第三章 水曜日のお代はいりません(5)
紺のスーツだった。
首から下げた社員証。ガラス戸を押したまま、その人は一度だけ、戸口で足を止めた。
野々村さんだった。
「いらっしゃいませなのだ!」
陽華の声が、いつもより半拍遅れて弾けた。カラン、カランとドアベルが続く。
野々村さんは小さく会釈をして、カウンターの真ん中の丸椅子に腰を下ろした。
目の下の影は、まだ残っていた。それでも、先週よりは少しだけ薄い。
スマホは、出てこなかった。野々村さんは上着のポケットに手を入れたまま、入口の黒板を見ていた。
『本日の担当は、雫です。』
「……ブレンドを、お願いします」
「はい」
返事をしたのは、俺ではなかった。
雫が、銅のポットを胸に抱えて立っていた。青い目が、まっすぐに野々村さんを見ている。
ポットは、鳴らなかった。
*
「朔さま。挽いていただけますか」
「ああ」
キャニスターから、十五グラムを量る。昨日の四時半に焔が焼いて、ひと晩寝かせた豆だ。中挽きに合わせたミルに移して、ハンドルを回した。
ごり、ごり、ごり。
手のひらに、豆の砕ける手応えが伝わってくる。焦がした砂糖のような香りが、カウンターの上に広がっていった。
雫がポットに湯を移して、温度計を差した。針は、八十八度で止まった。
ドリッパーとカップを湯で温めて、その湯を捨てる。縫い目を互い違いに折ったフィルターに、俺が粉を移した。そこから先は、雫の手だった。
細い注ぎ口が、粉の真ん中にほんの少しだけ湯を落とす。
粉が、こんもりと膨らんだ。ふつふつと細かい泡を吹いて、甘い香りの奥から、ほろ苦い煙の匂いが立ちのぼる。
三十秒。
雫の手首が、ゆっくりと円を描いた。真ん中から外へ、「の」の字に。湯の糸は一度も途切れず、紙のフィルターにも触れなかった。
二投目。三投目。
黒に近い焦げ茶が、カップの八分目まで落ちた。雫はドリッパーを外した。最後の数滴は、落とさなかった。
白いカップの縁で、コーヒーがうっすらと赤く透けていた。
「お待たせいたしましたわ」
野々村さんは、すぐには飲まなかった。カップを持ち上げて、湯気を吸いこむ。それから、ひと口。
喉が、ごくりと動いた。
「……ああ」
息をつくような声だった。
「この味だ」
野々村さんはもうひと口飲んで、カップを置いた。それから、しばらく黒い水面を見ていた。
伏せるスマホも、震えるスマホもなかった。
レジの前では、黄金がそろばんに手を置いたまま、雫と野々村さんを見比べていた。黄金がこの人を見るのは、今日が初めてだ。けれど雫の横顔を見れば、誰なのかはわかったのだろう。珠は、ひとつも鳴らなかった。
*
カップが空になったのは、十五分ほどあとだった。
野々村さんがレジの前に立つと、雫がしずしずとその前に出た。黄金は、一歩下がった。
野々村さんは財布を開きかけて、手を止めた。それから、上着の内ポケットに指を入れた。
カウンターに置かれたのは、百円玉が四枚だった。
「これ、先週のぶんです」
雫の目が、丸くなった。
「ずっと、ここに入れてました。あの日はすぐ会社に戻って、そのまま週末まで泊まりこみで」
野々村さんは、少し困ったように笑った。
「水曜は、この先の取引先に来る日なんです。だから今日も来るつもりだったんですけど。……坂の下で、一回引き返しかけました」
「まあ……どうして、ですの」
「払ってない店に、どんな顔で入ればいいのか、わからなくて」
雫の腕の中で、ポットがかすかに揺れた。
野々村さんは財布から百円玉をもう四枚出して、最初の四枚の隣に並べた。
「それと、今日のぶん。……受け取ってもらえますか」
雫は、俺のほうを振り返らなかった。八枚の百円玉を見下ろしてから、野々村さんの顔を見上げた。
「……いただき、ますわ」
雫は八枚を一枚ずつ手のひらに集めて、両手でそっと包んだ。
チーン、とレジが鳴った。
「毎度おおきに。……また寄ってな」
黄金の声は、いつもより少しだけ低かった。
野々村さんは頭を下げて、ガラス戸を押した。カラン、とドアベルが鳴る。
それから――戸口で、振り返った。
「野々村です。……また来ます」
坂を下りていく背中は、急いでいなかった。
「ノノムラ、であるな!」
陽華が、戸口に駆け寄った。
「覚えたのだ!」
カラン、カラン、カランとドアベルが鳴りつづけた。
*
雫は、八枚を包んだ手を胸の前に置いたままだった。
「朔さま。あのお方、『また来ます』とおっしゃいましたわ。お代を、お払いになったあとで」
声が、少し震えていた。
「わたくし、先週は差し上げましたのに。あのお方は、坂の下で……」
その先は、言葉にならなかった。
喉のすぐ手前にあったものが、そこでやっと形になった。
テツさんが並べた、百円玉四枚。奥さんたちの千円札二枚。今日の八枚。奥さんたちは、払ったあとで「これで、気兼ねなく来られるもの」と言った。野々村さんは「また来ます」と言った。
それから、俺が届に書いた、祖父より下手な名前。あれも、たぶん同じだ。この店を、明日も開けるという約束だ。
「雫」
俺は、ドリッパーを置いた。
「お代っていうのはさ、『また来ます』っていう約束なんだよ」
雫が、顔を上げた。
「払ったら、胸を張ってまた来られる。受け取ったら、こっちも胸を張ってまた迎えられる。タダにすると、その約束ができないんだ」
「約束……」
「野々村さんは、先週その約束をさせてもらえなかった。だから、来づらかったんだと思う」
レジの前で、黄金がそろばんの珠を一つだけ弾いた。
ぱちん。
「……それや」
黄金は、そっぽを向いたまま言った。
「ウチが言いたかったん、それや」
雫は、手のひらの百円玉を見つめていた。
「では、わたくしが今いただいたのは、四百円ではなくて。……あのお方が、また来てくださるお約束」
シュウッ、と。
カウンターに置いたポットが鳴った。ひとつでは終わらなかった。シュウッ、シュウッと、細い湯気が立ちのぼっていく。
雫の腰から、水色のしっぽがするりと出ていた。ぱたぱたと揺れるたびに、床に小さな水たまりが広がっていく。
流しのほうから、まほろさんがモップを持ってきた。
「あらあら。今日のは、嬉しいほうねぇ」
エプロンの裾が、くいと引かれた。翠が、俺の背中から顔を出していた。
「……しずねえ」
雫が、振り向いた。
「……きた」
「ええ。……ええ、翠ちゃん。来てくださいましたわ」
雫は、笑いながら少しだけ泣いていた。
厨房の奥で、ゴウン、とドラムがひとつ回った。
*
六時の少し前、カラン、とドアベルが鳴った。
「おう。まだ開いてるか」
テツさんだった。片手に、水の滴るビニール袋を提げている。
「網の片付けしてたら、こんな時間になっちまった。これ、置きに来ただけだ」
袋の中で、薄紅色の魚が一尾、光っていた。
「鯛、ですか」
「小ぶりで、売り物にならねえやつだ。桜の時分の鯛は、うまいぞ」
黄金が、眼鏡を押し上げた。
「……タダほど高いもんはないで」
「おう。高えぞ」
テツさんは、にやりと笑った。
「来週の火曜、うまいの一杯頼むわ。金は払う」
それだけ言って、テツさんは坂を下りていった。
*
閉店後、坂の下のスーパーで、三つ葉と刻み海苔といりごまを買った。
鯛は、包丁の背でうろこを引いた。薄紅色の皮の下から、銀色が透けてくる。とん、と頭を落とす音が、まな板に響いた。三枚におろしているうちに、頭の中が静かになっていった。
アラは、焔が裏庭の七輪で焼いた。焔が炭にふうっと息を吹きかけると、じゅっと脂の落ちる音がして、骨の焦げる香ばしい匂いが勝手口から流れこんできた。
焼いたアラを鍋に入れて、水から煮出す。浮いてきたアクを、お玉ですくう。湯が澄んだ金色に染まって、潮の香りが厨房に満ちた。塩をひとつまみと、醤油を数滴。
身は、薄くそぎ切りにした。いりごまを指先でひねって潰し、醤油と合わせる。そのたれにくぐらせて置いておくと、白い身の縁がうっすらと飴色に染まった。
米びつの米を祖父の炊飯器で炊いて、茶碗に盛る。鯛を花びらのように並べて、三つ葉と刻み海苔を載せた。
「雫。だし、頼めるか」
「まあ。何度にいたしましょう」
「沸く手前で」
雫がお玉でだしをすくうと、湯気がふわりと立った。茶碗の縁から、細く回しかける。熱いだしが触れたところから、鯛の身が白く縮んで、ほどけていった。ごまの香りが、湯気と一緒に立ちのぼる。
店のテーブルをふたつくっつけて、みんなで囲んだ。
階段がきしんで、朧さんが下りてきた。テーブルの上を見回して、それから、俺の隣に腰を下ろした。
八つの茶碗が、湯気を立てていた。
「花が、咲いておるのだ!」
陽華は茶碗をのぞきこんで、ひと口すすると、目を丸くした。
「……うまいのだ!」
「アラ、焼いてよかったろ」
焔は、だしをすすって、しっぽの先の火を揺らした。
「……これ、店で出したらなんぼ取れるやろ」
黄金は箸を止めて、それから首を振った。
「出さへんけどな。まかないや」
翠はふうふうと三回吹いてから、鯛を一切れ口に入れた。
「……ほどける」
「あらあら。いいお出汁ねぇ」
まほろさんは、自分の茶碗よりも、みんなの茶碗ばかり見ていた。
雫は、両手で茶碗を包んで、ゆっくりとひと口飲んだ。
「……あったかい、ですわ」
隣で、朧さんが小さく言った。
「借りてきた答えじゃ、なかったみたいね」
「……わかるのか」
「あの子の顔を見ればね」
朧さんはひと口すすって、目を細めた。
「桜の匂いがするわ」
*
その夜、壁の振り子時計が十一回鳴った頃に、水を飲みに下りた。
店は、暗かった。
ガラス戸の内側には、誰も立っていなかった。
来週の水曜も、雫の日だ。
(第三章・了)




