第二章 金曜日の値上げ会議(2)
四月十一日、金曜日。朝の七時半。
開店まではまだ二時間半あるのに、カウンターの真ん中にはそろばんが置かれていた。
角のすり減った、古いそろばんだ。黒い珠がびっしりと並んでいる。その向こうで、黄金が丸眼鏡を指で押し上げた。
「ほな、始めよか。第一回、喫茶七曜の経営会議や」
ぱちん、と珠がひとつ弾かれる。
壁の黒板には、祖父の字で『本日のブレンド 深煎り』。その下に、今朝俺が書いた『本日の担当は、黄金です。』が並んでいる。黄色いチョークで書いた。金色のチョークは、坂の下の文房具屋にも売っていなかった。
テーブル席には、ほかの竜たちが集まっていた。
焔は焙煎を終えたばかりで、髪の先から炭の匂いをさせたまま頬杖をついている。雫は背筋を伸ばして座り、テーブルに銅のポットを置いていた。陽華は窓際の陽だまりにいちばん近い椅子を選んで、目を細めている。
まほろさんは奥のテーブルで椅子に深くもたれ、膝に翠を乗せていた。三日間の眠りから覚めて五日経つのに、まだ瞼が重そうだ。
朧さんの姿はない。夜のうちはあれほど屋根裏をきしませていたのに、朝になるとぴたりと静かになる。
朧さんのほかは、これで全員だ。
「まず、この三日間の数字な」
黄金の指が、目で追えない速さで珠の上を走った。
「八日が四十一杯。九日が二十三杯。昨日が十九杯。合わせて八十三杯、三万三千二百円」
「……ちゃんと減ってるな」
「初日はご祝儀や。千客万来は一日だけ。こっからが本番やで」
黄金は、祖父の机から出してきたらしい伝票の束を、そろばんの横に置いた。
「で、こっちが問題。宗さんが去年仕入れた生豆の値段と、宗さんが三月に取り寄せとった今月ぶんの見積もりや」
のぞきこむと、数字がほとんど倍になっていた。
「生豆は、三百グラム焼いたら二百五十グラムになる。一杯十五グラムやと、生のまんまで十八グラム使うてる計算や。豆代だけで、去年は一杯二十二円。今月からは四十三円」
「四十三円なら、まだ四百円のうちの……」
「それに光熱費、水道、炭代、固定資産税。宗さんの帳簿見たら、去年からもう綱渡りや。そこへ豆が倍。わかるやろ」
ぱちん。
黄金はカウンターに身を乗り出して、声をやわらげた。
「なあ店長はん、ブレンド五十円だけ値上げせえへん? な? ちょっとだけやん」
「……」
「一日二十杯として、ひと月二十六日開けたら二万六千円違う。大きいで」
正論だった。反論のしようがないくらいの。
それでも、口が勝手に動いた。
「上げない」
「理由は」
「祖父の代から四百円だ」
黄金が眼鏡の奥で目を細めた。そろばんの上で、指が止まる。
「……それ、理由になってへんで」
「わかってる」
わかっている。祖父だって、いつかは上げるつもりだったのかもしれない。それでも、あの人が最後の日まで四百円で出していた一杯を、俺の代の最初の月に変える気にはなれなかった。
シュウッ、とテーブルの上でポットが鳴った。
「朔さま……ご立派ですの……!」
雫の頬が赤い。ポットの口から、湯気が勢いよく噴き出している。
「雫、落ち着け。それ何度だ」
「……九十八度ですの」
「開店前に沸かしきるな」
陽華が立ち上がって、窓を開けた。
「シズ、ガラスが真っ白なのだ。お日さまが見えぬではないか」
「ほんなら、もうひとつの話や」
黄金は咳払いをして、珠を払い直した。
「給金の話。この店、ウチら七人で回しとるやろ。ひとり時給千円、一日八時間として」
ぱちぱちぱち、と珠が鳴る。
「一日、五万六千円」
「……は?」
「昨日の売上の、ざっと七倍やな」
「アタシ、そんなにもらえんの!?」
焔が椅子から腰を浮かせた。しっぽが飛び出して、先に火がぼっと灯る。
「もらえるわけあるか。払うんは店や」
「店って朔だろ」
「せや」
全員の視線が、俺に集まった。財布の中身を思い出す。千円札が三枚。
「……払えない」
「知っとる」
黄金はあっさりと言った。
「ほな聞くけど。みんな、金もろたら何に使うねん」
竜たちが顔を見合わせた。
「炭」
焔が即答した。
「いい炭。備長炭ってやつ」
「それは店の経費や、ホム」
「わたくしは、きれいなお水があれば……」
「それも水道代で落ちるわ、シズ」
「余は、みなと食べる飯があればよいのだ」
陽華が、窓辺から振り向いて言った。黄金は何か言いかけて、口を閉じた。
まほろさんは答える前に寝息を立てはじめ、その膝の上で翠が首を傾げた。
「……金って、燃えんのか?」
焔がぽつりと言った。
「燃やすな!」
黄金の声が、今日いちばん大きかった。
笑いがおさまるのを待って、俺は口を開いた。
「給料は出せない。でも、飯なら出せる」
四月二日の夜を思い出していた。祖父の七輪で焼いたおにぎりと、鍋いっぱいの豚汁。焔が火の番をして、みんなで手を合わせた、あの夜のことを。
「毎晩、まかないを作る。それが給料じゃ……だめか」
「だめなもんか」
焔が言った。
「アタシ、あの豚汁がいい」
「わたくしも、賛成ですの」
「……翠も。……ごはん、すき」
翠が、まほろさんの膝の上で小さく手を上げた。陽華が大きくうなずく。
黄金だけが、黙っていた。
それからそろばんを脇にどけると、がま口から百円玉を四枚出して、カウンターに並べた。この前の月曜、坂の下の骨董屋で古い茶碗の目利きをして稼いだ小遣いだという。
「一杯、もらおか。客として」
「……会議中だぞ」
「せやから、客としてや。値段の話するんやったら、まず飲まな始まらへん」
雫からポットを受け取った。温度計は、まだ九十八度を指している。蓋を開けて、湯を休ませた。
そのあいだに、祖父の手挽きミルへ豆を量り入れる。焔が昨日の夜明け前に焼いて、ひと晩寝かせた豆だ。古い秤の針が、十五で止まった。
ハンドルを回す。
ごり、ごり、ごり。
豆の砕ける手ごたえが、手のひらに伝わってくる。挽き目は中挽き。立ちのぼる香りは、焼いてひと晩のぶん、まだ若かった。焦がした砂糖の甘さが先に来て、その奥から、ビターチョコのような苦みが追いかけてくる。
温度計の針が、ゆっくりと下がっていく。九十四、九十、八十八。
陶器のドリッパーに粉を移し、中心に細く湯を落とした。粉がふっくらと盛り上がり、表面に細かな泡が立つ。三十秒、蒸らす。
二投目は「の」の字を描くように。三投目で、縁の近くまで湯を満たす。
ぽた、ぽた、とサーバーにコーヒーが落ちていく。朝の店に、その音だけが響いていた。
カップに注ぐ。黒に近い焦げ茶で、光の当たる縁だけが、うっすらと赤く透けていた。
黄金はカップを両手で包み、香りを確かめてから口をつけた。
ひと口。
それから、長いこと黙っていた。
「……安いわ」
「え」
「四百円は、安すぎる」
黄金はカップを置いて、ようやく笑った。
「せやから、上げたらあかんのや。こんだけのもんが四百円で飲めるから、テツさんは休みのたびに坂を上がってくるし、源さんはかみさんや孫まで連れてくるんや。宗さんは、それをちゃんとわかっとったんやな」
黄金は帳簿を開いて、万年筆で書きつけた。
『ブレンド 四百円据え置き。給金は、まかないにて支払い。黒字の月のみ、月末にお駄賃』
「……お駄賃?」
「黒字になったらや。ならへんかったら、なしや」
ぱちん、と最後の珠が弾かれた。
「ほんで、店長はん。銭も払わんと、七人働かすんや。タダほど高いもんはないで。まかない、一日でも抜いたらあかんからな」
「わかった。……ありがとう、黄金」
黄金が、ぷいと横を向いた。
誰も触っていないのに、レジが、チーン、と鳴った。
「……ちゃう。古いから、ときどき勝手に鳴んねん」
焔が、にやにやしながら身を乗り出した。
「で、今夜のまかないは何だよ」
「安うて、うまいもんや。な、店長はん」
黄金はカウンターの四百円を集めて、レジにしまった。
「言うとくけど、値上げはあきらめたわけちゃうで。来月の会議で、また言うからな」
古時計が、ボーン、と八つ鳴った。屋根裏で、何かが寝返りを打つ音がする。
「それと、もうひとつ」
黄金は帳簿のあいだから、はがきを一枚抜き出した。昨日の郵便に交じっていたらしい。市役所の名前が刷られている。
「今日の三時、お役所はんが来るで」
「……は?」




