第二章 金曜日の値上げ会議(4)
六時に最後のお客さんを見送って、ガラス戸の札を裏返した。
ホールでは、黄金がレジの前でそろばんを弾いていた。
「今日は二十四杯。お役所はんのぶんも入れてな」
ぱちぱち、ぱちん。
「ウチが朝払うた四百円は、がま口に戻しといた。数にも入れてへん。身内からは取らへん」
「自分で払ったのに」
「あれは、飲む前の気合いや」
ぱちん。
「火曜から四日で、百七杯。四万二千八百円や」
黄金は帳簿に数字を書きこんで、ぱたんと閉じた。
「ほな、店長はん。約束のもん」
「安くて、うまいやつだろ」
「せや」
*
昨日、卵と一緒に買ってきたものを、調理台に並べた。
玉ねぎが三つ。じゃがいもが四つ。にんじんが二本。豚こま切れ肉が五百グラム。それから、特売で二百四十八円だったカレールーを一箱。
エプロンのひもを結び直して、包丁を握る。
玉ねぎを薄く切っていく。とん、とん、とん、とまな板が鳴った。同じ音を聞いているうちに、頭の中が静かになっていく。東京にいた頃から、台所に立っているときだけはそうだった。
鍋にサラダ油をひいて、玉ねぎを炒める。白く透きとおって、しんなりとかさが減っていく。木べらで鍋底をこそげながら、焦がさないように、じっくりと。
十五分ほどで、玉ねぎは薄い飴色になった。甘い匂いが、厨房から店のほうへ流れていく。
「……ええ匂いやん」
入口から、黄金の顔がのぞいた。焙煎室で聞いたのと同じ台詞だった。
豚肉を加えて、色が変わるまで炒める。大きめに切ったじゃがいもとにんじんを入れ、油をなじませてから水を注いだ。煮立ったところで、浮いてきた灰色のあくをお玉ですくう。
ふたをして、弱火で十五分。
その間に、ドリッパーに残しておいた今日最後の出がらしに、もう一度だけ湯を通した。小さなカップに、薄い琥珀色のコーヒーが半分ほどたまる。
火を止めて、ルーを割り入れる。茶色い塊が、ゆっくりと溶けて広がっていく。もう一度弱火にかけ、とろみがついたところで、取っておいたコーヒーを回し入れた。
鍋の縁から、ふわりと香りが立った。スパイスの匂いの奥に、焦がした砂糖の匂いが、ひとすじだけ混じる。
「おい」
いつのまにか、焔が後ろに立っていた。
「今、アタシの豆、入れたろ」
「出がらしだよ。捨てるよりいいだろ」
「……ならいい」
焔は、鍋の中をじっとのぞきこんだ。しっぽの先の火が、小さく揺れていた。
隣では、祖父の古い炊飯器がぴいぴいと鳴った。米びつの米で、五合。ふたを開けると、白い湯気と一緒に、甘い米の匂いがあふれ出した。
「店長はん。米びつの米かて、タダちゃうで。今買うたら、なんぼするか知っとる?」
「……五キロで、四千円ちょっと」
「去年の倍近いやないか。豆といい米といい、どないなっとんねん」
黄金は天井を仰いで、指を折りはじめた。
*
日が沈んで、朧さんも屋根裏から下りてきていた。
テーブルを二つくっつけて、みんなで囲む。まほろさんが白い皿にご飯をよそい、俺がカレーをかけていった。
ご飯の白に、とろりとした茶色が流れる。角の取れたじゃがいもと、橙色のにんじんが、ところどころに顔を出していた。
「いただきます」
俺が手を合わせると、七つの声が、ばらばらに続いた。
陽華がひと口食べて、スプーンをくわえたまま固まった。
「……うまいのだ! サク、これは何という料理だ!」
「カレー」
「かれえ! 今日から友達である!」
料理と友達になるな。
カラン、カラン、とドアベルが鳴った。
「まあ……。お口の中が、ぽかぽかいたしますわ」
雫は頬に手を当てて、うっとりと目を閉じた。
翠はにんじんをひとつスプーンに載せて、しばらく見つめていた。それから、そっと口に入れた。
「……あまい」
焔は無言で、一皿目を飲みこむように平らげた。
「……豆の味、ちゃんとする」
それだけ言って、空の皿を突き出した。おかわりらしい。
朧さんは、ひと口食べたところでスプーンを止めた。
「この家でカレーの匂いがするのは、久しぶりなのよ」
昼間の、単語だけの朧さんとは別人のようだった。
「祖父は、カレー作らなかったのか」
「作ってたわ。でも、この匂いとは少し違ったかしら」
朧さんはそれ以上は言わずに、もうひと口食べた。
黄金は、スプーンを持たずにそろばんを弾いていた。
ぱちぱち、ぱちん。
「肉が七百円、野菜が四百五十円、ルーが二百四十八円。米は今の値段で買い直したら、五合で六百三十円くらいか。ガス代も入れて、しめて二千百円くらいや」
ぱちん。
「十皿とれたら、一皿二百十円やで。二百十円!」
黄金はそろばんを置いて、ようやくスプーンを握った。ひと口食べて、丸眼鏡の奥の目を細める。
「……二百十円で、この味か。店長はん、ええ腕しとるな」
「ほめてる?」
「ほめとる。毎日これやったら、ウチ、文句ないわ」
チーン、とレジが鳴った。
黄金は何も言わずに、カレーを食べ続けた。今度は、言い訳もしなかった。
*
まほろさんは、自分の皿よりも、みんなの皿ばかり見ていた。焔の皿が空になると、黙っておかわりをよそう。翠の口の端についたカレーを、指でぬぐってやる。
「まほろさんも、食べてください」
そう言うと、まほろさんは、ふっと手を止めた。
「朔ちゃん。さん付けは、やめてねぇ」
「え」
「なんだか、よそのお家の人みたいでしょう?」
細い目が、にこにこと俺を見ている。
「……まほろ」
言えた、と思った。けれど、言ったとたんに首の後ろが熱くなった。百八十センチの、どう見ても年上の人を呼び捨てにするのは、どうにも落ち着かない。
「……さん」
結局、付け足してしまった。
「あらあら」
まほろさんは、肩を揺らして笑った。
「まだ、ちょっと早かったかしらぁ。いいわよぉ、ゆっくりで」
焔が、カレーを噴き出しかけてむせた。
*
皿が片付くと、黄金が二階から大きな紙袋を抱えて下りてきた。
「ほな、最後にこれや」
テーブルの上に、エプロンが並べられた。
全部、紺色だった。色あせた綿の、祖父の替えと同じものだ。
「二階の押し入れの、もっと奥にな。もう一箱あってん」
その胸元に、糸で名前が縫いとってあった。
陽華のぶんは橙の糸で、朧さんは紫紺。焔は赤、雫は水色、翠は若草色、まほろさんは焦げ茶。
黄金のぶんだけ、文字がきらきらと光っていた。
「金糸や。宗さんの裁縫箱に、一巻きだけ入っとってん」
「黒板は、黄色いチョークだったのに」
「せやから、こっちは本物にしたんや」
黄金は、最後の一枚を俺に差し出した。
同じ紺の布に、白い糸で『朔』と一文字。
「……いつのまに」
「火曜から三晩。レジ締めたあとにな」
「お金、かかったんじゃないか」
「かかってへん。エプロンは宗さんの、糸は裁縫箱のや。タダほど高いもんはないけどな。タダで作ったもんには、値段つけられへんやろ」
陽華が、橙の文字を指でなぞった。
「……余の名だ」
次の瞬間、陽華の頭から、王冠のような角がにょきりと生えた。ドアベルが、カランカランカランと鳴りやまない。
「サク! 見よ! 余の名であるぞ!」
「わかった。わかったから、角」
雫はエプロンを胸に抱きしめて、「まあ……まあ」と繰り返していた。水色のしっぽが、いつのまにか出ている。足元の床が、じわじわと濡れていく。
焔は赤い文字をしばらく見てから、ぶっきらぼうに言った。
「……汚れても目立たねえなら、いい」
そう言いながら、誰よりも先にひもを結んでいた。
翠のエプロンは、裾が膝の下まであった。まほろさんが腰のところで一度折り返して、後ろでちょうちょ結びにしてやる。翠は、胸の名前を両手でそっと押さえた。
「……翠の」
朧さんは、紫紺の糸を指先で確かめて、小さく笑った。
「夜の色ね。悪くないわ」
まほろさんは焦げ茶の文字を見下ろして、「あらあら」とだけ言った。いつもより、少しだけ小さな声だった。
*
八枚のエプロンを、厨房の入口のフックに並べて掛けた。
紺の布に、八色の糸。
みんなが二階に上がったあと、俺は一人でカウンターの内側に立った。
昭和四十年。御影さんの言葉が、まだ耳に残っている。
祖父が何を知っていて、何を守っていたのか。俺にはまだ、何もわからない。
わかっているのは、明日も四時半に焙煎機が回ることと、十時に店を開けることだけだ。黒板には、まほろさんの名前を書く。
それで、いいと思った。
フックの上で、白い糸の『朔』が、ほかの七枚と並んで小さく揺れていた。
(第二章・了)




