第一章 火曜日の深煎りブレンド(1)
目を覚ましたのは、ドアベルの音のせいだった。
カラン。カラン、カラン。カランカランカラン。
誰かが戸を開け閉めしているにしては、鳴り方がおかしい。まるで、ベルのほうが勝手にはしゃいでいるみたいだった。
枕元のスマホを見ると、朝の九時を少し過ぎていた。眠ったのは、たぶん三時間くらいだ。
祖父の部屋の天井を見上げたまま、俺は昨夜のことを順番に思い出した。
閉店の張り紙。まずいコーヒー。光るアンティーク。角と、しっぽと、七人の――
「……夢じゃ、ないよな」
夢であってほしかったのかどうかは、自分でもよくわからなかった。
階段を下りる途中で、一つ気づいた。
夏休みの朝は、いつもここでコーヒーの匂いがした。今朝は、しない。
代わりに、かすかな炭の匂いと、何かを炒るような香ばしい匂いがした。
*
一階は、ひどいことになっていた。
まず、床が濡れていた。カウンターの前に、水たまりというより小さな池ができている。その真ん中に、雫がぺたんと座っていた。
「まあ、朔さま。おはようございます」
「……おはよう。何があった」
「朔さまに、お目覚めのお水を一杯と思いまして。わたくし、少しだけ急いでしまいましたの。そうしましたら、足が」
「足が」
「滑りまして。ついでに、しっぽが」
雫の腰のあたりで、水色のしっぽがしょんぼりと揺れていた。先のほうから、ぽたぽたと水が落ちている。池の出どころは、どうやらそこらしい。
「……とりあえず、立とうか」
モップを探しに奥へ行こうとしたら、レジのほうから、チーン、と景気のいい音がした。
「店長はん、おはようさん。釣り銭、千四百二十円しか入っとらんで。これでどないして商売する気や」
黄金がレジの引き出しを開けて、小銭を一枚ずつ積み上げていた。十円玉の塔が、きれいに四本並んでいる。
「店長じゃない。それと、商売はしない」
「はあ?」
詳しく説明する前に、厨房から、のんびりした声が飛んできた。
「朔ちゃーん。お茶、淹れたわよぉ」
*
厨房をのぞくと、まほろさんが換気扇のフードに頭をぶつけないよう、器用に首を傾けながら急須を持っていた。
コンロの上の小さなフライパンに、茶色く色づいた茶葉が、わずかに残っている。
「棚の奥にね、古い番茶の缶があったの。湿気ちゃってたから、ちょっと炒ってあげたのよぉ。そしたら、ほうじ茶になったわ」
厨房じゅうに、階段で嗅いだ香ばしい匂いが満ちていた。炭の匂いとは違う。焼き栗の皮を剥いたときのような、甘くて乾いた匂いだ。
まほろさんは、炒りたての茶葉を急須に移すと、沸いたばかりの湯を勢いよく注いだ。急須の中で、茶葉がしゅわっと小さく鳴った。
「ほうじ茶はね、熱いお湯でいいのよぉ。そのほうが、香りが立つの」
ふたをして、三十秒。
その間に、湯呑みに一度お湯を張って温め、それを流しに捨てる。
それから急須を傾けて、細く、ゆっくりと注いでいく。最後の一滴まで、振るようにして絞りきった。湯呑みの中で、お茶が透き通った琥珀色に揺れていた。
「はい、どうぞぉ」
両手で受け取ると、湯呑みの温かさが、じんわりと指に移ってきた。
湯気を吸い込んでから、一口含む。
熱すぎず、ぬるくもない。香ばしさが鼻に抜けたあとで、ほんの少しだけ甘みが残った。それが喉を通って、腹の底に、ぽとんと落ちる。
寝不足で固まっていた頭の芯が、少しだけほどけた気がした。
「……うまい」
「でしょう?」
まほろさんは糸みたいな目を、なくなるほど細くして笑った。それから冷蔵庫を開けて、困ったように首を傾げた。
「朝ごはんも作ってあげたかったんだけどねぇ」
閉店に合わせて片付けた冷蔵庫には、マヨネーズと、しなびた長ねぎが一本しか入っていなかった。
*
店のほうからは、その間もずっと、ドアベルの音が聞こえていた。
戻ってみると、入口の戸が開けっぱなしになっていた。
敷居のところに陽華が仁王立ちして、坂を行き来する人に片っ端から声をかけていた。
「おはようなのだ!」
ゴミ袋を提げたおじいさんが、びくっと足を止めた。
「む、そなたは初めての顔だな? よし、今日から友達である!」
カラン、カランカラン。
陽華の頭の上で、ドアベルが鳴った。風は吹いていない。戸も動いていない。陽華が笑うたびに、真鍮のベルが身をよじるようにして鳴るのだ。
そして陽華の頭には、しまえるはずの角が、にょきりと生えていた。
「……宗さんとこの、親戚の子かい」
「うむ! 親戚のようなものである!」
「そうかい。立派な角だねえ」
おじいさんは角をしげしげと眺めてから、ぽんと手を打った。
「ああ、今日は四月一日か。エイプリルフールってやつだ。よくできてるねえ」
そう言って、にこにこしながら坂を下りていった。
……この町の人、ゆるすぎないか。
「陽華。ちょっと、中に」
「なぜだ。今朝だけで友達が四人も増えたのだぞ」
「増やすな。あと、角が出てる」
「む?」
陽華は自分の頭に手をやって、「おお」と声を上げた。指先が触れると、角はしゅるしゅると縮んで、髪の中に消えていった。
「嬉しいと、勝手に出てしまうのだ。余のせいではない」
ついでに、ドアベルも鳴る。
たぶん、あれも陽華のせいだ。
陽華の背中を押して店の中に入れ、戸を閉めた。ガラスの向こうで、閉店の張り紙が、かさりと揺れた。
*
勝手口の窓から裏庭を見ると、古い木の根元に、翠がしゃがみこんでいた。幹に向かって、何か小さな声で話しかけている。
俺と目が合うと、翠は木の陰にすっと隠れた。
隠れきれていない双葉が一本、幹の横からぴょこんと飛び出していた。
朧さんは、屋根裏から下りてこない。まほろさんによれば「朧ちゃんは、お日さまが沈むまで起きないわよぉ」とのことだった。
そして焔は、厨房の奥の焙煎室にこもったまま、一度も出てきていなかった。
*
「昨日は、ちゃんと言えなかったから」
雫の池をモップで片付け終えたあと、俺は店にいる竜たちを集めた。
まほろさんが呼ぶと、翠も勝手口の陰までは来てくれた。焙煎室の扉は、細く開いている。焔にも、聞こえてはいるはずだ。
「この店は、閉める。来週の八日に不動産屋が来て、土地ごと売ることになってる。建物は、たぶん取り壊しになる」
言いながら、ずいぶん事務的な言い方だと自分でも思った。東京で四年かけて身につけた話し方だった。
「君たちの住むところは、ちゃんと考える。放り出したりはしない。ただ、店は続けられない。俺には、祖父みたいなコーヒーは淹れられないから」
しばらく、誰も何も言わなかった。
勝手口の陰で、翠が戸枠をぎゅっと握った。それから一度だけ、裏庭の古い木のほうを振り返った。
最初に口を開いたのは黄金だった。
「……土地ごとか。なんぼで売れるん、ここ」
昨夜の様子からすると、黄金らしい質問だった。それなのに、声は妙に小さかった。
「レジも、売るんか」
「え?」
「……なんでもあらへん」
黄金は十円玉の塔を一本ずつ崩して、引き出しに戻した。
雫は、銅のポットを胸に抱えて「まあ……」とだけつぶやいた。まほろさんは何も言わずに、俺をじっと見ていた。細い目の奥で何を考えているのかは、わからない。
陽華は腕を組んで、しばらく天井を見上げていた。
「……サクの店だ。サクが決めればよい」
それだけ言って、にかっと笑った。
ドアベルは、鳴らなかった。
*
ガタン、と焙煎室で音がした。
続けて、ゴウン、ゴウン、と低い音が響きはじめた。鉄の筒が、空のまま回っている音だ。
焙煎室をのぞくと、焔が木の腰掛けに座っていた。足元で、麻袋が一つ口を開けている。中に詰まっているのは、焼く前のコーヒー豆――生豆だ。灰色がかった、くすんだ緑色をしていて、干し草のような青臭い匂いがする。
焔は生豆をひとすくい手に取って、指の間からさらさらと落としていた。乾いた雨のような音がした。
その横で、祖父の手回し焙煎機のハンドルが回っていた。
誰も、触っていないのに。
ゴウン、ゴウン。空っぽのドラムが回る、低く鈍い音。その下の火床では、炭が赤く息をしている。朝から漂っていた炭の匂いは、ここから来ていたのだ。
「……止めんな」
焔は顔を上げずに言った。
「この焙煎機を、止めんな」
「止めるも何も、俺には焼けない」
「五十七年だぞ」
焔の手の中で、生豆がぎしりと鳴った。
「じいさんは毎朝、これを回してた。雨の日も、熱が出てた日も、一日も休まずにだ。それを、お前が止めんのかよ」
ハンドルが、さっきより速く回りはじめた。ゴウン、ゴウン、ゴウン。焔の声に合わせるみたいに。
「……なんで、そんなこと知ってるんだ」
焔は唇を噛んだ。答えなかった。
代わりに、赤い目で、まっすぐに俺を睨んだ。
「だったら――」
その先を、焔は言えなかった。
カラン、と。
入口のドアベルが鳴った。陽華がはしゃいで鳴らす音とは違う。重たいガラス戸が、外から押し開けられる音が続いた。
「こんにちはー」
潮焼けした野太い声が、店に響いた。
「……あれ、宗さんとこ、閉めちまうのか?」




