第二章 金曜日の値上げ会議(1)
目が覚めたのは、匂いのせいだった。
窓の外は、まだ夜の色を残した青だった。枕元のスマートフォンは、四時五十分を指している。
なのに、家じゅうに焙煎の匂いが満ちていた。焦がした砂糖のような、甘くて香ばしい匂い。子どもの頃、夏休みにこの家へ泊まると、毎朝この匂いで目を覚ましたものだった。
階段を下りて、厨房を抜ける。
焙煎室の扉の隙間から、赤い光と、カラカラという音が漏れていた。
焔が、ひとりでハンドルを回していた。
「……起きたのか」
振り向きもせずに、焔が言った。
「手伝うよ」
「いらねえ。もう二ハゼだ」
ピチ、ピチピチ、とドラムの中で豆が鳴っている。焔は匙を抜いて、豆の色を確かめた。黒に近い焦げ茶。祖父の豆の色だ。
「じいさんは、毎朝この時間だった」
焔はそれだけ言って、取り出し口の蓋を跳ね上げた。
*
勝手口から外に出て、裏庭を抜け、店の表へ回った。
坂の上の空が、白みはじめていた。焙煎室の小さな煙突から、白い煙が細く立ちのぼって、朝の風に流されていく。
坂の下から、原付のエンジン音が上がってきた。
朝刊の配達だった。紺のジャンパーの男の人が、店の前で原付を停めて、新聞を郵便受けに差しこむ。
それから、ふと顔を上げた。
煙突の煙を、見ていた。
しばらくそのまま見上げていて、やがて、俺に気づいた。ヘルメットのつばに、軽く手をやる。
俺も、頭を下げた。
原付は、そのまま坂の上へ走っていった。
三月十四日の朝、祖父を見つけたのは、朝刊の配達員だったと聞いている。いつもなら煙が上がっている時間なのに、上がっていなかったから。
あの人だったのかどうかは、わからない。
煙は、まだ細く立ちのぼっていた。
*
開店の準備は、九時から始めた。
二階の押し入れの奥に、祖父のエプロンの替えが何枚か、たたんでしまってあった。紺の、色の褪せた綿のエプロンだ。
首にかけて、腰のひもを結ぼうとしたとき、後ろから大きな手がそっと重なった。
「あらあら。ちょうちょ結び、縦になってるわよぉ」
まほろさんだった。三日間眠りつづけて、おとといの朝にようやく起きてきたところだ。
まほろさんは俺の背中で、ひもを結び直してくれた。
「はい、できた。……おんなじ後ろ姿ねぇ」
誰と、とは聞かなかった。
メニューは、ブレンドだけにした。祖父がいた頃はトーストもケーキもあったけれど、今の俺に出せるのは、この一杯だけだ。
レジの引き出しには、釣り銭がぎっしりと詰まっている。千四百二十円では商売にならへん、と言って、黄金が俺から一万円を預かり、坂の下の信用金庫で崩してきたのだ。
入口を入ってすぐの壁には、小さな黒板が掛かっている。
チョークの字が、ひとつだけ残っていた。
『本日のブレンド 深煎り』
祖父の字だ。三月十三日から、誰も消していない。
消すことは、できなかった。その下の空いたところに、チョークで書き足す。何を書こうか迷って、先週の焔の言葉を思い出した。
――今日は火曜だ。アタシの日は、火のまわりがいいんだよ。
『本日の担当は、焔です。』
書き終えたところで、背後から声がした。
「……何書いてんだ、お前」
焔が、焙煎室から出てきていた。黒板を見て、眉間にしわを寄せる。
「今日の担当」
「消せ」
「なんで」
「……消せっつってんだろ」
言いながら、焔のしっぽの先に、ぽっと火が灯った。
「サク! 余の日にも書くのだぞ! 日曜だぞ! 大きく書くのだぞ!」
ホールの奥から、陽華が飛んできた。
「ウチの日は金曜やで。字ぃ、金色のチョークでな」
レジの向こうから、黄金まで顔を出す。
「……わかった。全員ぶん書くよ」
焔は、ぷいと焙煎室に戻っていった。しっぽの火は、扉が閉まるまで消えなかった。
*
十時。
壁の古時計が、ボーン、と鳴りはじめた。
階段がきしんで、朧さんが下りてきた。銀色の髪は寝ぐせで乱れ、目はほとんど開いていない。
朧さんは時計の前で立ち止まった。十回の鐘が鳴り終わるまで、じっとそれを見上げていた。
「……ん」
それだけ言うと、朧さんはまた階段を上がっていった。
入口のガラス戸の、鍵を開ける。
戸の外に、紺のヤッケが立っていた。
「……開いてたな」
「開いてます」
カラン、とドアベルが鳴った。
テツさんがいつもの端の丸椅子に腰を下ろすと、ドアベルはもう一度、カラン、と鳴った。誰も触っていない。ホールの奥で、陽華が小さく跳ねたのが見えた。
「ブレンド」
「はい」
キャニスターと、棚に並べた大きなガラス瓶ふたつには、昨日焔が三回に分けて焼いた豆が詰まっている。今朝の豆は、明日のぶんだ。焼きたては寝かせろ、と焔には何度も言われた。
十五グラムを量って、ミルを回す。
ごり、ごり、ごり。
引き出しを開けると、深い香りが立ちのぼった。湯を八十八度まで待って、最初の湯を細く落とす。粉がこんもりと膨らんで、ふつふつと泡を吹いた。三十秒。「の」の字を描いて、細く、細く。黒に近い茶色の水面に、明るい泡の輪が浮かぶ。
「お待たせしました」
テツさんは、湯気を吸いこんでから、ひと口飲んだ。
「……おう」
それだけ言うと、店に入るときに郵便受けから抜いてきた朝刊を、カウンターの上に広げた。夜明けに、あの原付が届けていった朝刊だ。
子どもの頃に見ていたのと、同じ姿だった。
帰りぎわ、テツさんは四百円を置きながら言った。
「源さんがな、あとで来るってよ。かみさんだの孫だの、連れてな」
*
その言葉どおり、昼前から、店は急に混みはじめた。
口火を切ったのは、ゴミ袋を提げていたあのおじいさん――源さんだった。今日は手ぶらで、後ろに家族を三人も引き連れている。
「おや、まあ」
源さんが、陽華の頭を見て目を丸くした。
陽華の頭に、王冠のような角が出ていた。お客さんが来たのが嬉しすぎて、しまうのを忘れたらしい。後ろでは、しっぽまでぶんぶんと揺れている。
「今日は、エイプリルフールじゃないよねえ」
「……店の、演出です」
口から、勝手にそう出ていた。
「へえ、演出。よくできてるねえ。あのしっぽ、電池で動くのかい」
「……充電式です」
源さんは「今どきはすごいねえ」と感心して、窓際の席に座った。
それから先は、よく覚えていない。
葬儀に来てくれた人たちが、張り紙を見て、次々に坂を上がってきた。テーブルはすぐに埋まり、カウンターにも人が並んだ。
「いらっしゃいませなのだ! そなたは初めての顔だな? よし、今日から友達である!」
陽華の声が、店じゅうに響いている。
俺は、ドリッパーの前から一歩も動けなかった。一杯淹れるのに、四分かかる。十人待てば、四十分だ。手が、まるで追いつかない。
祖父は、これをどうやってひとりで回していたのだろう。
ふと、カウンターの下から、白いカップがすっと差し出された。
翠だった。頭の双葉だけをカウンターの陰からのぞかせて、温めたカップを、ひとつ、またひとつと並べていく。
「……ありがとう」
双葉が、ぴこりと揺れた。
流しでは、まほろさんが鼻歌まじりに、下げてきたカップを洗いつづけている。翠が並べるカップは、そこから回ってくるのだった。
レジのほうから、声が聞こえた。
「本日は、はじめてのお客さまですもの。お代は――」
「毎度おおきに〜! 四百円、ちょうどいただきます〜!」
雫がにこにこと話しかけていた女の人の前に、黄金が割りこんで百円玉を受け取った。真鍮のレジが、チーン、と鳴る。
「……シズ。あとでちょっと話あるわ」
「まあ。何のお話ですの?」
雫は首を傾げながら、俺の隣にやってきた。
「朔さま。お湯は、わたくしが」
雫が銅のポットを持つと、温度計の針は八十八度を指したまま、ぴたりと動かなくなった。湯が、雫の言うことを聞いているみたいだった。
湯が冷めるのを待つ時間が、まるごと消えた。
*
十八時。
最後のお客さんを送り出して、ガラス戸の札を裏返した。
足が、棒のようだった。
エプロンを外そうとして、背中のひもに手をやる。まほろさんが結んでくれたちょうちょ結びは、一日じゅう、ほどけずに残っていた。
カウンターの端では、黄金が帳簿をつけていた。そろばんの珠を弾く音が、ぱちぱちと止まらない。
やがて、ぱちん、と最後の珠が鳴った。
「本日のブレンド、四十一杯。売り上げ、一万六千四百円」
「……けっこう、売れたな」
祖父は、これを五十七年、続けていた。
「せやな。けっこう売れたな」
黄金は、丸眼鏡をゆっくりと押し上げた。
「で、店長はん。今日一日で、この店からなんぼ出ていったか、知っとる?」
知らなかった。
豆の代金も、炭の代金も、ガスも、水道も。考えたことすらなかった。
黄金は帳簿をぱたんと閉じて、にっこりと笑った。目だけが、まったく笑っていなかった。
「――金曜、会議な」




