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第四章:神殿の影(前半)

中央神殿へと続く大階段の麓に辿り着いたとき、上空を覆う雲は一段と厚みを増し、陽光を鈍い鉛色へと変えていた。


見上げるほどに巨大な石段が、遥か上方に位置する神殿の白亜の門へと一直線に伸びている。その段の一枚一枚は、角が完全に直角に切り出された均一な大理石で覆われていた。しかし、踏面の滑り止めとして彫られた微細な溝の奥に沈む、黒ずんだ鉱物の層――それは、かつてのヴェルナ帝国全盛期に、軍の重装歩兵や輸送馬車を支えるために敷設された、堅牢無比な玄武岩の基盤そのものだった。


現在の神聖ヴェナ教国は、帝国の残した強固な土木遺構をそのまま自らの背骨として流用し、その表面に「神の秩序」という薄い美装を施すことで成り立っている。歴史学者としてのヴェルトの目は、塗り潰された白い表層の隙間から覗く、その歴史の二重構造を冷徹に捉えていた。


ヴェルトは歩調を緩めることなく、指先に挟んだ炭の棒を、手記の新しいページへと滑らせた。

カリ、カリ、と、炭の微粒子が紙の繊維を削る硬質な音が、張り詰めた空気の中に響く。この国の中枢に近づくにつれ、空間を縛る静寂の密度はさらに高まり、衣服が擦れる音さえも周囲の空間へ配慮するように小さく霧散していく。


――中央神殿、登拝路の観察。

――基礎構造は帝国時代の軍用高架道を転用。

――マナの圧力が山麓の街の約三倍に達している。


「……ますます空気が重くなってきやがったな」


ガロンが、低く濁った声で呟いた。

布の一枚すら巻かれていない、質量十二キログラムの煤けた黒い鉄の大剣。装飾や美観の概念を一切削ぎ落とし、ただ敵を質量によって叩き潰すためだけに鍛え上げられたその凶器は、この潔癖な大階段において、あまりにも強烈な不調和を放っていた。


すれ違う巡礼者や、白衣を纏った下級神官たちが、ガロンの大剣を見てあからさまに不快げに眉をひそめる。だが、彼の腰に下がった臨時傭兵の割当手形が有効である限り、彼らの法規はこの暴力を排除することができない。言葉は少ないが、言ったことは必ず守るこの男の存在だけが、この人為的な静寂の中で確かな物理の理合としてそこにあった。


「ここから先は、中央神殿の直接管轄区域です。神殿の最奥にある『大装置』が放つ感知の波動が、空間そのものを満たしています」


アルテアが、腰の細身の魔導レイピアの鞘に静かに左手を添えながら告げた。

旅が始まった当初の、貴族としての迷いや躊躇いは、今の彼女の瞳にはなかった。二百年前に自らの先祖であるレイナード家が、この教国の神殿と結託して最強の剣術『三花流』を歴史から抹殺したという「血の罪」。その真実の底にあるものを自らの目で見届けるという率直な意志が、彼女の佇まいを支えていた。


「大装置の波動か」


ヴェルトは短く応じた。その声音には、恐怖も動揺も一切含まれていない。


彼の肉体は、外界のあらゆる魔法の流動を魂の表面で遮断する「無響の体」だった。神殿がどれほど高密度な監視魔法や精神統制の波動を放射しようとも、彼の皮膚に触れた瞬間にそれはただの無害なノイズとして霧散する。教国の結界すらも、彼の歩行を阻むことはできない。


だが、それは同時に、あらゆる「奇跡」からの絶対的な孤立を意味していた。

廃村の礼拝堂での激闘、そして先ほどの街路での神殿執行官との緊迫した対峙を経て、ヴェルトの右脇腹の傷は、いまだに衣服の下でじくじくと熱い痛みを放ち続けている。肉体の結合を劇的に促す教国の治癒魔法も、彼の身体にとっては「排除すべき外界の異物」に過ぎない。ゆえに、この傷はただ普通の人間と同じ速度で、生物学的な新陳代謝だけを頼りに塞がるのを待つしかなかった。


一度でも致命的な物理の一撃を受ければ、その場で血を流して朽ち果てるというリスク。その緊迫感が、ヴェルトの思考を常に研ぎ澄まし、周囲の構造を読み解くロジックを鋭利にさせていた。



石段を上り詰めるにつれ、周囲の静寂は不気味なほどの「無音」へと変質していった。


大階段の両脇には、等間隔に配置された白い祈念碑が、まるで墓標のように並んでいる。それらの石碑は、空間に存在するあらゆる音響やマナの乱れを吸収し、中央神殿の管理する「均一な調和」へと強制的に還元するインフラとして機能していた。馬車の車輪の軋みも、人間の話し声も、この領域ではすべてが不自然に抑制され、押し潰される。


国家が魔法という道具のインフラを完全に掌握し、人間の内面や生活、歴史の記録にまでその触手を伸ばしている。その息苦しいほどの統制の最奥に、三花流の『第二の型』の消し残された足跡がある。


「ヴェルト、前方に」


アルテアが、声を極限まで潜めて警告した。

彼女の持つ魔導レイピアの、洗練された銀細工の護拳が、微かな光の反射を返している。


白い門の直前、大階段の最上段に、数人の影が静かに佇んでいた。

彼らが纏うのは、先ほどの街路で見かけた神殿執行官の法衣とは異なる、深い深紅の刺繍が施された重厚な典礼服だった。胸元には、教国の最高意思決定機関である「神殿中枢」の直属であることを示す、精緻な黄金の聖印が刻まれている。


神殿高位執行官。

国家の秩序を脅かすあらゆる「歴史のノイズ」を、根絶やしにするためだけに権限を与えられた、教国内部で最も冷酷な調停者たちだった。


彼らは、中央神殿へと近づくヴェルトたちの姿を、感情の去勢された冷徹な眼光で見下ろしていた。その指先には、空間のマナを一瞬で凝固させ、対象の肉体ごと術理を粉砕する、最上級の戦闘用魔導具が嵌められている。


「……引き返せとは言わねえ面構えだな」


ガロンが低く呟き、肩の大剣をわずかに傾けた。

十二キログラムの鉄の塊が、彼の動きに合わせて僅かに風を切る音を立てる。ガロンの粗野だが本音に実直な佇まいは、どれほど高位の神官が相手であれ、一歩も退く気がないことを示していた。言ったことは守る。彼はこの「記録の旅」を最期まで守ると決めているのだ。


「私たちは書類の手続きを終えた旅人です。神殿の公開領域への立ち入りは、法的に認められているはずですが」


アルテアが前に出て、丁寧だが毅然とした口調で羊皮紙の書類を掲げた。

だが、高位執行官の先頭に立つ、顔の半分を白い布で覆った男は、その書類に視線すら向けなかった。


「学術調査の割当手形など、この聖域の前では一枚の塵に過ぎない。レイナード家の娘よ、汝の祖先が二百年前に何を買い、何をここに置いていったかを忘れたか」


男の声は、周囲の減音インフラを透過して、脳内に直接響くような奇妙な高音を帯びていた。


アルテアの身体が、一瞬、凍りついたように硬直した。

自らの家系が犯した歴史の改ざん。その「血の罪」の重さを、敵の言葉が容赦なく穿ったのだ。彼女の白い指先が、魔導レイピアの柄へと、震えながらも強くかけられる。


「……忘れてなど、いません。だからこそ、私はここにいる」


彼女の言葉は、旅の中で培われた率直な意志によって、かつてないほど鋭く響いた。


「不調和なる者たちよ。汝らの存在そのものが、この国の静寂を乱すノイズである」


高位執行官が、ゆっくりと右手を掲げた。

その指輪に刻まれた術式が、空間の全マナを巻き込みながら、怪しい黄金色の光を放ち始める。神殿の『大装置』と同調したその魔法は、一瞬にして広範囲の人間を縛り付ける、教国最強の戦闘魔法(術理)だった。


「ガロン、アルテア、動くな」


ヴェルトが、短く、断定的なトーンで指示を出した。

直接的な感情表現を一切排した彼の瞳は、迫り来る高密度な魔法の流動、その「構造」を完璧に読み切っていた。


(術式の起点、右手の人差し指。拡散範囲、半径十メートル。マナの波長は完全な直線。……私の前では、その道具は機能しない)


ヴェルトは、腰に下げた飾りのない安物の鉄剣の柄へ、静かに右手をかけた。

彼の肉体、「無響の体」が、周囲の空間を満たす黄金の魔力を、その皮膚の表面で冷徹に遮断し始める。神殿の術式が、彼の魂に触れた瞬間に、等しく無効化され、霧散していく。


だが、その瞬間だった。


ドクン、と。

ヴェルトの心臓が、再びあの異常な脈動を刻んだ。


廃村の礼拝堂で感じた、あの感覚。前世で中世剣術史を研究し尽くし、あらゆる理合を構造として脳内に蓄積していた歴史学者としての魂が、彼の肉体の運動神経細胞と、狂ったように同調を開始する。


「――っ」


ヴェルトの意思とは無関係に、彼の右腕の筋肉が、ミリ単位の精度で不自然に収縮を始めた。

空間の底に残留している、二百年前にこの地で戦った『三花流の残響』。それを、彼の「無響の体」が、外界の魔法を遮断する魂のフィルターを通じて、ダイレクトに受信しているのだ。


未来予知ではない。

かつてこの神殿の門前で、世界の歪みを感知しながらも剣を収めた、先人たちの滅びた剣の、続きの残響。


高位執行官たちの放つ魔法の光の向こう側、白い門の奥へと続く空間の構造が、ヴェルトの脳内で一本の「線」として完璧に繋がり、組み上がっていく。


シュル。


静かで、しかし凍り付くほど冷たい摩擦音が、中央神殿の大階段の最上段に、確かに響き渡った。

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