第一章 火曜日の深煎りブレンド(4)
翌日の昼すぎ、テツさんは約束どおりにやってきた。
カラン、とドアベルが鳴る。潮の匂いが、ひと足先に店の中へ入ってきた。
「おう。来たぞ」
紺のヤッケの肩が、まだ濡れて光っている。漁から戻って、そのまま坂を上がってきたらしい。
「テツ! 来たのだな!」
陽華が、ホールの奥から飛んできた。テツさんは「おう、今日も元気だな」と笑って、昨日と同じカウンターの端の丸椅子に腰を下ろした。
「焔ちゃんは?」
「ちゃん付けすんなっつったろ」
厨房の奥から、不機嫌な声だけが返ってきた。焔は焙煎室の入口にもたれて、腕を組んでいる。出てくる気はないらしい。けれど、しっぽの先には小さな火が灯っていた。
「淹れんのはお前だ。アタシは見てるだけだ」
昨夜、焙煎室で聞いたのとよく似た言葉だった。なのに、今日はちっとも寂しそうに聞こえなかった。
*
棚から、祖父のキャニスターを下ろした。
ラベルには、祖父の字で『三月十三日』。その下に、俺の下手な字で『四月一日』。
蓋を開けた瞬間、香りが飛び出してきた。
昨日の粉とは、まるで違う。焦がした砂糖の甘さの奥に、ほろ苦い煙の匂いがはっきりと立っている。遠くで鳴っていた音が、すぐそばまで来ていた。
十五グラムを量り、手挽きミルに移す。
ごり、ごり、ごり。
ハンドルの手応えが、昨日よりも軽い。焼いたばかりの豆は、ぱりっと乾いているせいだろうか。
やかんが、しゅんしゅんと鳴りはじめた。
「朔さま」
雫が、銅のポットを両手で差し出してきた。
受け取ると、雫はそのまま、すすすと後ろへ下がっていった。一歩、二歩、三歩。……四歩、五歩。
「雫?」
「本日は水曜日。わたくしの日ですの」
雫は、柱の陰から顔を半分だけのぞかせた。
「三歩では、きっと足りませんわ」
賢明な判断だと思う。
ポットに移した湯に、温度計を差す。下がっていく針が、八十八度を指した。
フィルターの縫い目を折り、湯を回して、ドリッパーとカップを温める。粉を移して、縁を軽く叩く。
最初の湯を、粉の真ん中に細く落とした。
その瞬間、粉がむくりと起き上がった。
ふつふつと泡を吹きながら、焦げ茶の表面が丸く、大きく膨らんでいく。昨日の倍はある。ドリッパーの縁に届きそうなほど、こんもりと。
パンが焼けるみたいだ、と思った。祖父のときと、同じだった。
焙煎室の入口で、焔が鼻を鳴らした。
「な。息してんだろ」
三十秒。
「の」の字を描いて、細く、細く。ぽたぽたと落ちていたコーヒーが、細い糸になってカップの底を叩く。黒に近い茶色の水面に、うっすらと明るい泡の輪が浮かんだ。
八分目で、ドリッパーを外す。最後の数滴は、落とさない。
「お待たせしました」
*
テツさんは、昨日と同じように、まず湯気を吸いこんだ。
それから、ひと口。
喉が動いた。
テツさんは、何も言わなかった。昨日よりも、ずっと長く黙っていた。カップを両手で包んだまま、目を閉じている。
店の中が、しんと静かになった。陽華も、柱の陰の雫も、息をひそめているのがわかった。
やがて、テツさんがゆっくりと目を開けた。
店の中を、見回す。壁の古時計。棚の茶葉入れ。真鍮のレジ。焙煎室の入口。それから、カウンターの内側に立つ俺を。
「……宗さんの店だ」
それだけ言って、テツさんはもう一口飲んだ。
首のタオルで、目元をぐいと拭う。
「潮が目に沁みてな」
誰も、何も言わなかった。
*
カップが空になると、テツさんはヤッケのポケットを探って、カウンターに硬貨を並べた。
百円玉が、四枚。
「テツさん、それは――」
「ブレンド一杯、四百円。宗さんの頃から、ずっとそうだ」
テツさんは、硬貨を指でこちらへ押し出した。
「店の一杯には、金を払う。そういうもんだろ」
横から、ぬっと手が伸びた。
「毎度おおきに〜!」
黄金が、目にも止まらぬ速さで百円玉をすくい上げていた。真鍮のレジが、チーン、と高らかに鳴る。
「……黄金」
「なんや。四月、初めての売り上げやで。記念すべき四百円や」
黄金は丸眼鏡を押し上げて、レジの引き出しをうっとりと眺めた。
テツさんは笑って立ち上がり、長靴の音を響かせて入口へ向かった。
ガラス戸に手をかけたところで、張り紙にちらりと目をやる。
「来週の火曜も、休みだ」
ひと呼吸おいて、テツさんは言った。
「……開いてりゃ、寄るわ」
カラン、とドアベルが鳴って、テツさんの背中が坂の下へ消えていった。
*
来週の火曜日。
四月八日だ。
不動産屋が来て、この店を売る日。
カウンターの上には、空になったカップが残っていた。底に、ほんのうっすらと茶色い輪がついている。
人のために頑張っても、ろくなことにならない。東京で、俺はそう覚えて帰ってきた。
でも、さっきのテツさんの顔を、俺はたぶん一生忘れない。
祖父は五十七年間、毎朝あの顔を見ていたのだろうか。
振り返ると、みんながこっちを見ていた。
陽華は、胸の前で両手をぎゅっと握っている。雫は柱の陰から、今度は顔を全部出していた。黄金はレジに手を置いたまま、眼鏡の奥の目を細めている。まほろさんは厨房の入口で、布巾を手にしたまま静かに立っていた。カウンターの端からは、翠の頭の双葉だけがのぞいている。
焔だけが、そっぽを向いていた。しっぽの火が、ちりちりと揺れている。
誰も、何も言わない。店を続けろとも、続けてくれとも。
決めるのは、俺だということだ。
ポケットからスマートフォンを出して、通話履歴から不動産屋の番号を探した。
「……はい。八日の件なんですが」
電話口の担当者は、しばらく黙ってから、残念そうな声を出した。更地にすれば、買い手はすぐにつくこと。今なら悪くない値段になること。考え直すなら今のうちだということ。
俺は、それを最後まで聞いた。相手の話は最後まで聞けと、四年かけて体に叩きこまれている。
「すみません。売るのは、やめにします」
電話を切ると、手のひらがじっとりと汗ばんでいた。
父に連絡しようかと思って、やめた。店について、父は『お前に遺したんだろう。好きにしろ』と言ったきりだ。
だから、好きにする。
カラン、カラン、カラン。
誰も触っていないドアベルが、三回続けて鳴った。
「サク!」
陽華が、カウンターを飛び越えそうな勢いで駆け寄ってきた。
「今のは、そういうことだな? そういうことなのだな!?」
「そういうことだよ」
「うむ!」
黄金が、ぱちんと手を打った。
「ほな店長はん。再開するんやったら、あとで帳簿の話させてもらうで。……値段のことも含めてな」
雫は胸に手を当てて、ほうっと息をついた。まほろさんは「あらあら」と頬に手を当て、翠は双葉をぴこりと揺らした。
焔は、相変わらずそっぽを向いたままだった。
「……勝手にしろ」
しっぽの先の火は、これまででいちばん大きく燃えていた。
*
ガラス戸の張り紙を、そっとはがした。
『誠に勝手ながら、三月末日をもって閉店いたします。五十七年間、ありがとうございました』
これを書いたのは、ほんの二日前の昼だ。あのときは、何も考えないようにして書いた。
新しい紙を広げて、マジックのキャップを外す。しばらく考えてから、書きはじめた。
『誠に勝手ながら、閉店を取りやめます。四月八日(火)より、営業を再開いたします』
同じ「誠に勝手ながら」なのに、今度はずっと書きやすかった。
張り終えて一歩下がると、隣で陽華が満足げにうなずいた。
「うむ。よい字である」
「祖父のほうが、うまいよ」
「そうか? 余は、サクの字のほうが好きだぞ」
不動産屋が来るはずだった日が、店を開ける日になった。
ただ、それだけのことだ。それだけのことなのに、張り紙の文字がなぜだか少しにじんで見えた。
*
夕方、坂の下のスーパーで、豚肉と、ごぼうと、大根と、にんじんを買った。こんにゃくと豆腐と、長ねぎも。
米は、祖父の米びつにまだたっぷり残っていた。冷蔵庫の奥には、祖父の味噌もある。
「今夜は、まかないを作るよ。再開祝いだ」
「まかない?」
陽華が首を傾げた。
「店の人間が食べる、店のごはんのことだよ」
「店の……人間」
陽華は、なぜだか嬉しそうにその言葉を繰り返した。入口のドアベルが、カラン、と小さく鳴った。
ごぼうをたわしで洗い、包丁の先で、鉛筆を削るようにささがきにしていく。
しゃっ、しゃっ、しゃっ。
細い薄片が、水を張ったボウルに落ちて、くるりと丸まった。土の匂いが、ふわりと立つ。
不思議なもので、包丁を握ると手が迷わない。東京にいた頃も、どんなに遅く帰った夜でも、台所に立つと頭が静かになった。
大根とにんじんは、いちょう切りに。こんにゃくは、手でちぎる。そのほうが、味がよくしみる。
鍋に胡麻油をひいて、豚肉を落とした。
じゅうっ。
脂の焼ける甘い匂いが、厨房いっぱいに広がる。肉の色が変わったところで根菜を入れ、油が全体に回るまで炒めた。水を注いで、ことことと煮る。浮いてきた灰色のアクを、お玉ですくう。
大根が透きとおってきたら、豆腐を手のひらの上で切って、そっと沈める。
火を止めてから、味噌を溶いた。
味噌は、煮立てると香りが飛ぶ。お玉の中で菜箸を回すと、茶色い雲が、鍋の中にゆっくりとほどけていった。甘じょっぱい湯気が、ふわりと顔にかかる。最後に、刻んだ長ねぎを散らした。
その間に、おにぎりだ。
炊きたてのご飯を、塩をつけた手で握る。熱い。三角に、固すぎず、ゆるすぎず。
裏庭の物置には、祖父の七輪があった。焙煎室の炭を分けてもらおうとしたら、焔が黙ってついてきて、七輪の炭にふうっと息を吹きかけた。
炭が、ぱっと赤くなる。
「……火の番くらい、してやる」
網の上に、おにぎりを並べる。最初は何もつけずに、表面が乾いて固まるまで焼く。焦らずに、じっくりと。ひっくり返すと、うっすらときつね色になっていた。
そこに、刷毛で醤油を塗る。
刷毛からこぼれた醤油が網に落ちて、じゅっ、と煙が上がった。ちりちりちり、と醤油の焦げる音が続く。
その匂いが、裏庭から店の中まで流れていったらしい。気づくと、背後にずらりと顔が並んでいた。陽華も雫も黄金も翠も、そろって口を半開きにしている。
*
店のテーブルをふたつくっつけて、みんなで囲んだ。
焼きおにぎりと、豚汁。それだけの夕飯だ。
窓の外が暗くなった頃、階段がきしんだ。
朧さんが、屋根裏から下りてきたのだった。テーブルの上を見て、ふっと笑う。
「いい匂いね、朔。屋根裏まで届いたわ」
昼間は寝てばかりいる人と同じだとは思えない、落ち着いた声だった。
朧さんは空いた椅子に腰を下ろすと、窓の外に目をやった。坂の下に、夜の海が暗く広がっている。
「ねえ、朔。八日は、いい日よ」
「……どうして?」
「さあ。どうしてかしらね」
朧さんはそれ以上答えずに、焼きおにぎりをひとつ手に取った。
「いただきます」
俺が手を合わせると、みんなが見よう見まねで手を合わせた。
陽華が、焼きおにぎりにかぶりついた。かりっ、と焦げた醤油の皮が鳴る。
それきり、陽華は動かなくなった。
雫が、豚汁をひと口すすって、お椀を持ったまま固まった。黄金は眼鏡を曇らせたまま箸を止め、翠はほっぺたをふくらませたまま目を丸くしている。朧さんも、かじりかけの焼きおにぎりを手にしたまま動かない。
焔は、無言で焼きおにぎりを半分かじって、無言で豚汁をすすって、無言でもう半分を口に押しこんだ。
誰も、しゃべらない。聞こえるのは、かりっ、ずず、という音だけだった。
陽華が、そっとまほろさんのほうを見た。まほろさんは何も言わずに、糸目をいっそう細めた。
……まずかったのだろうか。
「あの――」
「……飲めなくはねえ」
焔が、ぼそりと言った。
それから、手の中のお椀を見て、焼きおにぎりを見て、眉間にしわを寄せた。
「……じゃなくて。食えなくはねえ」
「言い間違えたな」
「うるせえ」
焔の耳が、真っ赤になった。
黄金が、ぶはっと吹き出した。つられて、陽華も笑いだす。雫は口もとを押さえて肩を震わせ、まほろさんは「あらあら」と目を細め、翠は小さく「……おいしい」と言った。入口のドアベルが、カラン、カランと鳴りやまない。
――この男の飯には逆らえぬ。
あとで陽華は、しみじみとそう言った。
「サク! おかわりなのだ!」
「わたくしにも、おかわりをくださいまし」
「ウチも。……いや、大盛りで」
「……翠も」
「私にも、もうひとつ頂戴」
焔は何も言わずに、空になったお椀だけを、ぐいと突き出してきた。
(第一章・了)




