第一章 火曜日の深煎りブレンド(2)
入口に立っていたのは、よく日に焼けた大柄な男の人だった。
紺のヤッケに、ゴムの長靴。首には白いタオルを巻いている。短く刈った髪には、白いものがだいぶ混じっていた。
顔を見て、すぐにわかった。葬儀のとき、祖父の遺影の前でいちばん長く手を合わせていた人だ。
「テツさん」
「おう、朔坊か」
権藤鉄男さん――テツさんは、祖父の代からの常連だった。子どもの頃、夏休みに店へ来るたびに、カウンターの端の席で新聞を広げていたのを覚えている。
テツさんは、ガラス戸の張り紙を親指でとんとんと叩いた。
「葬式のあとは、ずっと沖に出てばっかりでな。今朝、久しぶりに坂を上がってきたら、これだ」
返事をする前に、俺の後ろから橙色の頭が飛び出した。
「いらっしゃいませなのだ!」
陽華だった。いつのまにか、ホールから出てきていたらしい。
陽華はテツさんの前で胸を張って、それから首を傾げた。
「む? そなた……どこかで見た顔だな。夢で見たような気がするのだ」
「夢?」
「まあよい。今日から友達である!」
テツさんは、自分より頭ひとつ小さい陽華を、しばらく黙って見下ろしていた。
「……さっき坂の下で源さんに会ったら、宗さんとこに角の生えた子がいたって言ってたが。あんたかい」
「うむ! 余である!」
「そうかい」
テツさんは、それ以上は何も聞かなかった。ごつい手で、陽華の頭をぽんぽんと二回撫でただけだった。
「権藤鉄男だ。テツでいい」
「テツ! よい名だ!」
カラン、とドアベルが鳴った。
……この町の人は、本当にゆるすぎる。
*
テツさんは、慣れた足取りでカウンターの端の丸椅子に腰を下ろした。
そして、誰もいないカウンターの内側を、じっと見た。
「宗さんに、最後の一杯を淹れてもらい損ねちまったなあ」
独り言みたいな声だった。
俺は何も言えなかった。祖父が倒れた朝、テツさんは沖にいたはずだ。店の前を通らなければ、焙煎の煙が上がっていないことにも気づけない。
祖父の最後のコーヒーを飲んだのは、誰だったのだろう。
「……一杯、淹れましょうか」
気づくと、そう口にしていた。
「祖父のようにはいきませんけど。閉める前ですから、お代はいりません」
テツさんは意外そうに眉を上げて、それから、ゆっくりうなずいた。
「頼むわ」
*
カウンターの内側に入り、棚から祖父の字で『三月十三日』と書かれたキャニスターを下ろした。
七曜ブレンドの豆は、キャニスターの底に、あと一杯ぶんほど残っていた。昨夜、みんなに淹れたぶんで、ほとんど使ってしまったのだ。これが本当に最後だ。
カウンターに開いたままの祖父のノートに、もう一度目を落とす。
――七曜ブレンド・中挽き・十五グラム・湯は八十八度。
昨夜は、この「八十八度」を気にも留めなかった。一杯目は沸いたばかりの湯をそのまま注ぎ、おかわりも目分量で冷ましただけだ。今日は、ちゃんと測る。
ガスの火をつけて、やかんをかける。湯が沸くまでの間に、豆を量った。
古い秤に紙を敷き、豆を少しずつ落としていく。焦げ茶色の粒が、紙の上でからころと小さく鳴った。針が十五を指したところで、手を止める。
祖父の木の手挽きミルに、豆を移した。目盛りを中挽きに合わせて、ハンドルを回す。
ごり、ごり、ごり。
手のひらに、豆が砕ける手応えが伝わってくる。はじめは重く、だんだん軽く。ハンドルが空回りするようになると、引き出しの中には、ざらめくらいの粗さの粉がたまっていた。
引き出しを開けた瞬間、香りが立ちのぼった。
焦がした砂糖のような、深い香りだった。祖父の店の、朝の匂いだ。
――でも、何かが足りない気がした。遠くで鳴っている音を聞いているような、そんな香りだった。
やかんが、しゅんしゅんと鳴りはじめた。
「朔さま」
隣を見ると、雫が銅のポットを両手で差し出していた。
「どうぞ、お使いくださいまし。……この子、朔さまに使っていただけるのを、ずっと待っておりましたの」
「ありがとう。借りるよ」
沸いた湯を、銅のポットに移す。細い注ぎ口から、白い湯気がすうっと伸びた。一度ポットに移すだけで、湯の温度は少し下がる。そこに祖父の温度計を差して、針を見た。
九十四度。九十二度。九十度――
「まあ……まあ、まあ」
雫が、目を輝かせてポットをのぞき込んでいた。
その瞬間、ポットの中の湯が、ぼこっと音を立てた。
ぼこぼこぼこ。
温度計の針が、九十八度まで跳ね上がる。
「……雫。ちょっと、離れててくれるか」
「も、申し訳ございません。朔さまが、この子で淹れてくださると思ったら、嬉しくて、つい」
雫がしずしずと三歩下がると、湯はすっと静かになった。
俺は小さく息をついて、針が下がるのを待った。
八十八度。
*
紙のフィルターの、底と横の縫い目を、互い違いに折る。ドリッパーにぴったり沿わせて、上から湯を回しかけた。紙が湿って、陶器のドリッパーに張りつく。ドリッパーとカップが温まったところで、カップの湯を捨てた。
フィルターに粉を移す。ドリッパーの縁を指で軽く叩くと、粉の表面が平らにならされた。
ポットを傾ける。
最初は、ほんの少しだけ。粉の真ん中に細く湯を落とし、全体がしっとりと湿るくらいで止めた。
ここから、三十秒の蒸らしだ。
湯を含んだ粉が、ふつふつと細かい泡を吹きはじめた。焦げ茶の表面が、ゆっくりと持ち上がっていく。香りが、もう一段濃くなった。
ただ、膨らみは思っていたより小さかった。祖父が淹れていたときは、パンが焼けるみたいに、こんもりと丸く盛り上がっていた気がする。
三十秒。
もう一度、ポットを傾けた。
真ん中から外へ、「の」の字を描くように、細く、細く。フィルターの紙には、直接かけない。粉の表面が沈みきる前に、次の湯を重ねていく。
ぽたぽたと落ちていたコーヒーが、やがて細い一本の糸になってカップの底を叩いた。黒に近い茶色の液体が、白いカップの中でじわじわとかさを増していく。
三度目の湯を注いで、カップの八分目まで落ちたところで、ドリッパーを外した。最後の数滴は落とさない。雑味が出るからだ、と、祖父が昔、誰かに話しているのを聞いた気がする。
ソーサーに載せて、テツさんの前に置いた。
「お待たせしました」
*
テツさんは、すぐには飲まなかった。
カップを持ち上げて、まず湯気を吸い込む。それから、ふうっと一度だけ息を吹きかけて、口をつけた。
喉が、ごくりと動いた。
しばらく、テツさんは何も言わなかった。カップを両手で包んだまま、黒い水面を見下ろしていた。
「……うまいよ」
ぽつりと言った。
「朔坊、ちゃんと淹れてくれたんだな。それは、わかる」
テツさんは、もう一口飲んだ。
「うまいけどな。……宗さんの味とは、違うな」
責めるような言い方ではなかった。ただ、本当のことを言っただけの声だった。
「宗さんのはな、最初にがつんと苦いんだ。そのあとで、口の中に甘いのがずっと残る。漁から戻って、冷えきった体にそれがしみてな。ああ、陸に帰ってきたなって思えたんだ」
「……そうですよね」
わかっていたことだった。それでも、胸の奥がずしりと重くなった。
同じ豆で、同じ分量で、同じ温度で淹れた。なのに、あの味にはならない。
やっぱり俺には、祖父みたいなコーヒーは淹れられない。
*
ゴウン、と焙煎室のほうで音がした。
振り返ると、厨房の奥から焔が出てきていた。赤い目で、まっすぐにカウンターのドリッパーを睨んでいる。
焔は俺の横に来ると、ドリッパーに残った粉に鼻を近づけた。
「……やっぱりな」
「何が」
「お前の淹れ方の話じゃねえ。豆が古い」
「祖父の豆だぞ」
「だからだよ」
焔は、ドリッパーの中の粉を指でつまんで、ぱらぱらと落とした。
「じいさんが最後に焼いたのは、三月十三日。店を閉めてから、ひとりで焼いてた。……あれから、もう十九日経ってる」
「それが、どうして」
「焼きたての豆はな、腹ん中にガスを抱えてんだ。湯をかけると、それを吐き出して膨らむ。けど半月以上も経ちゃ、ガスは抜ける。海のそばじゃ湿気も吸う。……もう、息してねえんだよ。お前、さっき蒸らしのとき、思ったより膨らまねえなって顔してたろ」
言い返せなかった。その通りだった。
それより、引っかかったのは焔の言葉だった。キャニスターに書いてあるのは、日付だけだ。祖父が店を閉めてから焼いていたことなんて、どこにも書いていない。
焔は、まるでそれを見ていたみたいに言った。
「……嬢ちゃん、詳しいな」
テツさんが、感心したように焔を見ていた。
「……別に」
焔はぷいと顔を背けた。
「名前は?」
「焔」
「焔ちゃんか」
「ちゃん付けすんな、おっちゃん」
テツさんは怒るどころか、声を上げて笑った。
「宗さんとこの豆に文句つけるやつは、初めて見たよ」
焔は耳まで赤くなって、今度は俺のほうに向き直った。
「お前。今夜、焙煎室に来い」
「……え?」
「それから、おっちゃん」
焔は、テツさんの前のカップを顎でしゃくった。
「明日、もう一回来い。昼でいい」
「明日は漁だがな。帰りなら寄れるぞ」
「じゃあ、帰りに来い」
焔は、赤い目を細めた。
「――じいさんの味、飲ませてやる」
焙煎室の奥で、ゴウン、とドラムが一度だけ回った。




