第四章 木曜日のミントティー(1)
四月二十四日、木曜日。
黒板の前に立つと、背中のシャツが、くいと引かれた。
振り返らなくても、誰だかわかる。
祖父の字の『本日のブレンド 深煎り』の下に、チョークで一行書いた。
『本日の担当は、翠です。』
翠が、俺の背中から半分だけ顔を出した。裾を折り返したエプロンの胸元で、若草色の糸が朝の光を拾っている。緑の目が、黒板の字を端から端まで、ゆっくりとなぞっていった。
頭の上の双葉が、ぴこっと跳ねた。
厨房の奥では、焔が四時半から焼いた豆が、ざるの上で冷めている。あれは明日のぶんだ。今日の店に出すのは、昨日焼いて寝かせた豆になる。
カウンターの内側では、雫が銅のポットを磨いていた。ときどき手を止めて、ふふ、と小さく笑う。ガラス戸の向こうの坂は、もう見ていなかった。
担当の竜には、朝にひとつ聞くようにしている。
「翠。今日、何かしたいことはあるか」
翠は、しばらく黙っていた。
先週は、カウンターのほうを見た。今日は、勝手口のほうを見た。
「……にわ」
「庭?」
「……さくも。いっしょ」
シャツを握る指に、少しだけ力がこもった。
*
勝手口を開けると、朝の潮風が厨房に流れこんできた。
前に一度、勝手口の窓から、翠が古い木に話しかけているのを見たことがある。けれど、俺が菜園の前にしゃがむのは、帰ってきてから初めてだった。
古い木の根元から、黒い土の畝が並んでいる。祖父が耕していた畝だ。
翠は俺の背中から離れると、畝のあいだにしゃがみこんだ。土に鼻が触れそうなくらい、顔を近づける。
「……おはよう」
返事は、聞こえなかった。少なくとも、俺の耳には。
翠は何度か小さくうなずいて、それから俺を振り返った。
「……のど、かわいた、って」
「水か」
「……まえは、まいあさ、ひとり、きてた、って」
翠は、畝の土を指でそっとなでた。
「……みず、くれるひと。……こなくなった、って」
誰のことかは、聞かなくてもわかった。
三月十四日の朝から、ここに水をやる人はいなくなった。翠が目を覚ましたのは、その半月あまりあとだ。
「……翠も、みずやり、してた。まいあさ」
「知らなかった」
「……でも、すこしだけ。……なべ、おもい」
厨房の鍋のことらしい。じょうろの置き場所は、俺も知らなかった。
厨房に戻って、いちばん大きな鍋に水を張った。両手で抱えて戻ると、翠が畝の端で待っていた。
「……ここ。ゆっくり」
言われたとおりに、鍋を少しずつ傾ける。黒い土が水を吸って、もう一段黒くなった。湿った土の匂いが、足元から立ちのぼってくる。
勝手口と畝のあいだを、三度往復した。
最後の一杯を注ぎ終えたとき、翠が目を閉じた。
「……おいしい、って」
鍋の縁から落ちる水の音が、やけに大きく聞こえた。
誰かに何かを「おいしい」と言われたのは、東京では、いつが最後だっただろう。
*
水をやり終えると、翠は畝の端の、こんもり茂った一角に俺を連れていった。
しゃがんだとたん、すうっとした匂いが鼻を抜けた。
「……ミントか」
縁がぎざぎざの若い葉が、茎の先に重なりあっている。どれも明るい緑だ。指先で触れると、匂いがもう一段強くなった。
「ひとつ、もらっていいか」
翠は首を傾げた。それから、ミントの茂みに顔を寄せた。
何かを待っているような間があった。
「……いいって」
翠は、茎のいちばん上を指さした。
「……うえの、ふたつだけ。……したは、だめ。これから、のびる」
言われた二枚を、爪の先で摘む。根元の葉には触れないように。
手のひらに載せると、ひやりとした匂いが指に移った。寝不足の朝に、冷たい水で顔を洗ったときのような匂いだった。
隣の畝では、黄色い花がいくつか開きかけていた。
菜の花だ。咲いているのは、背の高い茎の先だけだった。脇から伸びた細い茎には、まだ固いつぼみがついている。
つぼみのうちに摘めば、おひたしになる。
そう思ったのが、顔に出たのかもしれない。翠が、菜の花に耳を寄せた。
「……ゆうがた、なら」
「夕方?」
「……いいって。いまは、おひさま、あびたい、って」
翠は、つぼみの一本を指でちょんとつついた。
「……さくの、ごはん。……しってる、って」
「なんで知ってるんだ」
「……翠が、はなした」
双葉が、ぴこっと跳ねた。
戻るとき、翠は古い木の幹に手のひらを当てて、小さく「……いってきます」と言った。
*
十時に、店を開けた。
摘んだミントの二枚は、コップに水を張って、厨房の流しの横に挿しておいた。
翠は、今日も俺の背中から離れなかった。俺がドリッパーに湯を落としているあいだ、カウンターの陰にしゃがんで、温めたカップを一つずつ差し出してくる。客席から見えるのは、たぶん頭の双葉だけだ。
「あら。その子も、お手伝い?」
昼すぎに、テーブル席のお客さんから声をかけられた。
双葉が、カウンターの陰にすっと沈んだ。
「すみません。人見知りで」
「いいのよ。かわいい芽ねえ」
お客さんは笑って、カップを口に運んだ。
陰から、シャツの裾を引く指があった。逃げたいときの引き方とは、少し違う気がした。
*
昼の混雑が引いた頃、菜の花の話をすると、黄金はレジの前でそろばんを弾いた。
「坂の下のスーパーやったら、菜の花は一束二百円ちょっとはするで。それが裏庭でタダで――」
「売らないぞ」
「わかっとるて。まかないやろ」
「翠が、毎朝水をやってたんだ」
黄金の指が、珠の上で止まった。
「……ほな、タダやないな」
ぱちん、と珠がひとつ戻った。
カウンターの陰で、双葉がぴこっと跳ねた。
*
六時に、店にいたお客さんを見送った。
ガラス戸を押さえて、お客さんに頭を下げる。カラン、とドアベルが鳴った。
顔を上げたとき、坂の途中に、小柄なおばあさんが立っているのが見えた。
杖を手首に引っかけて、スケッチブックを片腕で抱え、もう片方の手で鉛筆を動かしている。
描いているのは、この店だった。
その顔に、見覚えがあった。
祖父の葬儀の日だ。たくさんの人が俺に頭を下げていった中に、杖をついたおばあさんが一人いた。あのときの俺は、誰の顔も知らなかった。この人の名前も、まだ知らない。
おばあさんが、鉛筆を止めた。
目が合った。それから、その目が少しだけ下に動いた。
俺の背中から半分だけのぞいている、若草色のおかっぱに。
翠の指が、シャツをぎゅっとつかんだ。
すん、と小さく鼻が鳴った。
初めて会った夜も、翠は俺の後ろでこうしていた。何かの匂いを、確かめるみたいに。
おばあさんのほうから、風が吹いてきた。絵の具と、古い紙の匂いがした。
「……さく」
背中で、翠がささやいた。
「……このにおい。……しってる」
おばあさんはスケッチブックを閉じた。杖をつき直して、ゆっくりとこちらへ歩いてくる。
そして、俺ではなく俺の背中に向かって、目尻の皺を深くした。
「こんばんは」
翠は、俺の背中に顔をうずめた。
けれど、頭の上の双葉だけは、まっすぐにおばあさんのほうを向いていた。




