第三章 水曜日のお代はいりません(3)
四月十七日、木曜日。
黒板にチョークを当てて、祖父の字の下に一行書いた。
『本日の担当は、翠です。』
チョークを置くと、エプロンの裾がくいと引かれた。
翠が、俺の背中から半分だけ顔を出していた。緑の目が、黒板の一行をじっと見ている。裾を折り返したエプロンには、若草色の糸で、翠の名前が縫いとってある。
「……翠の、なまえ」
「うん。今日は、翠の日だ」
頭の上の双葉が、ぴこっと跳ねた。
昨日の夜から、ずっと考えていたことがある。
担当の日に、その竜は何を決めていいのか。俺はそれを、誰にも話してこなかった。だから、今朝は先に聞いてみることにした。
「翠。今日、何かしたいことはあるか」
翠は、しばらく黙っていた。それから、カウンターのほうを見た。
開店前のカウンターの内側で、雫が銅のポットを磨いている。昨日の夜と同じように、黙々と。ときどき手を止めては、ガラス戸の向こうの坂を見る。
「……しずねえと」
翠は、小さく区切って言った。
「……いっしょ。れじ」
「レジ?」
「……うん」
それきり、翠はまた俺の背中に隠れた。
*
十時に店を開けると、レジのところに三柱が並んだ。
真ん中に雫。その横に、そろばんを抱えた黄金。雫の後ろには、エプロンの裾をつかんだ翠。
「今日のお代は、シズが受け取るんやで。ウチは横で見とるだけや」
「まあ。わたくしで、よろしいのですか」
「ええよ。店長はんが、明日からはもらおう言うたやろ。今日が、その明日や」
最初のお客さんは、坂の下から上がってきた年配の男の人だった。ブレンドを一杯飲んで、レジの前に立った。
雫が、すうっと息を吸った。
「お、お代を……いただき、ますわ」
語尾が、少しだけ裏返った。黄金が横から、小声で「四百円や」と添えた。
お客さんが、百円玉を四枚、雫の手のひらに載せた。雫はそれを、壊れものでも預かったように両手で包んだ。
チーン、とレジが鳴った。黄金の「毎度おおきに〜」に送られて、お客さんは笑って帰っていった。
「……黄金さん」
「なんや」
「皆さま、どうしてお代を払うと、あんなふうにお笑いになるのでしょう」
黄金は、そろばんの珠を一つだけ弾いた。
ぱちん。
「……さあな。ウチも、うまいこと言えへん」
*
十二時を過ぎると、雫の目がたびたび戸口へ向くようになった。
ガラス戸の向こうを紺のスーツが通るたびに、ポットを持つ手が止まる。
十二時半。
ドアベルは、鳴らなかった。
十二時四十分。十二時五十分。
「……来ぬな、あの者」
テーブルを拭いていた陽華が、ぽつりと言った。
「今日は木曜日だからな」
野々村さんが来たのは、二度とも水曜日だった。たまたまかもしれないけれど。
雫は「そうですわね」と微笑んだ。けれど、目は坂の下から離れなかった。
*
一時を回ると、店は凪いだ。
「雫。一杯、淹れるよ」
「まあ、わたくしに?」
「お代はいらない。身内だからな」
キャニスターから、十五グラムを量った。昨日の四時半に焔が焼いて、ひと晩寝かせた豆だ。
ミルに移して、ハンドルを回す。
ごり、ごり、ごり。
焦がした砂糖のような香りが、静かになった店に広がっていく。
雫がポットに湯を移して、温度計を差した。針は、八十八度で止まった。
ドリッパーとカップを湯で温めて、その湯を捨てる。縫い目を互い違いに折ったフィルターに粉を移して、最初の湯を細く落とした。
粉が、ふっくらと膨らんだ。三十秒の蒸らしの間に、香りは甘さからほろ苦さへ、一段深く沈んでいく。
ふと、温度計が目に入った。
針が、八十九度を指していた。九十度。
雫は、ガラス戸の向こうを見ていた。
「雫」
「……あ。申し訳ございません」
針が、ゆっくりと八十八度に戻っていく。
真ん中から「の」の字を描いて、三投。黒に近い焦げ茶が八分目まで落ちたところで、ドリッパーを外した。最後の数滴は、落とさない。
雫はカップを両手で包んで、湯気を吸いこんでから、ひと口飲んだ。
「……少し、熱うございますわ」
それから、困ったように笑った。
「わたくしのせいですわね」
カップを置いて、雫は俺を見上げた。
「朔さま。お身内からは、いただかないのに。お客さまからは、いただくのですね」
「……ああ」
「なぜですの」
答えは、喉のすぐ手前にあった。昨日と同じ場所だ。
でも、まだ言葉にならない。言葉にならないものを、それらしく言いくるめることなら、東京で何度もやってきた。今それをしたら、雫はきっと信じてしまう。
「……ちゃんと言えるようになったら、言う」
「はい。お待ちしておりますわ」
雫は、急かさなかった。
カウンターの下で、翠が雫のエプロンの裾を握っていた。
「……しずねえ。まってる」
誰を、とは言わなかった。
*
閉店後、黄金はそろばんを弾いて帳簿をつけた。数字は、声に出さなかった。
まかないの片付けが終わると、黄金が帳簿を開いたまま、俺を手招きした。
帳簿のページの間から、一枚の紙が出てきた。
管理者変更届だった。
「……そこにあったのか」
「お役所はんが置いてったやつ、挟んどいた。なくしたら、あかんやろ」
用紙の途中には、御影さんの字で『同居の親族(自己申告)』とある。
「明日までやろ。来週中、言うてはったし」
黄金は、帳簿をつけていた万年筆を、俺のほうへ向けた。
「ウチのでええなら」
受け取って、空欄を順に埋めていった。住所。電話番号。最後に、氏名の欄が残った。
その上で、ペン先が止まった。
六十年。祖父の名前が、竜たちの台帳に載っていた年月だ。
好きにしろ、と父は言った。だから、好きにするつもりだった。ここに名前を書けば、その「好き」は、この店を続けるという意味になる。
昨夜の雫の声が、耳の奥で鳴った。今は、どなたもいらっしゃいません。
この店の戸を、誰も開けなくなる日。祖父は五十七年、その日を来させなかった。
ペン先が、紙に沈んだ。
『久遠朔』
祖父の字より、やっぱり下手な字だった。
誰も触っていないのに、チーン、とレジが鳴った。黄金は、そっぽを向いていた。
*
翌朝、黄色のチョークで黒板に書いた。
『本日の担当は、黄金です。』
それから、市役所へ行った。
朝八時半、窓口が開いたばかりだった。特定幻想種管理係の机で、御影さんは届を受け取った。上から下まで目を走らせ、訂正印に伸ばしかけた手を、途中で止めた。
「不備はありません。受理します」
「……はい」
「台帳は、本日付けで更新します。次回の検査のご案内は、久遠朔さん宛てにお送りします」
久遠宗一郎様、ではなく。
聞きたいことは、あった。昭和四十年のことだ。けれど御影さんは、もう次の書類に目を落としていた。
*
店に戻ると、ガラス戸の内側に雫が立っていた。
坂の下を、見ていた。
「お帰りなさいまし、朔さま」
雫は振り向いて、微笑んだ。
「水曜日まで、あと五日ですわね。……あのお方、また来てくださいますわよね」
一昨日の夜、俺は「来るよ、きっと」と言った。
今度は、「きっと」とは言えなかった。
壁の振り子時計が、ボーン、と十回鳴った。開店の時間だった。




