帰るところ
昔々、海の向こうにいくつもの国があった頃。
南の海に、ベルカという小さな港町がございました。
ベルカの朝は、教会の鐘よりも早く始まります。
夜明け前から漁師たちが船を出し、石畳の坂道には魚を売る女たちの声が響き、港には香辛料や絹織物を積んだ商船が、毎日のように出入りしておりました。
海辺には赤い屋根の家々が肩を寄せ合い、夕暮れになると、酒場から陽気な歌声が聞こえてきます。
その町に、ウィックという若者が暮らしておりました。
ウィックは港で荷を運ぶ仕事をしておりました。朝から晩まで重たい木箱や樽を担ぎ、得たわずかな賃金で、港外れの小さな家に暮らしていたのでございます。
裕福ではありませんでしたが、働き者で、困った人を放っておけない青年でした。
ある秋の朝のことです。
ウィックは仕事へ向かう途中、波止場の外れで、妙なものが波に揺られているのを見つけました。
初めは、海藻の絡みついた古い樽かと思いました。
ところが、よく目を凝らすと、その傍らには人の姿がありました。
「おい! 誰かいるのか!」
返事はありません。
ウィックは近くにいた漁師を呼び、力を合わせてその人影を引き寄せました。
それは、一人の若い娘でございました。
長い髪には海藻が絡まり、服はすっかり潮を含んでおりました。
ウィックは急いで娘を家へ運び、近所の年老いた女に手を借りて、暖かな寝床を用意しました。
そして、夜通し彼女の傍らで看病したのでございます。
翌朝。
窓から差し込む光に目を覚ましたウィックは、寝台の方から小さな声がするのを聞きました。
「……ここは、どこでしょう」
振り向くと、娘が目を開けておりました。
その瞳は、まるで朝日に照らされた琥珀のような、美しい黄金色をしておりました。
「ベルカという港町だよ。君は海に浮かんでいたんだ。覚えているかい?」
娘はしばらく彼を見つめ、それから小さくうなずきました。
「助けてくださったのですね」
「運がよかったんだ。もう少し遅ければ、見つけられなかったかもしれない」
「……ありがとうございます」
「名前は?」
「マリーナと申します」
「マリーナ。海みたいな名前だね」
娘は少しだけ笑いました。
それが、二人の始まりでございました。
マリーナは、北の遠い国から来た娘でした。
雪深い土地に家族と暮らしておりましたが、ある日、港を訪れた海賊たちに連れ去られてしまったのです。
海賊たちは彼女を遠い国へ売り渡すつもりでおりました。
けれども、マリーナは諦めませんでした。
ある晩、船乗りたちの目を盗み、空の樽を浮き代わりにして船から逃げ出したのでございます。
広い海には、陸も灯台も見えませんでした。
そこでマリーナは、幼い頃に祖母から聞いた言い伝えを思い出しました。
北の国には、古くからこんな言葉があったのです。
『海に迷うたなら、海の草を身にまといなさい。海は必ず、その子を生まれたところへ帰してくれる』
マリーナは漂う海藻を見つけると、それを身に巻きつけました。
そうして三日三晩、ただ故郷を思いながら海を漂い、とうとう意識を失ってしまったのでした。
話を聞き終えたウィックは、しばらく口を開けませんでした。
やがて彼は、静かに言いました。
「君を家へ帰そう」
マリーナが顔を上げました。
「北の国まで、どれほど遠いか分からないけれど。必ず帰れるようにするよ」
「ですが、私は何もお返しできません」
「そんなもの、いらないさ」
ウィックは笑いました。
「君のお母さんだって、きっと探しているだろうから」
その言葉を聞いたマリーナは、毛布を握りしめ、声を上げて泣きました。それからウィックは、港の書記官を訪ねました。
北の国から届く行方不明者の知らせを調べてもらい、商船の船長たちにも、マリーナの故郷について尋ねて回りました。
しかし、海は広いものでございます。
北へ向かう船はあっても、彼女の村を知る者はなかなか見つかりませんでした。
その間、マリーナはウィックの家に身を寄せることになりました。
彼女は恩返しをしようと、ある朝、ウィックについて港へ出かけました。
そして彼が担ぐ木箱に手を伸ばしたのです。
「私にも運ばせてください」
「だめだよ。まだ身体だって十分に休まっていないんだから」
「でも、私ばかりお世話になるわけには」
「だったら、家の花に水をやっておいてくれないか。僕はいつも忘れてしまうんだ」
マリーナは頬を膨らませました。
「私を子供扱いしていらっしゃるでしょう」
ウィックは笑って、それには答えませんでした。
やがてマリーナは、港に停泊する貴族の遊覧船で、客を迎える仕事を見つけました。
彼女の丁寧な物腰と美しい黄金色の瞳は、船を訪れる人々の間で評判になりました。
何より、遠い国から来る客たちに、故郷のことを尋ねられるのが嬉しかったのでございます。
そうして二人の、小さな暮らしが始まりました。
朝には一緒にパンを食べ、昼にはそれぞれの仕事へ向かい、夕方になると、どちらか早く帰った方が夕食を用意しました。
ウィックが魚を焦がした日にはマリーナが笑い、マリーナが市場で高い果物を買わされた日には、ウィックが一緒になって悔しがりました。
休みの日には、町の外れの古い風車や、誰も訪れない入り江へ出かけました。
二人だけが知る小さな浜辺も見つけました。
そこには白い貝殻がたくさん落ちており、マリーナは気に入ったものを拾っては、ウィックの上着のポケットに忍ばせました。
ウィックはそれに気づいておりましたが、知らないふりをしておりました。
やがて一年が過ぎました。
マリーナは、北の国の話をすることが少なくなりました。
代わりに、ベルカの春祭りのことや、来年は庭に何を植えようかという話をするようになりました。
そしてウィックもまた、いつしか彼女が故郷へ帰る日のことを、考えないようになっていたのでございます。
ところが、ある冬の日のことでした。
港に一隻の北国の商船が入ってまいりました。
その船には、マリーナを探していたという人々が乗っておりました。
彼女の叔父と、兄でございました。
二人は長いこと各地の港を巡り、ようやくベルカにたどり着いたのです。
マリーナは兄の姿を見るなり駆け寄り、泣きながら抱き合いました。
ウィックはその光景を、少し離れたところから眺めておりました。
そして、心から嬉しく思いました。
あの日、自分が交わした約束を、ようやく果たせるのですから。
しかし、その晩。
ウィックが帰郷のための荷物をまとめていると、マリーナが尋ねました。
「これは何ですか?」
「君の荷物だよ。北へ向かう船は三日後に出るそうだ」
「……私が帰ると、誰が決めたのです?」
ウィックは驚いて振り向きました。
「君はずっと、家へ帰りたがっていただろう?」
「ええ。帰りたかったです」
マリーナは答えました。
「でも、それは一年前の私です」
ウィックは黙りました。
「今の私は、ここにいたいのです」
「マリーナ。家族が君を待っていたんだよ」
「知っています」
「ならば、一度帰っておいで。皆に無事な姿を見せて、それから――」
「それから?」
マリーナの声が震えました。
「それから、あなたは私を迎えに来てくださるのですか?」
ウィックは答えられませんでした。
北の国までの船賃は、港で働く彼にとって、決して安いものではありませんでした。
それに、彼女の家族が、自分のような貧しい荷運び人との暮らしを認めてくれるかも分かりません。
マリーナは、彼の沈黙を見つめました。
「あなたは、私がいなくなっても平気なのですね」
「そんなわけがないだろう!」
ウィックは思わず声を荒らげました。
「だったら、どうして!」
彼は何も言えませんでした。
マリーナは部屋を出ていきました。
その晩、二人は初めて、別々の部屋で眠りました。
それからの三日間、二人はほとんど口を利きませんでした。
朝食の席ではパンを分け合い、仕事から帰れば互いに挨拶をしましたが、それ以上の言葉はありませんでした。
出航の前夜。
ウィックは、家の棚に置かれた小さな貝殻を見つけました。
それは、初めて二人で入り江へ行った日に、マリーナが拾ったものでした。
彼は貝殻を手に取り、長いこと眺めておりました。
そして、ようやく気づいたのです。
自分は彼女を幸せにしたかったのではなく、彼女の幸せを、自分一人で決めようとしていたのだと。
ウィックは家を飛び出しました。
港へ向かうと、マリーナは一人、波止場に腰掛けておりました。
「マリーナ!」
彼女は振り返りました。
ウィックは息を切らしながら、その隣に座りました。
「ごめんよ」
マリーナは何も言いませんでした。
「僕は、君が帰ることばかり考えていた。君が今、どこにいたいのか、ちゃんと聞こうともしなかった」
「……私は、家族を愛しています」
「ああ」
「でも、あなたのことも愛しているのです」
ウィックは彼女を見つめました。
「僕もだよ」
港の向こうでは、夜の灯台がゆっくりと光を放っておりました。「私は、あなたと一緒にいたいのです」
「僕もだよ。もう二度と、君の気持ちを聞かずに決めたりしない」
「では、お嫁さんにしてくださる?」
「もちろん」
マリーナはたいそう喜びました。
二人は明日の朝、彼女の家族に結婚の許しをいただこうと約束しました。
北の国で暮らすのもよいでしょう。
この港町に残るのもよいでしょう。
二人でいるのなら、どこへ行っても幸せに違いありません。
「さあ、帰りましょう」
マリーナは笑いました。
「ええ、帰ろう」
ウィックは彼女の手を取りました。
そのとき、マリーナの足首に、波止場から伸びた一本の海藻が絡まりました。
彼女は小さくよろめきました。
ウィックが振り返ると、もうそこには誰もおりませんでした。
水音が一つ、聞こえただけでした。
彼は慌てて海を覗き込みました。
しかし、娘の姿はありません。
海藻も、靴も、髪飾りも、何一つ浮かんでおりませんでした。
ウィックは朝まで彼女を探しました。
翌日も、その翌日も。
北の国から来た家族も、港の漁師たちも、町の人々も、皆で探しました。
けれど、マリーナはとうとう見つかりませんでした。
可哀想なウィック。
彼はその後も長いこと、あの港で暮らしました。
妻を迎えることもなく、毎日せっせと働き、年老いてからも、時折海を眺めておりました。
彼女がどこへ行ってしまったのか、誰にも分からなかったのでございます。
さて、北の国には、古い言い伝えがございます。
海で道に迷った者は、海藻を身に巻くとよい。
そうすれば、海がその者を生まれた地へ送り届けてくれるのだそうです。
マリーナも、この言い伝えをよく覚えておりました。
だからこそ、海賊の船から逃げ出したあの晩、彼女は海藻を身体に巻きつけたのでした。
なんとも賢い娘ではありませんか。
そして、言い伝えは本当だったのでございます。
海は彼女を、間違いなく生まれた地へ送り届けたのですから。
ただ、マリーナは一つだけ、思い違いをしておりました。
彼女は自分が北の国で生まれたと思っていたのです。
けれども、北の国ができるよりも、ずっとずっと昔。
人間が初めて生まれた場所は、どこだったのでしょう。
そう。
海でございます。
ですから、あの晩、海藻が彼女を連れていったのは、少しも不思議なことではありません。
海は初めから、約束を破ってなどいなかったのです。
めでたし、めでたし。




