第二章 金曜日の値上げ会議(3)
黄金がカウンターに置いたはがきを、俺は手に取った。
表には、この店の住所と宛名が印字されていた。
『久遠宗一郎様』
祖父の名前だった。死亡届は、父が出したはずなのに。
裏返すと、事務的な文字が並んでいた。
『特定幻想種生息状況調査(立入検査)のお知らせ』
『四月十一日(金)午後三時、担当職員がお伺いします』
『凪浜市役所 市民生活部 特定幻想種管理係』
「とくてい、げんそうしゅ」
「ウチらのことやろな」
黄金が、そろばんを片付けながら言った。
「幻想とは無礼であるぞ。余は、ここにおる」
陽華が腕を組んだ。そういう問題ではない気がする。
「……昨日届いたなら、なんで昨日言わなかったんだ」
「先に言うたら、店長はん、値上げの話どころやなくなるやろ」
正論だった。腹は立つけれど。
「あらあら。お客さまが来るなら、お茶うけがいるわねぇ」
まほろさんが、ゆっくりと立ち上がった。膝の上から、翠がころんとすべり落ちた。
*
「朔ちゃん。オーブン、借りていいかしらぁ」
厨房の隅には、祖父の古いガスオーブンがある。祖父の頃は、トーストやケーキも出していたらしい。再開してからは、一度も火を入れていない。
まほろさんは棚の奥から、真ん中に筒の立った丸い型を取り出した。アルミの肌がくすんで、縁が少しへこんでいる。
「シフォンの型よぉ。宗一郎さん、これで毎週焼いてたの」
「……それも、見てたのか」
「ええ。ずうっと、ねぇ」
同じ棚には、封を切っていない薄力粉と砂糖の袋も残っていた。
ぱかん、ぱかん、と卵を割る音が続いた。まほろさんは殻を器用に使って、黄身と白身を分けていく。卵は六個。昨日、六個入りを二パック買ってきたうちの一パックぶんだ。
黄身に砂糖を加えて、泡立て器ですり混ぜる。濃い黄色が、白っぽいクリーム色に変わった。そこへサラダ油と水を少しずつ。最後に、ふるった薄力粉を入れて、粉気がなくなるまで混ぜる。
それから、白身のボウルを抱えた。
しゃかしゃかしゃかしゃか。
手が、ほとんど見えなかった。透きとおっていた白身が、みるみる白い泡に変わっていく。残りの砂糖を三回に分けて加えるたびに、泡はつやを増した。
泡立て器を持ち上げると、白い角がぴんと立った。先が、少しもおじぎをしない。
「……電動より速くないか」
「土の竜は、力持ちなのよぉ」
メレンゲをひとすくい、黄身の生地になじませる。残りは二回に分けて、今度はゴムべらで。底からすくい上げて、返す。泡をつぶさないように、ゆっくりと。
油を塗らない型に流しこんで、台の上にとん、とんと二回落とす。大きな泡が抜けて、表面がなめらかになった。
百七十度に温めておいたオーブンで、四十分。
厨房の匂いが、少しずつ変わっていった。最初は、生の卵の匂い。やがて、甘い湯気の匂い。最後は、縁が色づくときの香ばしい匂い。
焼き上がった型を、まほろさんはすぐに逆さにした。真ん中の筒に空き瓶の口を差しこんで、宙に浮かせる。
「冷めるまで、こうしておくの。上を向けたままだと、しぼんじゃうのよぉ」
「まほ姉。卵六個やで。今、卵なんぼするか知っとる?」
厨房の入口から、黄金が顔だけ出していた。
「おいしいものはねぇ、タダじゃできないのよぉ」
「……ウチの台詞、勝手に裏返さんといて」
*
この四日で、午後三時は客足がいちばん途切れる時間だとわかった。店にいたお客さんも、ちょうど坂を下りていったところだ。
振り子時計が、ボーン、と三つ鳴った。
最後の音が消えると同時に、ドアベルがカランと鳴った。
入口に、黒髪をひとつに結んだ女の人が立っていた。グレーのパンツスーツに、黒い書類鞄。首から下げた市役所の名札には、御影志乃とある。
「凪浜市役所、特定幻想種管理係の御影です。久遠宗一郎さんは、ご在宅でしょうか」
「……孫の、久遠朔です。祖父は、先月亡くなりました」
バインダーを抱えた御影さんの指が、一瞬だけ止まり、やや表情が揺らいだように見えた。
「……そうでしたか。お悔やみ申し上げます」
頭を下げる角度まで、きっちりしていた。顔を上げたときには、もう元の表情に戻っていた。
「では、現在の管理者は久遠さんということで。生息数の確認から始めます」
御影さんはバインダーを開いて、ホールを見渡した。
「一体、二体、三――」
「待つのだ!」
陽華が、御影さんの前に立ちはだかった。
「余らを数えるときは『体』ではなく『柱』と数えよ!」
御影さんは無言で用紙に二重線を引き、横に小さな判子を押した。訂正印だった。
「一柱、二柱、三柱」
陽華、黄金、カウンターの内側で銅のポットを抱えた雫。ボールペンの先が、順番に止まっていく。
「……四柱目は、久遠さんの背後に」
翠が、俺のシャツの裾をぎゅっとつかんでいた。
焙煎室から焔が、厨房からまほろさんが出てくる。これで六柱。残りの一柱は、屋根裏だ。
「全員の目視確認が必要です」
階段の下から呼ぶと、しばらくして朧さんが下りてきた。銀の髪が、寝ぐせで片側だけふくらんでいる。
「……店主。何」
「市役所の人。数を数えたいって」
朧さんは、半分閉じた目で御影さんを見た。
「……朧」
それだけ言うと、くるりと背を向けて、階段を上がっていった。
「七柱。確認しました」
*
「次に、管理者変更届です」
カウンターに差し出された書類を、黄金が横からひったくった。丸眼鏡の奥で、琥珀色の目が上から下へ走る。
「ちょ、待ちいや。この『飼養の状況』って何や。ウチら、飼われてへんで」
「様式上の文言です」
「ほな、様式が間違うとる」
「では、久遠さんとはどのような関係ですか」
「従業員や」
「従業員であれば、賃金の支払い状況も確認します。所管外ですが、念のため」
「……ぐ」
黄金は帳簿を開いて、今朝の一行を御影さんに向けた。
『ブレンド 四百円据え置き。給金は、まかないにて支払い。黒字の月のみ、月末にお駄賃』
「……現物のみ、ですね」
御影さんのボールペンが、すっと動きかけた。
「ちゃう!」
黄金が、ばんとカウンターを叩いた。
「家族や。同居の親族だけでやっとる店に、労働基準法は当てはまらへん。そうやろ、お役所はん」
「……よくご存じで」
「うむ! 余らは親戚のようなものである!」
陽華が胸を張ると、カラン、とドアベルが鳴った。
御影さんは少し考えてから、用紙に書きこんだ。
『同居の親族(自己申告)』
黄金は、ふんとそっぽを向いた。耳が赤い。
誰も触っていないのに、レジが、チーン、と鳴った。
「……今、レジが」
「古いから、ときどき勝手に鳴んねん」
「それも記録しておきます」
「せんでええ!」
*
「一杯、いかがですか」
御影さんは首を横に振りかけて、止まった。
「勤務中ですので、代金はお支払いします」
財布から出た百円玉四枚を、黄金が目にも止まらぬ速さですくい上げた。
「毎度おおきに!」
昨日焼いて、ひと晩寝かせた豆を十五グラム。ミルのハンドルを回す。
ごり、ごり、ごり。
引き出しを開けると、焦がした砂糖のような香りが立った。隣で雫が、銅のポットを両手で抱えている。
「朔さま。八十八度でございますわ」
湯通ししたドリッパーに粉を移して、最初の湯を細く落とす。粉がふっくらと膨らんで、細かい泡を吹いた。三十秒。それから「の」の字に、三度。黒に近い焦げ茶が八分目まで満ちたところで、ドリッパーを外した。
御影さんは香りを確かめてから、口をつけた。
「……温度、香りともに良好です」
感想というより、報告だった。けれど二口目は、一口目より少し早かった。
*
「はい、お茶うけよぉ」
まほろさんが運んできた皿には、シフォンケーキが載っていた。型の縁と筒に細いナイフを沿わせて外し、切り分けたものだ。きつね色の皮の内側は、淡い卵色。断面には、細かい気泡がびっしりと並んでいる。
「こちらのメニューに、ケーキはないようですが」
「試作なのよぉ。お代はいらないわ」
「利害関係者からの供応は、受けられません」
御影さんはきっぱりと言った。
そして、フォークを手に取った。
「……ですが、提供される飲食物の状態を確認する必要があります。これは検査の一環です」
フォークの側面を当てると、生地はふわりと沈んで、すぐに押し返してきた。
ひと口。
御影さんの目が、ほんの少しだけ大きくなった。それからブレンドを一口飲んで、小さく息をついた。
俺も、端の一切れをもらった。口の中でしゅわっとほどけて、卵のやさしい甘さが広がる。甘さはしつこくなくて、あとには焼けた縁の香ばしさだけが残った。
「うまいのだ! ふわふわなのだ!」
「まあ……。雲をいただいているようですわ」
「……ふわふわ」
翠が俺の背中から手だけ伸ばして、一切れ持っていった。
焔は黙って一切れを平らげてから、ぼそりと言った。
「……焼きは、甘くねえ」
たぶん、焔なりの最上級のほめ言葉だ。
「一切れ、原価なんぼやろ。百五十円で出したら……」
黄金は、食べながらそろばんを弾いていた。
御影さんの皿は、いつのまにか空になっていた。まほろさんが、何も言わずに二切れ目を載せる。
御影さんは皿を見て、まほろさんを見て、また皿を見た。
「……二切れ目も検査の一環です」
「なあ、朔」
焔が、俺の脇腹を肘でつついた。
「なんなんだよ、あのケーキの人」
たぶん、今日から御影さんはケーキの人だ。
*
「本日の検査は、以上です」
二切れ目を食べ終えると、御影さんはバインダーを閉じた。
「今後も定期的に伺います。管理者変更届は、来週中にご提出ください」
「シノ!」
陽華が、名札を指さして笑った。
「次は仕事ではなく、遊びにまいれ。今日から友達である!」
御影さんは答えなかった。ただ、戸口で一度だけ振り返った。
その目が、壁の写真に留まった。店の前に並ぶ、若い頃の祖父と祖母だ。
「……台帳の管理者欄は、昭和四十年から、ずっと久遠宗一郎さんのお名前でした」
御影さんは、写真に小さく頭を下げた。
「長いあいだ、お疲れさまでした」
カラン、とドアベルが鳴って、ガラス戸が閉まった。
昭和四十年。
祖父がこの店を開いたのは、五十七年前。昭和四十三年のはずだ。
店を開く前から、祖父は、竜たちと何かでつながっていたことになる。
振り子時計が、ボーン、とひとつだけ鳴った。三時半だった。
「店長はん」
黄金が、帳簿から顔を上げた。
「今夜のまかない、安うてうまいやつな」
それなら、もう決めてある。




