序章 三月末日をもって閉店いたします(1)
祖父の店を閉める前の晩、俺はコーヒーを一杯淹れて――竜を七匹、起こしてしまった。
言い訳をさせてもらえるなら、悪気はなかった。
最後くらい、この店のカウンターで一杯飲んでみたかっただけだ。
*
三月三十一日、月曜日。夜の九時。
凪浜の町、潮見坂の中腹にある「喫茶 七曜」。そのガラス戸に俺が昼間に貼った張り紙が一枚、潮風に揺れている。
『誠に勝手ながら、三月末日をもって閉店いたします。五十七年間、ありがとうございました』
五十七年。祖父がこの店に立っていた年月だ。
そのうち俺がここにいたのは、子どもの頃の夏休みを全部足しても、ひと月ぶんくらいだと思う。
「……よし」
最後の段ボールに封をして、俺は腰を伸ばした。
片付けはほとんど終わっていた。椅子は全部逆さにして、テーブルやカウンターの上に載せてある。食器は棚に戻した。常連さんが置いていったらしい将棋盤や、ページの波打った古い漫画はひとまとめにして店の隅に積んである。
来週の八日には不動産屋が来る。
「築年数を考えますと、更地にしたほうが買い手はつきやすいかと」
電話口で担当者はそう言った。俺は「それでいいです」と答えた。
本当にそれでいいと思った。
祖父は遺言で、この店と土地を俺に遺していた。喪主を務めた父は、葬儀が終わるとその日のうちに東京へ帰った。店については「お前に遺したんだろう。好きにしろ」と言ったきりだった。
だから、好きにする。
俺には、この店を続ける理由がない。
東京で四年、営業の仕事をした。最後にわかったのは、人のために頑張っても、ろくなことにならないということだけだった。
*
祖父の久遠宗一郎が亡くなったのは、三月十四日の早朝だった。
朝の支度をしている最中に、厨房の奥の焙煎室で倒れたらしい。見つけてくれたのは、朝刊の配達員だった。いつもなら焙煎の煙が上がっている時間なのに、灯りがついているだけで、煙突が静かだった。声をかけても返事がなく、鍵の開いていた勝手口から覗いて、倒れている祖父に気づいたのだという。
八十二歳。最後の日まで店に立とうとしていたことになる。
葬儀には驚くほどたくさんの人が来た。日に焼けた漁師、商店街の人、制服姿の高校生、杖をついたおばあさん。みんな「宗さんには世話になった」と言って、俺に頭を下げていった。
俺は、その誰の顔も知らなかった。
孫なのに、祖父がこの町でどんなふうに生きていたのか、ほとんど知らなかった。
*
夕方、レジの下の引き出しを片付けていたとき、一冊のノートが出てきた。
大学ノートを何冊も糸で綴じ直した分厚い帳面だった。表紙には、祖父の角ばった字で『ブレンド帳』とある。
めくると、豆の産地、焙煎の時間、湯の温度、挽き目の細かさが、日付ごとにびっしり並んでいた。昭和の日付から始まって、最後の書き込みは三月十三日。祖父が倒れる前の日だ。
表紙の裏に、一行だけ書いてあった。
『朔へ』
「……なんで、俺なんだよ」
声に出してから、少し笑ってしまった。
祖父と最後にちゃんと話したのは、たぶん高校生の頃だ。就職したときも、会社を辞めたときも、連絡しなかった。
それなのに祖父は、このノートを俺に宛てていた。いつから、そのつもりだったのだろう。
*
気づくと、俺はカウンターの内側に立っていた。
棚に、祖父の字で『三月十三日』と書かれたキャニスターが残っている。祖父が最後に焼いた豆だ。
ノートの最後のページには、こうあった。
『七曜ブレンド。中挽き。十五グラム。湯は八十八度』
見よう見まねで手回しのミルを回す。ごり、ごり、と乾いた音が、静かな店に響いた。
香りが立った。懐かしい匂いだった。夏休みの朝、二階で目を覚ますと、いつもこの匂いがしていた。
棚の奥にあった白い陶器のカップにドリッパーを載せ、紙のフィルターを敷いて、挽いた粉を入れる。やかんで沸かした湯を古い銅のポットに移し、温度計が見つからないまま注いだ。
少し熱すぎる気はした。まあいいか、と思った。
どうせ飲むのは、俺一人だ。
落ちきったところでドリッパーを外し、カップを持って客席側に回った。載せたままの丸椅子を一脚だけ下ろして、腰かける。祖父がいつも見ていた景色の、反対側だ。
一口飲んだ。
「……まっず」
苦くて、えぐくて、舌の奥がきしむような味だった。夏休みの朝の匂いとは、似ても似つかない。
当たり前だ。豆が同じでも、淹れる人間が違えば、同じ味にはならない。
カップを置いたとき、カウンターに広げたままのノートに目が留まった。開いたページの隅に、小さな書き込みがある。
レシピとは別の、少し震えた字だった。
『一杯のコーヒーは、一人ぶんの居場所だ』
その一行を読んだとたん、目の奥が熱くなった。
葬儀でも、火葬場でも、泣かなかったのに。
居場所。
そんなものが、俺にもあっただろうか。東京の、あの蛍光灯の下のどこかに。
……いや、なかった。だから帰ってきたんだ。
まずいコーヒーを、もう一口飲んだ。やっぱりまずかった。
鼻をすすって、俺は少しだけ泣いた。
誰もいない店で。誰にも見られずに。
――そのはずだった。
*
カラン、と。
誰もいないのに、ドアベルが鳴った。




