序章 三月末日をもって閉店いたします(2)
最初は、風のせいだと思った。
でも、ガラス戸は閉まっている。鍵もかけた。それなのに入口の真鍮のドアベルは、誰かを迎えるように、カラン、カランと鳴り続けていた。
そして、光りはじめた。
ドアベルが、朝焼けのような橙色に。
次に、壁の振り子時計が、夜の底のような紫紺に。
厨房の奥の焙煎室からは、赤い光が漏れてくる。祖父の手回し焙煎機だ。カウンターの上では、さっき使った銅のポットが、水面のような青に。
棚の上の木彫りの茶葉入れが若草色に灯り、レジスターが金色に輝いた。
最後に、目の前のカップ――まずいコーヒーの残った白い陶器のカップが、焼きたての器のような、あたたかい土の色に光った。
七つの光が店を満たして――弾けた。
思わず、目を閉じた。
*
目を開けると、店に誰かがいた。
一、二、三……六人。
女の子が五人と、背の高い女の人が一人。正確には、そう見える何かだった。
全員の頭に角がある。腰のあたりからは、どう見てもしっぽが伸びている。
一番近くにいたのは、橙色の髪をポニーテールにした子だった。王冠みたいに枝分かれした角。しっぽの先が、ぼんやりと光っている。
金色の目が、まっすぐに俺を見ていた。
「……む」
その子は小さく首をかしげた。
「宗一郎ではないな。そなたは誰だ?」
祖父の名前だった。
頭の中で、いろんな言葉が渦を巻いた。誰だ。どこから入った。その角はなんだ。救急車か、警察か。いや、診てもらうべきなのは俺の頭のほうか。
全部を押しのけて、口から出てきたのは、これだった。
「……とりあえず、コーヒー飲む?」
*
カウンターに逆さに載せたままだった丸椅子を、残りの五脚も下ろした。俺が座っていた一脚と合わせて、ちょうど六脚。
俺はカウンターの内側に戻った。
人数分のカップを並べ、さっきと同じ手順で淹れる。慌てていたせいで、湯はさっきよりさらに熱かった。
「……孫の、朔です。久遠朔。祖父は、今月の十四日に亡くなりました」
カップを配りながらそう言うと、橙色の子の手が、取っ手に触れたところで止まった。
店が、しんと静まった。
さっきから小さく鳴り続けていたドアベルが、ぴたりと黙った。
「……そうか」
その子はカップの中を見つめたまま、長いこと何も言わなかった。
やがて顔を上げて、にかっと笑った。
「あやつめ、余に挨拶もなく逝くとは、無礼なやつである!」
笑っているのに、その目だけは少しも笑っていなかった。少なくとも、俺にはそう見えた。
「余は陽華。日を司る竜にして、この者らの長姉である。以後、見知りおくがよい!」
竜。
今、竜って言ったか。
「待って。竜? あの、空を飛んで火を吹く?」
「うむ。今は飛べぬがな!」
胸を張って言うことではない気がする。
「火なら、アタシが吹ける。ちょっとだけな」
陽華の隣の席から、ぶっきらぼうな声がした。
*
陽華が、一人ずつ指さして紹介していった。
「今しゃべったのが焔。火の竜だ」
赤いショートボブで、毛先だけが黒く焦げたような色をした、目つきの鋭い小柄な子だった。カップに口をつけた瞬間、顔をしかめた。
「まっず」
俺と同じ感想だった。
焔はカップの中を睨んで、ぼそりと続けた。
「……豆は悪くねえ。じいさんの豆だ。お前の淹れ方が最悪なんだよ」
なぜ祖父の豆だとわかるのか。聞く前に、陽華の指は次に移っていた。
「あれが雫。水の竜だ」
ゆるく波打つ水色の髪の、おっとりした子が、カップを両手で包んで悲しそうに眉を下げた。気のせいか、足元の床が少し濡れている。
「まあ……。お湯が泣いておりますわ。こんなに熱くされて、かわいそうに」
「……すみません」
なぜか謝ってしまった。
「あれが翠。木の竜で、末の妹だ」
若草色のおかっぱの、小学生くらいの子だった。頭のてっぺんに、双葉が一本ぴょこんと生えている。
目が合った瞬間、翠は音もなくカウンターの端をくぐった。俺の背中に回り込んで、シャツの裾をぎゅっとつかむ。
それから、すん、と小さく鼻を鳴らした。何かの匂いを確かめるみたいに。
初対面の不審者――つまり俺の後ろに隠れるのは、作戦としてどうなんだろう。
「あれが黄金。金の竜だ」
丸眼鏡をかけた金髪のサイドテールの子は、コーヒーには目もくれず、壁のメニューを穴が開くほど見つめていた。
「ちょ、待ちいや。ブレンド、まだ四百円のままなんか!? 安すぎや! こんなん儲かるわけないやろ、じいさん何考えとったんや!」
関西弁だった。竜なのに。
「で、あれが――」
「あらあら。みんな、起きちゃったのねぇ」
のんびりした声がして、端の席の女の人が立ち上がり――天井の梁に角をごつんとぶつけた。
「あいたたた……」
焦げ茶の長い三つ編み。糸みたいに細い目。目測でも百八十センチはある。
「まほろよぉ。土の竜。よろしくねぇ、朔ちゃん」
初対面で、ちゃん付けだった。
まほろさんは俺をじっと見た。それから、カウンターに置いたままの俺の白いカップに目を落とし、ほんの一瞬だけ、細い目をさらに細めた。
何かを確かめるような目だった。そう感じた理由は、自分でもわからない。
*
そこで、ふと気づいた。
光ったのは、七つだったはずだ。
「……一人、足りなくないか」
「ああ。あやつは――」
陽華が振り子時計のほうを見た。
いつのまにか、時計の下に、銀色の長い髪の女の人が立っていた。
薄い紫紺の目。三日月の形をした細い角。しっぽは、向こうが透けて見えるほど淡い。
この場の誰よりも静かで、誰よりもはっきり目を覚ましているように見えた。
「月曜の夜に起こすなんて、気が利くのね」
その人はそう言って、俺にかすかに微笑んだ。
それから、壁のほうを向いた。古い写真が一枚、額に入れて飾ってある。店の前に並んで立つ、若い頃の祖父と祖母だ。
その人は、しばらく写真を見つめていた。
何も言わなかった。
「朧。月の竜である」
陽華の紹介にも振り向かず、朧さんは「屋根裏、借りるわ」とだけ言って、階段を上がっていった。
この家に屋根裏があることを、あの人はどこで知ったのだろう。
聞きそびれているうちに、足音は天井の向こうに消えた。
*
そこから先のことは、正直よく覚えていない。
陽華は、カウンターの上で光った俺のスマホに「板の中に誰かおるのか! 出てまいれ!」と話しかけていた。黄金は俺が封をした段ボールを勝手に開け、帳簿を引っぱり出して「……うわ、ほんまに赤字や」と頭を抱えていた。焔は焙煎機の前から動かなかった。雫が「おかわりを」と言うので、今度は少し冷ました湯で淹れてみたら、「まだ泣いておりますわ」と言われた。
角もしっぽも出しっぱなしの彼女たちに「それ、しまえないの」と聞くと、まほろさんが「寝起きだから、しまい忘れちゃったのねぇ」と笑った。しまえるらしい。
一つだけ、ちゃんと聞いた。
「……いつから、寝てたんだ?」
陽華は、ほんの少しだけ間を置いてから答えた。
「なに、少し長く寝ただけである」
そう言って大きなあくびをした。近くのテーブルから椅子をどけてやると、陽華はその天板にごろりと転がった。
「よいか、サク。余らを数えるときは『匹』ではなく『柱』と数えるのだぞ……」
それが、眠る前の最後の言葉だった。
*
気がつくと、窓の外が白んでいた。
店のあちこちで、竜たちが眠っている。まほろさんは壁際のソファ席で、翠はその膝の上で。雫はカウンターに頬をつけて。焔は焙煎機にもたれて。黄金は帳簿を抱えて。陽華はテーブルの上で、大の字になって。
俺のシャツの裾には、翠がつかんだ跡が、まだ皺になって残っていた。
ガラス戸の外で、張り紙が潮風に揺れている。
『三月末日をもって閉店いたします』
その三月末日は、もう昨日になっていた。
「……この店、もう終わってるんだけどな」
誰にともなくつぶやいた。
返事の代わりに、入口のドアベルが一度だけ、小さく、カランと鳴った。
(序章・了)




