第一章 火曜日の深煎りブレンド(3)
夜の九時を過ぎると、店の中はすっかり静かになった。
陽華と雫と翠は、早々に二階の和室で寝てしまった。まほろさんは三人を布団に押しこむと、そのまま奥の部屋に引っこんだ。目覚めて最初の一日で、みんな疲れていたらしい。
天井の上からは、ときどき床のきしむ音が聞こえる。屋根裏の朧さんは、日が沈んでから起きだしたようだった。
厨房の奥から、細い赤い光が漏れていた。
焙煎室の扉を開けると、炭の匂いが鼻をついた。
焔は、祖父の木の腰掛けに座っていた。火床の炭は、半分近くが白い灰に変わっている。
「来たか」
焔は立ち上がって、足元の麻袋を顎でしゃくった。昼間から口を開けている袋の奥に、同じような袋があと二つ、壁際に積まれている。
「出せ。三つともだ」
言われたとおりに三つを並べると、焔は袋の口を順に開けて、金属のボウルに生豆をすくい入れていった。一つ目の袋から多めに。二つ目からは、それより少なく。三つ目からは、ひと握りだけ。
量りもしない。迷いもしない。
「……秤、使わないのか」
「いらねえ。じいさんは毎朝、これで三百だ」
半信半疑で、ボウルごと古い秤に載せてみた。
針は、ぴたりと三百を指して止まった。
焔は何も言わずにボウルを取り返すと、豆を指先でかき回しはじめた。灰色がかった緑の粒の中から、欠けたものや黒ずんだものを、ひとつずつつまみ出していく。
「欠けてんのは入れねえ。一粒でも混じると、そこだけ焦げて全部が濁る」
つまみ出された豆が、小皿の上で小さな山になった。
*
焔は火床の前にしゃがみこんだ。
細く息を吸って、炭に向かって、ふうっと吹きかける。
灰をかぶっていた炭が、息を吹き返した。暗い赤から、橙へ。橙から、白っぽい金色へ。熱が顔にぶつかってきて、思わず一歩下がった。
焔のしっぽの先に、小さな火が灯っていた。
「……しっぽ、燃えてないか」
「燃えてねえ」
言ったそばから、火がひとまわり大きくなった。
「燃えてるって」
「うるせえ。今日は火曜だ。アタシの日は、火のまわりがいいんだよ」
たぶん、それだけじゃない。焙煎機の前に立ってから、焔の火はずっと明るい。
焔は焙煎機のハンドルに手をかけて、空のドラムを回しはじめた。
ゴウン、ゴウン。
昼間に聞いたのと同じ、低く鈍い音だ。ドラムの鉄が、炭の熱をゆっくりと吸いこんでいく。
「空で回して、先にドラムを温める。冷てえとこに豆を入れたら、表面だけ焼けて芯が残る」
しばらく回してから、焔はドラムの横に手のひらをかざした。
「……よし。入れるぞ」
投入口の蓋を開けて、ボウルを傾ける。三百グラムの生豆が、ざあっと音を立ててドラムに流れこんだ。
音が変わった。
カラカラ、カラカラ。
鈍い唸りが、乾いた軽い音に変わる。豆がドラムの中で転がり、鉄の壁を叩いている音だ。
「回せ」
焔が、ハンドルから手を放した。
「……俺が?」
「火はアタシが見る。お前は回せ。速くても遅くてもだめだ。ずっと同じ速さで、止めんな」
ハンドルを握ると、木の持ち手が温かかった。祖父の手の形に、すり減っている。
回す。豆のぶんだけ、さっきより重い。
カラカラ、カラカラ。
*
最初の数分は、投入口の隙間から白い湯気が上がった。
「水抜きだ。生の豆は、腹ん中に水を抱えてる。それを先に飛ばす」
匂いは、昼間に麻袋から立っていたのと同じだった。干し草が雨に濡れたような、青臭い匂い。それが湯気と一緒に、焙煎室にこもっていく。
焔は、ドラムの横に差してある小さな匙を抜き取った。中に数粒、豆がすくわれている。
まだ緑だ。ただ、ほんのりと白っぽく乾きはじめている。
五分を過ぎた頃、焔はもう一度匙を抜いた。
豆が、黄色くなっていた。
青臭さは、いつのまにか消えている。代わりに漂ってきたのは、焼きたての食パンのような、ふっくらとした匂いだった。
「……パンの匂いがする」
「まだ半分も来てねえ」
豆の色は、黄色から薄い茶色へ、茶色から栗色へと移っていった。はがれた銀色の薄皮が、火床の上をひらひらと舞う。
そのとき、焙煎室の入口から声がした。
「なあホム。こんな時間に炭焚いて、炭代なんぼか、わかっとる?」
振り返ると、黄金が帳簿を胸に抱えて立っていた。丸眼鏡がずり落ちて、金色の髪の片側が寝ぐせでぴょこんと跳ねている。
「うるせえ。出てけ」
「出ていかへんよ。今月、まだ一円も売り上げてへんのやで。そこへ炭まで――」
黄金の鼻が、ひくりと動いた。
「……ええ匂いやん」
黄金は帳簿を抱えたまま、ちゃっかり壁際に腰を下ろした。
「見物料は、取らんといたるわ」
「こっちの台詞だ」
焔が舌打ちした。
*
十分近く回した頃だった。
パチッ。
ドラムの中で、何かが弾けた。
パチッ、パチ、パチパチッ。
焚き火の薪がはぜるような音が、立て続けに鳴りはじめる。
「一ハゼだ」
焔の目が、すっと細くなった。
「ここからが本番だ。回す手、ゆるめんな」
焔は火箸で、炭の位置をわずかにずらした。息は吹きかけない。白く光っていた炭が、落ち着いた赤に戻っていく。
「火、弱めるのか」
「ハゼてる間に煽ると、外だけ焦げて中が生のまんまになる。じいさんは、ここで一回だけ火を引いた。毎朝、同じとこで」
パチパチという音が、やがてまばらになって、止んだ。
焙煎室が、急に静かになった。
豆の転がる音だけが残っている。匂いは、パンからさらに先へ進んでいた。焦がした砂糖のような、甘くて香ばしい匂い。
昼間、ミルの引き出しを開けたときの匂いに似ていた。けれど、こちらのほうがずっと近い。すぐ目の前で鳴っている音のような匂いだった。
ふと見ると、黄金は帳簿を抱えたまま、壁にもたれて寝息を立てていた。
*
「……なあ」
ハンドルを回しながら、口を開いた。
「なんで知ってるんだ。三百グラムのことも、火を引くところも。祖父が店を閉めたあとに焼いてたことも」
焔は、すぐには答えなかった。火床の赤い光を見つめたまま、しっぽの先の火を小さく揺らしていた。
「アタシは、ずっと見てたんだよ。あのじいさんが焼くのを」
「見てた?」
「こいつの中で寝てる間もな、そばで起きてることは、なんとなくわかるんだ。夢ん中みてえに、ぼんやりとだけどな」
焔は、焙煎機の黒い胴を指の背で軽く叩いた。
「五十七年、毎朝だ。一回も欠かさなかった。……けど、三月十三日だけは違った。夜、店を閉めたあとに、もう一回火を入れたんだ」
「夜に?」
「朝に焼いたぶんが、まだ残ってたのにな。なんでかは、知らねえ」
焔の声が、低くなった。
「次の朝も、じいさんはここに来た。炭に火を入れる前に――」
そこで、言葉が途切れた。
しっぽの先の火が、ふっと小さくなった。
「……アタシは、見てるだけだった」
祖父は、この焙煎室で倒れた。焙煎の支度をしている最中だったと聞いている。誰もいない朝の店で、ひとりきりで。
そう思っていた。
ハンドルを回す手が、止まりそうになった。
「止めんな」
焔が、前を向いたまま言った。
「……ごめん」
カラカラ、カラカラ。
祖父の手の形にすり減った持ち手を、しっかりと握り直す。
「火ってのはな」
焔が、ぽつりと言った。
「燃やすだけのもんだと思ってた。じいさんを見てて、そうじゃねえって知った」
それ以上、焔は何も言わなかった。
*
一ハゼから三分ほど経った頃だった。
ピチッ。
さっきとは違う音がした。
ピチ、ピチピチ、ピチ。
一ハゼよりも細かくて、高い音だ。熱いフライパンに、油が一滴ずつはねるような。
「二ハゼ」
焔が立ち上がった。
投入口の隙間から、白い煙が上がりはじめた。匂いが、また変わる。甘さの奥から、焦げる寸前のほろ苦い匂いが立ってくる。ビターチョコレートと、燻した木を混ぜたような匂いだった。
焔が匙を抜いた。
豆は、焦げ茶色になっていた。表面に、うっすらと油が浮いて光っている。
「まだだ」
ピチピチピチ。
煙が濃くなって、目に沁みた。それでも、焔は火床から目を離さない。
「まだ」
もう一度、匙を抜く。豆の色は、黒に近い焦げ茶に沈んでいた。
「じいさんの豆は、ここまで行く」
焔が、息を吸った。
「――今だ。出すぞ!」
焔が取り出し口の蓋を跳ね上げた。ハンドルを回し続けると、焼きあがった豆がざあっと音を立てて、ざるに流れ落ちた。
「あおげ! すぐ冷まさねえと、余熱で焼けすぎる!」
押しつけられたうちわで、ざるの上を必死にあおぐ。焔はざるを両手で持って、豆を大きく振り上げた。
ばさっ。
舞い上がった銀色の薄皮が、まともに俺の顔に降ってきた。
「……ぶっ」
口にも入った。鼻にも入った。
「ぶはっ」
焔が、吹き出した。
初めて聞く、焔の笑い声だった。
「……笑うなよ」
「うちわの前に顔出すからだろ。バカか」
壁際で、黄金がむにゃむにゃと寝返りを打った。
*
豆の熱が引くと、焔はざるから一粒つまんで、奥歯でかりっと噛んだ。
しっぽの先の火が、ぱっと明るくなった。
「……食ってみろ」
差し出された一粒を、同じように噛んでみる。
かりっ。
最初に来たのは、がつんとした苦みだった。舌の奥まで、まっすぐに届く。
それが引いていったあとで、口の中に、じんわりと甘いものが残った。焦がした砂糖のような、深い甘さ。噛み終わっても、いつまでも消えない。
――最初にがつんと苦いんだ。そのあとで、口の中に甘いのがずっと残る。
昼間のテツさんの声が、耳の奥でよみがえった。
「……これ」
「まだだ」
焔が、ぴしゃりと言った。
「焼きたては、腹ん中のガスが多すぎる。今淹れたら、暴れて味がまとまらねえ。半日寝かせろ。明日の昼が、いちばんうまい」
明日の昼。テツさんが、漁の帰りに寄る時間だ。
焔は最初から、そこまで考えていたのだ。
*
焼きあがった豆を、祖父のキャニスターに移した。
ラベルには、祖父の字で『三月十三日』と書いてある。
少し迷ってから、厨房のペンを取った。祖父の字の下に、一行だけ書き足す。
『四月一日』
祖父の字より、ずっと下手な字だった。
「……じいさんと、同じことすんのな」
焔はそれだけ言って、そっぽを向いた。けれど、しっぽの先の火は、まだ明るく揺れていた。
八日には、不動産屋が来る。この店は、売ることになっている。
それでも、明日の昼までは。
キャニスターを棚に戻して振り返ると、焔は焙煎機にもたれて、もう寝息を立てていた。火床の炭が、白く静かに息をしている。
焙煎機は、もう回らなかった。




