第三章 水曜日のお代はいりません(2)
怒鳴り声が来る、と身構えた。
東京にいた頃、数字の合わない日の会議室はいつもそうだった。
でも、黄金は声を上げなかった。レジの引き出しを静かに閉めて、百円玉の棒を二本、その横に並べただけだった。
「まあ。何のお話ですの?」
雫が、首を傾げた。
「今日、タダにしたんは何杯や」
「三杯ですわ。カウンターの殿方と、テーブルのお二人と」
「三杯。千二百円やな」
黄金は、そろばんを出さなかった。出すまでもない数字だった。
黄金は店の中をちらりと見て、声をもう一段落とした。
「シズ。なんでタダにしたんか、聞かせてくれるか」
責める声ではなかった。帳簿の数字を読み上げるときと、同じ声だった。
「だって、今日はわたくしの担当の日ですもの」
雫は、入口の黒板を手のひらで示した。
祖父の字の下に、今朝、俺が書いた一行がある。
『本日の担当は、雫です。』
「担当の日は、わたくしが決めてよい日なのでございましょう? 陽華お姉さまの日には、お名前を大きく書いていただいて。黄金さんの日には、黄金さんが会議を開かれて」
「……それは」
黄金が、言葉に詰まった。
俺も、詰まった。担当、と書いたのは俺だ。けれど、その日の竜が何を決めていいのかまで、考えたことはなかった。名前を書けばみんなが喜ぶから、書いていただけだ。
「それに、あのお方、ひと口めで『あったかい』とおっしゃいましたの。あのお顔を見ましたら、何かして差し上げたくなって」
「……ほな、奥さんらは」
「あのお二人も、とても嬉しそうでしたもの」
雫は、少しも悪びれていなかった。喜んでくれた人がいる。雫にとっては、それで全部なのだ。
「コガネ」
陽華が、黄金の袖を引いた。
「シズを叱るなら、余も叱るのだ。余も、太っ腹と言うたからな」
「叱ってへんよ、ヒバ姉」
黄金は丸眼鏡を外して、レンズを袖で拭いた。
「シズ。この前、ウチが店長はんに言うたこと、覚えとるか」
「……?」
「タダほど高いもんはないで、って」
会議の朝、まかないを給金にすると決めたときの台詞だ。
「まあ。でも、それはまかないのお話では」
「おんなじや」
黄金は、眼鏡をかけ直した。
「豆代だけで一杯四十三円。三杯で百二十九円。ホムが焼いた豆や。……けどな、ウチが言いたいんは、銭の話やない」
「では、何のお話ですの」
「その兄ちゃん。払う、言わはったんちゃうか」
「ええ。何度も」
黄金は、カウンターの真ん中に残った空のカップを見た。
「払う言うてる人から、受け取らへんのはな。……しんどいもんなんや。払うほうが」
雫は、きょとんと瞬きをした。
「払うほうが、しんどい……? いただかないほうが、ずっと楽ではございませんの?」
「楽ちゃう」
黄金は、それ以上うまく言えないようだった。口を開いて、閉じて、もう一度開いた。
「……とにかく。タダで出したら、あかん」
「黄金」
俺は、ドリッパーを置いた。
「今日は、俺も止められなかった。雫だけのせいじゃない」
「店長はんは、手ぇ離せへんかったんやろ。見んでもわかる」
「それでも、だ」
雫が、俺と黄金を交互に見た。青い目が、少しずつ揺れはじめている。
「わたくし……いけないことを、いたしましたの?」
すぐには、答えられなかった。
エプロンの裾が、きゅっと握り直された。背中の後ろで、翠が雫を見ている。
いけないこと、と言ってしまうのは違う気がした。雫は、あの人の顔を見て、何かしたいと思った。その気持ちは、たぶん間違っていない。
でも、あの人がガラス戸の前で深く頭を下げたとき、どんな顔をしていたのか。俺は湯を注いでいて、見ていなかった。
言いたいことの形は、喉のすぐ手前まで来ていた。けれど、まだ言葉にならない。
「……いけなくは、ない」
やっと、それだけ言った。
「ただ、明日からは、お代はもらおう」
「……はい」
雫はうなずいた。けれど、なぜもらうのかは、わかっていない顔だった。
足元で、ぽたりと音がした。雫の腰から、水色のしっぽがしおれたように垂れている。床に、小さな水たまりができはじめていた。
流しのほうから、まほろさんが黙ってモップを持ってきた。
カラン、とドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませなのだ!」
陽華の声に、黄金はくるりと振り向いた。もう、いつもの顔に戻っていた。
「いらっしゃい〜! 空いとる席、どこでもどうぞ〜!」
*
六時の閉店まで、店はそれなりに忙しかった。
最後のお客さんを見送ると、黄金がレジの前でそろばんを弾いた。
ぱちぱち、ぱちん。
「今日は二十一杯。八千四百円や」
ぱちん。
「タダの三杯は、入れてへん。ほんまやったら二十四杯、九千六百円やった」
黄金は帳簿に数字を書きこんで、万年筆を持ったまま、しばらく手を止めていた。
余白に何か書き足すのかと思った。けれど黄金は、何も書かずに帳簿を閉じた。
「……来週の水曜も、シズの日やな」
それだけ言って、がま口をぱちんと鳴らした。
*
まかないの片付けを終えて、みんなが二階に上がったあとだった。水を飲みに店へ下りると、灯りがひとつだけついていた。
雫が、銅のポットを布で磨いていた。
「……眠れないのか」
「朔さま」
雫は、手を止めずに微笑んだ。
「この子を磨いておりますと、落ち着きますの」
銅の肌に、灯りが丸く映っている。俺は、客席側の丸椅子に腰を下ろした。
「昼間のこと、まだ気にしてるか」
「……わたくし、わからないのですわ」
雫は、ポットを胸に抱えた。
「昔、わたくしの湖にも、たくさんの方がいらしてくださいましたの。水を汲みに。魚を獲りに。夏には、子どもたちが泳ぎに」
「湖?」
「ええ。わたくしは、何もいただきませんでした。水は、差し上げるものでございましたから。それでも皆さま、また来てくださいましたの」
雫は、少しだけ目を伏せた。
「……今は、どなたもいらっしゃいません。わたくしの湖、地図に載っておりませんの」
どういう意味か、聞こうとした。
けれど、ポットを抱く腕にほんの少し力がこもったのが見えて、聞けなかった。
「あのお方にも、また来ていただきたかったのですわ。差し上げれば、また来てくださると思いましたの」
雫は、あの人を喜ばせたかっただけじゃない。もう一度、あのガラス戸を開けてほしかったのだ。
なのに、坂を下りていった急ぎ足の背中を思い出すと、胸の奥が少しざわついた。
「……来るよ、きっと」
言ってから、自分でもわからなくなった。
払わずに帰った店に、人はもう一度、来るだろうか。
明後日は、金曜日だ。管理者変更届は、まだ出していない。祖父の名前の代わりに、俺の名前を書く。その一行にも、まだ手が動かない。
壁の振り子時計が、ボーン、と十一回鳴った。
雫の腕の中で、ポットがシュウッと、ひとつだけ小さく鳴った。




