第三章 水曜日のお代はいりません(4)
四月十九日、土曜日。黒板には、まほろさんの名前を書いた。
『本日の担当は、まほろです。』
「あらあら。今日は、私の日ねぇ」
まほろさんは身をかがめて、黒板の自分の名前を眺めた。今日は、ちゃんと起きている。四月の最初の土曜日は、まるごと眠っていたのだ。
開店して一時間ほど経った頃、カラン、とドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませなのだ!」
陽華の声に迎えられて入ってきたのは、見覚えのある二人連れだった。水曜日に、お代を払わずに帰った奥さんたちだ。
「また来るわね、って言ったでしょう」
片方が、そう言って笑った。
ドリッパーの前にいた雫が、ぱっと顔を上げた。
「まあ……まあ」
腕の中で、銅のポットがシュウッと鳴った。
「雫。八十八度」
「……はい。存じておりますわ」
*
二人はこの前と同じテーブル席に座って、ブレンドを二つ頼んだ。
キャニスターから、十五グラムを量る。昨日の四時半に焔が焼いて、ひと晩寝かせた豆だ。
ミルに移して、ハンドルを回す。
ごり、ごり、ごり。
焦がした砂糖のような香りが、まだ静かな店に広がっていく。
雫がポットに湯を移すと、温度計の針は八十八度で止まった。ドリッパーとカップを温めて、その湯を捨てる。縫い目を互い違いに折ったフィルターに粉を移して、最初の湯を細く落とした。
粉が、パンのようにふっくらと膨らんだ。三十秒待つあいだに、甘い香りの奥から、ほろ苦い煙の匂いが立ってくる。
真ん中から「の」の字を描いて、三投。黒に近い焦げ茶が八分目まで落ちたところで、ドリッパーを外した。最後の数滴は、落とさない。
二杯目も、同じように淹れた。
テーブルまで運んだのは、雫だった。しずしずと、一歩ずつ。
奥さんたちは湯気に顔を寄せてから、そっと口をつけた。
「あら。やっぱり、おいしいわね」
「ほんと。苦いのに、あとが甘いのよね」
もう一人は、そう言ってカップを両手で包んだ。
*
二人がレジの前に立ったのは、それから三十分ほどあとだった。
黄金が、丸眼鏡の奥で目をぱちりとさせた。
「あ。坂ですれ違うた奥さんらや」
「あら、あのときの眼鏡の子」
片方が財布から千円札を二枚出して、レジの前に差し出した。
「今日のぶんと、この前のぶん。四杯で千六百円よね」
黄金の手が、止まった。
「この前のぶんも、ですか? ほんまに?」
「タダにしてもらったら、なんだか来づらくてねえ」
「そうそう。借りがあるみたいで、落ち着かないのよ」
黄金は、千円札に手を伸ばさなかった。代わりに、俺のほうを振り返った。
俺は、雫を見た。
「あの日の担当は、雫だったから」
雫が、はっと俺を見返した。それから、ゆっくりとレジの前に出てきた。
「……本当に、よろしいのですか」
「いいのよ。払わせてちょうだい」
雫は、千円札を二枚、両手で受け取った。
「……いただき、ますわ」
チーン、とレジが鳴った。黄金が百円玉を四枚数えて、お釣りを差し出す。
「毎度おおきに〜。また寄ってな〜」
「ええ。これで、気兼ねなく来られるもの」
カラン、とドアベルが鳴って、二人は坂を下りていった。
雫は、ガラス戸の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
「……来づらい」
ぽつりと、雫が言った。
「差し上げたら、来づらくなるのですか。わたくし、差し上げれば、また来てくださると……」
その先は、言葉にならなかった。
黄金が、レジの引き出しを静かに閉めた。
「……な。しんどいやろ。払われへんのは」
それ以上は、黄金も何も言わなかった。
流しのほうで、まほろさんが「あらあら」とつぶやいた。いつもより、少しだけやわらかい声だった。
答えの手前まで、また一歩近づいた気がした。けれど、その一歩の先にあるものに、俺はまだ名前をつけられなかった。
*
日曜日は、陽華の名前を大きく書いた。
昼を過ぎると、雫はガラス戸の向こうを見ていた。紺のスーツは、何度も坂を行き来した。けれど、あのガラス戸を開ける人は、いなかった。
月曜日は、店を休んだ。
*
その夜だった。
壁の振り子時計が十一回鳴って、しばらく経った頃だ。水を飲みに下りると、店に灯りがひとつだけついていた。
ガラス戸の内側に、雫が立っていた。ポットは持っていない。夜の坂の下を、じっと見ている。
階段の下で、俺は足を止めた。声は、かけられなかった。
やがて雫は、誰もいない坂に向かって、小さく頭を下げた。それから振り向いて、俺に気づいた。
「まあ、朔さま。……おやすみなさいまし」
雫はいつもどおりに微笑んで、俺の横を抜けていった。階段を上がる足音は、ほとんどしなかった。
「毎晩なのよ」
店の奥で、声がした。
振り子時計の下の暗がりに、朧さんが立っていた。銀色の髪が、灯りを受けて淡く光っている。いつからそこにいたのかは、わからなかった。
「水曜日の夜から、毎晩。みんなが寝たあとで、ああして坂の下を見てるの」
「……知ってたのか」
「夜は、私の時間だもの」
朧さんはカウンターの丸椅子に腰を下ろした。俺も、一つあけて隣に座った。
「朔は、あの子に答えをあげないのね」
「……まだ、持ってないから」
「そう」
朧さんは、少しだけ笑った。
「なら、いいわ。借りてきた答えじゃ、あの子には届かないもの」
「待つのって、どうすればいいんだろうな」
「待ち方なんて、人に教わるものじゃないわ」
「朧さんは、上手そうだけど」
「どうかしら」
朧さんは、壁の写真のほうを見た。店の前に並んで立つ、若い頃の祖父と祖母だ。
「私は、待つのが得意なんじゃないの。ずっと、眠っていただけ」
それきり、朧さんは写真から目を離さなかった。
窓の外は暗かった。雲はないのに、月はどこにも見えない。
「月、出てないけど」
「まだ昇ってないだけ」
朧さんは立ち上がって、階段のほうへ歩いていった。途中で、一度だけ振り返った。
「……月が見てるわ」
灯りを消すと、屋根裏で床がひとつ、きしんだ。
*
火曜日には、焔の名前を書いた。漁が休みのテツさんが、いつもの席で朝刊を広げていった。
昼を過ぎると、雫はやっぱりガラス戸の向こうを見ていた。
そして、四月二十三日。水曜日の朝が来た。
*
黒板に、一週間ぶりの一行を書いた。
『本日の担当は、雫です。』
今日は、ポットは鳴らなかった。雫は黒板の字を一度だけ見て、静かに微笑んだ。
「雫。今日、何かしたいことはあるか」
雫は、少し考えた。
「いつもどおりに、お淹れしたいですわ。八十八度で」
「それだけか」
「ええ。それだけで、よろしいのですわ」
厨房の奥では、焔が四時半から焼いた豆が、ざるの上で冷めている。今日の店に出すのは、昨日焼いて寝かせたぶんだ。
十時に、店を開けた。
十二時を過ぎても、ポットの温度計の針は、八十八度から一度も動かなかった。
雫はガラス戸のほうを見なかった。見ないようにしているのだと、なんとなくわかった。
黄金はそろばんを手元に置いたまま、珠を弾かずにいた。陽華は、同じテーブルばかり拭いていた。まほろさんは、流しで同じカップを二度洗っていた。焙煎室の扉は、細く開いていた。
翠は俺のエプロンの裾を握って、ときどき雫を見上げた。
十二時二十分。十二時二十五分。
壁の振り子時計が、ボーン、とひとつ鳴った。
十二時半だった。
その音が消えないうちに――
カラン、と。
ドアベルが鳴った。




