました。
彼女はその温かさに戸惑いました。
そして、ようやく気づいたのです。
自分が、エリアスを愛してしまったことに。
その日から、ラーはエリアスを避けるようになりました。
彼が屋敷を訪れれば、別の侍女に茶を運ばせました。
庭で姿を見かければ、遠回りをして通りました。
エリアスから届いた本も、開かずに返しました。
ある晩、セレスティアはラーを呼びました。
「あなた、何か悩んでいるの?」
「いいえ、お嬢様」
「嘘をつくのは、お上手ではないのね」
セレスティアは笑いました。
ラーは、とうとう涙をこぼしました。
「私は……私は、お嬢様に顔向けできないことを考えております」
セレスティアは、しばらく黙っておりました。
そして、静かに尋ねました。
「エリアス様のこと?」
ラーはうなずきました。
「申し訳ございません。私は、あの方を好きになってしまいました」
セレスティアは、彼女の手を取りました。
「そう」
それだけでした。
ラーは、主人に叱られるものと思っておりました。
けれども、セレスティアは怒りませんでした。
ただ、少し寂しそうに微笑んでおりました。
「あなたは、何も悪いことをしていないわ」
「ですが……」
「人を好きになることは、誰にも止められないもの」
セレスティアは、ラーの頬を伝う涙を拭いました。
「私も、あの方が好きなのよ」
ラーは顔を上げました。
セレスティアは、窓の外の月を見つめました。
「幼い頃から、ずっと」
その声は、あまりにも穏やかでございました。
ラーは何も言えませんでした。
そして、星祭りの夜が訪れました。
国中の光花が一斉に花開き、町はまるで、地上に星空が降りてきたかのように輝いておりました。
七つの名家は、ヴァレンタイン家の大広間に集まり、盛大な舞踏会を開きました。
貴族たちは美しい衣装をまとい、音楽に合わせて踊りました。
天井には無数の燭台が輝き、窓の向こうには、いつもの大きな月が浮かんでおりました。
セレスティアは、銀色のドレスを着ておりました。
エリアスは、彼女から贈られた礼服を身につけておりました。
二人は、誰もが羨むほど美しい一組でございました。
けれども、エリアスの心は、別の場所にありました。
彼は、会場の隅に控えているラーを見つけました。
そして、彼女に近づき、小さな声で言いました。
「少し、話がしたい」
ラーは首を横に振りました。
「いけません。今夜は、お嬢様の大切な夜です」
「分かっています」
「でしたら……」
「それでも、あなたに伝えたいことがあるのです」
ラーは、彼の真剣な眼差しを見て、断ることができませんでした。
二人は、人目を避けて、月光の差し込む回廊へと向かいました。
その様子を、セレスティアは遠くから見つめておりました。
彼女は、二人がどこへ向かったのか、すぐに分かりました。
あの回廊の先には、幼い頃、エリアスと二人で星を眺めた、小さな露台があったからです。
セレスティアは、しばらく立ち尽くしておりました。
やがて、静かに歩き始めました。
露台には、冷たい夜風が吹いておりました。
エリアスは、ラーに向き直りました。
「私は、あなたを愛しています」
ラーは、息を呑みました。
「……いけません」
「分かっています」
「あなたには、お嬢様がいらっしゃいます」
「ええ」
「それなのに、どうして……」
エリアスは、苦しそうに目を伏せました。
「私にも、分からないのです」
ラーは、涙をこぼしました。
「私も、あなたを愛しております」
その言葉を聞いたエリアスは、彼女の手を取りました。
二人は、しばらく何も言わず、互いを見つめておりました。
そのとき、露台の扉が開きました。
セレスティアでございました。
彼女は、二人の姿を見つめました。
エリアスは、すぐにラーの手を離しました。
「セレスティア……」
彼女は微笑みました。
「お二人とも、こんなところにいらしたのね」
ラーは、慌てて頭を下げました。
「お嬢様、私は……」
「いいのよ、ラー」
セレスティアは、彼女の言葉を遮りました。
そして、エリアスへ向き直りました。
「エリアス様。あなたは、ラーを愛していらっしゃるのですね」
エリアスは、しばらく黙っておりました。
やがて、静かにうなずきました。
「……はい」
セレスティアは、目を閉じました。
そして、再び微笑みました。
「そうですか」
その声は、少しも震えておりませんでした。
「それなら、私から一つだけ、お願いがございます」
エリアスは、彼女を見つめました。
「何でしょう」
セレスティアは、ラーの手を取りました。
「どうか、この子を幸せにしてくださいませ」
ラーは、声を上げて泣きました。
「お嬢様……!」
セレスティアは、彼女の頬を撫でました。
「あなたは、私の大切な人ですもの」
そして、エリアスへ微笑みました。
「あなたも、ずっと」
そのとき、夜風が強く吹きました。
露台の銀色の花々が、一斉に揺れました。
セレスティアの姿は、月光に包まれ、やがて、無数の小さな光となって消えていきました。
二人は、ただ呆然と立ち尽くしておりました。
その光は、夜空へと昇り、やがて、一つの小さな星となりました。
それが、ルナリアに初めて現れた、精霊の星でございました。
それから、しばらくの月日が流れました。
エリアスとラーは、正式に結婚することになりました。
不思議なことに、二人の結婚を反対する者は、一人もおりませんでした。
七つの名家も、町の人々も、皆が二人を祝福しました。
誰も、セレスティアのことを口にしませんでした。
まるで、彼女など、初めから存在しなかったかのように。
婚礼の日。
ラーは、銀色のドレスを着ておりました。
それは、かつてセレスティアが星祭りのために仕立てたものでございました。
エリアスは、彼女の手を取りました。
二人は、月の下で永遠の愛を誓いました。
そのとき、夜空に一つの星が輝きました。
人々は、それを祝福の星と呼びました。
けれども、ラーだけは、その光を見上げるたび、胸の奥が少しだけ痛むのでございました。
ある晩、彼女はエリアスに尋ねました。
「あなたは、あの方を覚えていらっしゃいますか?」
エリアスは、不思議そうに首を傾げました。
「どなたのことです?」
ラーは、何も答えませんでした。
ただ、窓の外の星を見つめておりました。
その星は、今夜も、二人の家を照らしておりました。
まるで、いつまでも、いつまでも、二人を見守るかのように。
めでたし。めでたし。
何がめでたいんだよくそが!!!!
私はセレスティア派です




