夜風の花嫁
――ある王国に伝わる、名もなき娘と王子の物語。
昔々、あるところに、カタリーナという娘がおりました。
カタリーナは貧しい村に生まれましたが、それはそれは心の美しい娘でございました。
春には野の花を摘んで病人の枕元に飾り、冬には凍える小鳥を懐に入れて温めました。彼女が笑えば、気難しい老人もつられて笑い、泣いている子供もいつしか涙を忘れるのでした。
そんなカタリーナには、一つだけ不思議な習慣がありました。
夜風が窓を叩く晩には、決まって森の向こうの崖へ出かけていくのです。
そこには、一人の王子がおりました。
二人が初めて出会った晩、王子は尋ねました。
「娘よ、こんな夜更けに何をしに来たのだ」
「風に呼ばれたのです」
「風が人を呼ぶものか」
「ええ。けれど、今夜は確かに私の名を呼んだのです」
王子は不思議そうに娘を見つめました。
「名は何という」
「カタリーナと申します」
「カタリーナ。美しい名だ」
それから二人は、幾度となく星空の下で会うようになりました。
王子は城での暮らしを語り、カタリーナは村での出来事を語りました。
ある夜、王子は尋ねました。
「お前は、何を望む?」
「明日も、今日と同じように笑って暮らせることです」
「それだけか?」
「ええ。それが何より難しいことですもの」
王子は何も言いませんでした。
ただ、その日から王子は、彼女が来るよりも少し早く崖へ出向くようになりました。
やがて二人は、互いの姿を見つけるだけで幸せになるほど、深く想い合うようになったのでございます。
ところが、ある冬の晩。
カタリーナは森の中で、一人の魔女に出会いました。
魔女は彼女の美しさに目を留め、自分の醜い息子の嫁になるよう命じました。
カタリーナが断ると、魔女はたいそう怒り、恐ろしい魔法をかけようとしました。
そこへ王子が駆けつけました。
王子は娘を守り、魔女を退けましたが、消え去る間際、魔女は二人にこう告げたのです。
「お前たちの幸せが、いつまでも続くと思うでないぞ」
それきり、魔女の姿は見えなくなりました。
王子はカタリーナを村まで送り届けました。
別れ際、娘は王子の手を取りました。
「王子様。明日も、あの崖でお会いできますか」
「ああ。明日も、その次の日も」
「では、百年後も?」
王子は笑いました。
「百年後も、お前が私を覚えているのなら」
カタリーナも笑いました。
「まあ。私があなたを忘れる日など、来るはずがありませんわ」
それからほどなくして、王子はカタリーナを妻に迎えました。
身分の違いを理由に結婚を惜しむ者もおりましたが、王子は決して心を変えませんでした。
婚礼の日、王国中の鐘が鳴りました。
娘は白い花の冠を戴き、王子はその手を取って、国中の人々の前で永遠の愛を誓いました。
それは、王国始まって以来の美しい婚礼だったといわれております。
二人は幸せに暮らしました。
春には庭に花を植え、夏には川辺を歩き、秋には収穫を祝い、冬には暖炉のそばで本を読みました。
カタリーナは王妃となっても、村にいた頃と少しも変わりませんでした。
困っている者がいれば手を差し伸べ、悲しむ者がいれば、その話に耳を傾けました。
王子もまた、そんな妻を心から愛しておりました。
しかし、幸せな日々の中で、一つだけ奇妙なことが起こり始めました。
カタリーナは、少しずつ忘れられていったのです。
初めは、城の召使いが彼女の名前を思い出せなくなりました。
次に、村の人々が彼女の顔を忘れました。
やがて、王国中の誰もが、王妃がどのような娘であったのか、語れなくなってしまいました。
ただ一人、王子を除いては。
王子は古い書物を調べ、賢者を呼び、ようやく魔女の呪いの正体を知りました。
それは、カタリーナがこの世から去るまで、彼女の存在を人々の記憶から少しずつ奪っていくというものでした。
そして最後には、最も愛する者の記憶からも消えてしまうのだと。
王子は恐れました。
何よりも、妻を忘れることを恐れました。
そこで王子は、毎晩一冊の本に、カタリーナのことを書き記すようになりました。
彼女の好きな花。
笑うときに少しだけ首を傾げる癖。
雨の日には窓辺に座ること。
悲しいときほど、誰かを気遣うこと。
そして、初めて出会った夜のこと。
王子は何年も、何十年も書き続けました。
けれども、時は無情なものでございます。
ある朝、王子は目を覚ますと、隣で眠る妻を見て、こう尋ねたのでした。
「あなたは、どなたですか」
カタリーナはしばらく黙っておりました。
それから、いつものように微笑みました。
「私はカタリーナです」
「カタリーナ……」
王子はその名を繰り返しました。
「美しい名ですね」
カタリーナは、とうとう泣いてしまいました。
王子は困ったように彼女を見つめましたが、なぜだか胸が苦しくなり、そっとその手を握りました。
「どうか、泣かないでください」
その晩、王子は一冊の本を見つけました。
表紙には、自分の筆跡でこう書かれておりました。
『私が、この世で最も愛した人について』
王子は夜が明けるまで、その本を読みました。
読み終える頃には、頬が涙で濡れておりました。
しかし、どうして泣いているのか、王子には分かりませんでした。
翌朝、カタリーナは王子に言いました。
「今夜、少しだけお散歩をしませんか」
二人は、かつて出会った崖へ向かいました。
空には満天の星が輝いておりました。
カタリーナは王子の隣に腰を下ろしました。
「昔、ここで一人の王子様に出会ったのです」
「ほう」
「その方は、とても優しい方でした」
「それは、幸せな娘だったのでしょうね」
「ええ。世界で一番」
冷たい夜風が吹きました。
カタリーナは王子の肩に頭を預けました。
「もしも、私のことを何もかも忘れてしまっても、どうか悲しまないでくださいね」
王子は不思議そうに彼女を見つめました。
「なぜ、そんなことを?」
「私が、あなたを覚えておりますから」
王子は答えませんでした。
ただ、彼女の手を握りました。
それが、二人で過ごした最後の夜となりました。
翌朝、王子が目を覚ますと、隣には誰もおりませんでした。
城の者たちは、王妃など初めからいなかったと言いました。
王子はそれを聞いて、ひどく不思議に思いました。
なぜなら、自分の指には結婚指輪があり、寝台の隣には、いつも誰かが眠っていたような温もりが残っていたからです。
王子は長いこと、誰かを探しておりました。
けれども、誰を探しているのか分かりませんでした。
ある日のこと。
王子は庭で、小さな白い花を見つけました。
それを摘み上げたとき、どこからか夜風が吹いてきました。
王子はふと、遠い森の向こうにある崖を思い出しました。
そして、理由も分からぬまま、涙を流したのでございます。
それから王子は、毎年、星の美しい夜になると、あの崖を訪れるようになりました。
そこに腰を下ろし、ただ夜空を眺めました。
何を待っているのか、自分でも分からぬまま。
やがて王子は年老い、静かにこの世を去りました。
王子の死後、城からは一冊の古い本が見つかりました。
その本には、一人の娘について、何百頁にもわたって書き記されておりました。
しかし、どの頁にも娘の名前だけがありませんでした。
ただ、最後の頁に、震える文字でこう残されていたのです。
「私は、あなたを忘れてしまったのでしょうか。」
「それでも、あなたを愛していたことだけは、どうしても忘れられないのです。」
王国の人々は、その本を大切に保管しました。
そして、いつしか、星の美しい夜には白い花を飾る習慣が生まれました。
誰が始めたのかは分かりません。
何のために飾るのかも、誰も知りませんでした。
ただ、王国には一つの古い言い伝えが残りました。
夜風が窓を叩く晩には、どうか耳を澄ませてごらんなさい。
風の中から、優しい娘の笑い声が聞こえることがあるのです。
その娘は、今でもどこかで、愛する王子を待っているのだといいます。
そして、二人が初めて出会った崖には、季節を問わず、一輪の白い花が咲いているのでございます。
めでたし、めでたし。




