第三章 水曜日のお代はいりません(1)
土曜の黒板にはまほろさんの名前を書き、日曜には陽華の名前を、言われたとおり大きく書いた。月曜は店を休み、火曜は焔の担当で、漁が休みのテツさんがいつもの席で朝刊を広げていた。
そして、四月十六日。水曜日の朝が来た。
*
水曜日は、雫の日だ。
入口の壁の黒板の前に立って、チョークを当てる。祖父の字の『本日のブレンド 深煎り』は、今日も消さずに残してある。その下に、いつもの一行を書いた。
『本日の担当は、雫です。』
「まあ……」
振り向くと、雫が銅のポットを胸に抱えて立っていた。青い目が、黒板の字の上を何度も行ったり来たりしている。
「わたくしの名前が、黒板に……まあ、まあ」
シュウッ、と腕の中でポットが鳴った。
「雫。開店は十時だから、まだ沸かさなくていい」
「……申し訳ございません。嬉しくて、つい」
ポットの口から立っていた湯気が、少しずつ細くなっていった。
厨房の奥では、焔が四時半から焼いた豆が、ざるの上で冷めている。今日の店に出すのは、昨日焼いて寝かせたぶんだ。
管理者変更届は、まだ出していない。
来週中、と御影さんは言った。つまり、十八日の金曜日までだ。
祖父の名前の代わりに、俺の名前を書く。それだけのことが、なぜかまだできずにいた。
*
十時に店を開けると、朝のうちは静かだった。
十一時を過ぎた頃、黄金ががま口を手に、レジの前から立ち上がった。
「店長はん。ウチ、ちょっと信用金庫行ってくるわ。百円玉、もう心もとないねん」
ブレンドは四百円だから、千円札を出されるたびに、百円玉が最低一枚は出ていく。五百円玉がないときもあるようだ。釣り銭の減り方は、黄金がいちばんよく知っている。
「昼までには戻るさかい。シズ、レジ見といてな」
「まあ。お任せくださいまし」
雫が、にこにこと胸を張った。
黄金は一瞬だけ何か言いたそうな顔をして、それから坂を下りていった。
*
十二時を過ぎると、店が少しずつ埋まりはじめた。
ドリッパーに湯を落としながら、俺は先週の水曜日のことを思い出していた。
再開して、二日目の昼休みだった。
紺のスーツを着た会社員が、一人で入ってきた。年は、たぶん俺とそう変わらない。首から下げた社員証には、野々村とあった。
野々村さんはカウンターの真ん中の丸椅子に座って、「ブレンドを」とだけ言った。待っている間も、飲んでいる間も、ずっとスマホの画面を見ていた。
四分かけて淹れた一杯を、野々村さんは五分とかからずに飲み干した。四百円をカウンターに置き、腕時計を見て、急ぎ足で坂を下りていった。
味の感想は、なかった。
責める気にはなれなかった。東京にいた頃の俺も、たぶん同じ飲み方をしていた。昼のコーヒーは、午後を乗りきるための燃料でしかなかった。
ただ、戸口で一度も振り返らなかったその背中が、なんとなく目に残っていた。
*
十二時半、カラン、とドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませなのだ!」
陽華の声に迎えられて入ってきたのは、紺のスーツだった。
野々村さんだ。
同じ社員証。同じカウンターの真ん中の席。ただ、先週より顔色が悪い。目の下に、うっすらと影ができている。
見覚えのある影だった。東京にいた頃、毎朝、洗面所の鏡の中で見ていた。
「……ブレンドを」
「はい」
キャニスターから十五グラムを量り、中挽きに合わせたミルに移す。
ごり、ごり、ごり。
ハンドルを回すたびに、焦がした砂糖のような香りが、カウンターの上に広がっていく。
「朔さま。お湯は、わたくしが」
雫が隣に来て、銅のポットを差し出した。温度計の針は、八十八度を指したまま動かない。水曜日の雫は、湯の扱いがいつにも増して正確だった。
ドリッパーとカップに湯を回して温め、その湯を捨てる。縫い目を互い違いに折ったフィルターに粉を移して、最初の湯を細く落とした。
粉が、こんもりと膨らんだ。ふつふつと細かい泡を吹いて、香りがもう一段濃くなる。甘さの奥から、ほろ苦い煙の匂いが立ちのぼった。
三十秒。
真ん中から外へ、「の」の字を描いて、細く、細く。三度目の湯を注いで、黒に近い焦げ茶がカップの八分目まで落ちたところで、ドリッパーを外した。最後の数滴は、落とさない。
白いカップの縁で、コーヒーがうっすらと赤く透けていた。
「お待たせしました」
野々村さんは、今日もスマホを見ていた。カップが置かれる音で、ようやく顔を上げた。
ひと口、飲んだ。
それから、カップを持つ手が止まった。
「……あったかい」
小さな声だった。独り言のようだった。
野々村さんは、スマホを伏せてカウンターに置いた。もうひと口。今度は湯気を吸いこんでから、ゆっくりと。
先週は、一度も見なかった飲み方だった。
隣で、雫がポットを抱えたまま、じっと野々村さんを見つめていた。
*
伏せたスマホが、ぶるっと震えた。
野々村さんは画面を見て、小さく息をついた。カップには、まだ三分の一ほど残っている。それを急いで飲み干して、財布を手に立ち上がった。
レジの前には、誰もいなかった。黄金は、まだ戻っていない。
「わたくしが参りますわ」
雫がポットを置いて、しずしずとレジへ向かった。走らないのは、えらい。走ると、転ぶからだ。
俺はテーブル席の注文ぶんの湯を注いでいる最中で、手が離せなかった。
「おいくらですか」
野々村さんが、財布を開く。
雫は、にっこりと笑った。
「お代はいりません」
「……え?」
「とてもお疲れのお顔をしておられますもの。今日は、わたくしの担当の日ですの。わたくしが決めて、よろしいのですわ」
再開した日にも、雫は同じことを言いかけた。あのときは黄金が割りこんで、四百円を受け取った。
今日は、割りこむ人がいない。
「雫、ちょっと――」
声をかけたが、ポットを傾けた手は止められなかった。ここで止めたら、この一杯が台なしになる。
「いえ、払います。払いますから」
「いいえ。どうか、お納めくださいまし」
納めるのは、お代のほうだと思う。
野々村さんの手の中で、スマホがもう一度震えた。画面と雫の笑顔を、何度か見比べる。
「……すみません。じゃあ、ごちそうさまです」
野々村さんは深く頭を下げて、ガラス戸を押した。カラン、とドアベルが鳴った。
坂を下りていく背中は、先週と同じように急いでいた。
*
「あら」
テーブル席から、声がした。近所の奥さんらしい二人連れが、顔を見合わせている。
「今日は、お代いらないの?」
「まあ」
雫が、ぱっと振り向いた。
「もちろんですわ。わたくしの日ですもの」
「おお! シズは太っ腹なのだ!」
陽華が手を叩いた。カラン、カランとドアベルが鳴る。
「ちょっと待って。今日は――」
俺が言い終わる前に、二人連れは「悪いわねえ」「また来るわね」と笑いながら、席を立っていた。雫は戸口まで出て、にこにこと二人を見送った。
流しのほうで、まほろさんが「あらあら」とつぶやいた。
エプロンの裾が、くいと引かれた。振り向くと、翠が俺の背中に半分隠れて、雫の後ろ姿を見ていた。
「……だめ」
小さな声だった。
*
カラン、とドアベルが鳴った。
坂を上がってきた黄金が、戸口に立っていた。片手に、紙で巻いた百円玉の棒を二本抱えている。
「ただいまー。信用金庫、えらい混んどったわ。……ほんで」
黄金は、丸眼鏡の奥の目を細めた。
「今、坂の途中で、えらい機嫌のええ奥さんらとすれ違うたんやけど。『タダでええんやて』って言うてはったで」
雫が、にっこりと振り向いた。
「まあ、黄金さん。お帰りなさいまし。お代はいりません、と申し上げましたの」
黄金は、何も言わなかった。
レジの引き出しを開けて、中をのぞきこむ。それから、カウンターの真ん中と、二人連れのいたテーブルに残った空のカップを、順番に数えた。
一つ。二つ。三つ。
「シズ」
黄金は、丸眼鏡をゆっくりと押し上げた。
「……ちょっと話あるわ」
再開した日と、同じ台詞だった。
ただ今日は、「あとで」が付いていなかった。




