第四章 木曜日のミントティー(2)
翠は、返事をしなかった。
背中のシャツが、じんわりと温かくなる。顔を押しつけたまま、息をひそめているらしい。
「すみません。人見知りで」
昼にも、同じことを言った。
「いいんだよ。急に声をかけた、あたしが悪いね」
おばあさんは、目尻の皺をそのままにして笑った。近くで見ると、背丈は翠より頭ひとつぶん高いくらいしかない。
「あの。祖父の葬儀に、来てくださってましたよね」
「覚えててくれたのかい」
「顔だけです。……お名前は、まだ」
「綾瀬千代。この坂の、もうちょっと上に住んでる年寄りだよ」
おばあさんは、杖の先で坂の上をちょんと指した。
「町のみんなは、ちよばあって呼ぶ。あんたも、そう呼んでおくれ。宗一郎さんの孫の、朔くんだね」
「……ちよばあ」
口に出してみると、案外すんなり言えた。まほろさんのことは、まだ呼び捨てにできないのに。
「宗一郎さんには、長いこと世話になったよ。灯りがついてるうちに、この店を描いておきたくてね」
押さえたままのガラス戸から、店の灯りが坂にこぼれていた。
ちよばあは、杖にもたれるようにして立っている。いつから、ここで描いていたのだろう。
「よかったら、中で休んでいきませんか。これから夕飯なんです。まかないですけど」
言ってから、背中の翠のことを思い出した。
ちよばあも、同じところを見ていた。
「……お邪魔して、いいのかい」
俺にではなく、俺の背中に聞いていた。
しばらくして、シャツの布越しに小さな声がした。
「……うん」
*
ちよばあが店に入ったとたん、ホールの奥から橙色の頭が飛んできた。
「む! 初めての顔だな?」
陽華だった。頭の上で、王冠のような角がにょきりと伸びる。
「余は陽華である! 今日から友達である!」
カラン、カランカラン。
戸はもう閉まっている。風も吹いていない。それなのに、入口のドアベルが身をよじるように鳴った。
ちよばあは、鳴っているベルを見上げた。それから陽華に目を戻して、目尻の皺を深くした。
「陽華ちゃん。いい名前だね。よろしくね」
それだけだった。
角のことは、何も聞かなかった。源さんでさえ、角をしげしげと眺めてから、エイプリルフールで納得した――。
「あらあら。いらっしゃい」
厨房から、まほろさんが顔を出した。
糸みたいな目が、ちよばあの上で止まった。ほんの一瞬だけ、細い目がさらに細くなる。
ちよばあもまほろさんを見上げて、小さく頭を下げた。二人とも、何も言わなかった。
「ゆっくりしていってねぇ」
まほろさんは、それだけ言って厨房に戻っていった。
ちよばあは、カウンターの丸椅子に腰を下ろして、杖を膝に立てかけた。端の席ではなく、ひとつ内側だった。
「まあ、いらっしゃいませ」
雫が、ポットを磨く手を止めて微笑んだ。湯呑みにお湯を注いで、ちよばあの前にそっと置く。
「お白湯でございますわ。ぬるめにしておきましたの」
「ありがとう。ちょうどいいね」
焙煎室の扉は、細く開いている。
レジの前では、黄金がそろばんから顔を上げた。
「店長はん、まかないのお客さんか。ほな、何作るん」
「菜の花のおひたしと、卵焼き。卵を買ってきてほしいんだ。あと、油も」
「卵なあ。十個で三百円近うするで」
「頼む」
財布から千円札を一枚渡すと、黄金はそれをがま口にしまって、ぱちんと鳴らした。
「おつりとレシート、ちゃんと持って帰るさかいな」
*
勝手口を出ると、裏庭は西日で橙色に染まっていた。
菜の花の畝の前にしゃがむと、翠がつぼみに耳を寄せた。
「……いいって」
「どれを摘めばいい」
「……わきの、だけ。……まんなかは、さかせる」
背の高い茎の先では、朝よりいくつか多く、黄色い花が開いていた。脇から伸びた細い茎には、緑のつぼみが身を寄せあっている。
細い茎を指でつまんで、軽く折る。柔らかいところは、ぽきり、と気持ちよく折れた。
折り口から、青い匂いが立った。草を踏んだときの匂いに、少しだけ苦みが混じっている。
片手に束になるほど摘んだ頃、翠の手が止まった。
「……さく」
「ん」
「……ちよばあ。……におい、しってる。……でも」
双葉が、少しだけ垂れた。
「……翠、おぼえてない。……いつ、かいだか。……わからない」
すぐには、何も言えなかった。
翠が目を覚ましたのは、三月三十一日の夜だ。その前のことをどこまで知っているのか、俺は聞いたことがなかった。
「……変な感じか」
「……へん。……ここが、むずむずする」
翠は、エプロンの上から自分の胸をそっと押さえた。
「匂いを覚えてるなら、それでいいんじゃないか。無理に思い出さなくても」
翠は、しばらく俺を見ていた。
「……それで、いい?」
「たぶんな」
「……うん」
双葉が、ほんの少しだけ持ち上がった。
菜の花の束を持って立ち上がると、西日はもう、屋根の向こうに沈みかけていた。
*
黄金が戻ってきたのは、炊飯器のスイッチを入れてしばらくした頃だった。
「卵十個で二百九十八円。油は小さい瓶で二百円ちょっとや。おつり、確かめてな」
大きな鍋に湯を沸かし、塩をひとつまみ落とす。
ぐらぐらと湯が躍りはじめたところで、菜の花を茎のほうから沈めた。十数えてから、つぼみまで湯にくぐらせる。
くすんだ緑が、湯の中で見る間に色を変えた。ぱっと明るい、若草のような緑だ。厨房に、ほろ苦い青い匂いが立ちこめる。
一分ほどで引き上げて、水を張ったボウルに放した。
色が落ち着いたところで、両手で軽く握って水気を絞る。力を入れすぎると、つぼみがつぶれてしまう。まな板の上で、四センチほどに切りそろえた。
醤油を、数滴だけ。
白い皿に盛ると、緑のあいだから、ほどけかけた黄色がのぞいていた。
「手際がいいねえ」
振り向くと、ちよばあが厨房の入口に立っていた。湯呑みを両手で包んでいる。
ちよばあの目が、俺の手元から流しの横に移った。水を張ったコップに、ミントの葉が二枚挿してある。
「……ミントかい」
「今朝、翠と摘んだんです。上の二枚だけ、って」
「上の、ふたつだけ」
ちよばあは、ゆっくりと繰り返した。
それから、俺の後ろに目をやった。カウンターの陰から厨房をのぞいていた双葉が、すっと引っこんだ。
ちよばあは何も言わずに、湯呑みを傾けた。
*
ボウルに、卵を五つ割った。
こん、ぱかっ。こん、ぱかっ。黄身が五つ、ボウルの底で並んで揺れる。
塩をひとつまみ。醤油を数滴。箸で白身を切るように、底からすくっては落とす。泡立てないように、何度も。
厨房に、四角い卵焼き器はない。コンロの上の小さなフライパンを使うことにした。
火にかけて、油を薄くひく。箸の先で卵液を一滴落とすと、じゅっ、と小さく鳴った。
三分の一を流しこむ。
じゅわっ。
縁から、卵がふつふつと泡を立てて固まっていく。卵の焼ける、甘く丸い匂いが広がった。表面がまだとろりとしているうちに、奥から手前へ、箸でくるくると巻く。
巻いた卵を奥へ戻して、空いたところに油を足す。残りの半分を流しこみ、巻いた卵を箸で持ち上げて、下にも卵液を行きわたらせる。
それを、もう一度。
最後に、フライパンの縁に押しつけて形を整えた。丸いフライパンだから、端が少し丸くなる。
焼き色は、薄い狐色。まな板に移して、ひと呼吸置いてから切る。切り口から、白い湯気がふわりと立った。
同じものを、もう一本焼いた。
*
窓の外が暗くなった頃、階段がきしんだ。
朧さんが下りてきて、階段の下で足を止めた。カウンターのちよばあと、目が合う。
「……こんばんは」
「こんばんは」
それだけ言って、朧さんはテーブル席のほうへ歩いていった。
焙煎室から出てきた焔が、黙ってテーブルの端を持ってくれた。
店のテーブルをふたつくっつけて、みんなで囲んだ。
茶碗は、いつもの八つでは足りなかった。棚の奥から、もうひとつ出してくる。九つの茶碗に、炊きたてのご飯をよそった。
陽華が、順に指さしながら、ちよばあにみんなの名前を教えていった。ちよばあは、そのたびにうなずいていた。
「黄色いのだ!」
陽華が、卵焼きをつまみ上げた。ひと口かじって、目を丸くする。
「……ふわふわなのだ!」
カラン、とドアベルが鳴った。
焔は、おひたしを口に入れて眉を寄せた。
「……苦ぇ」
それから、もうひと口。
「……けど、これはいい苦さだ」
しっぽの先に、小さな火がぽっと灯った。
「焔ちゃん。火の粉、ご飯に落ちるよ」
ちよばあが、茶碗を持ったまま、のんびりと言った。
「……ちゃん付けすんな」
焔はそう言いながら、しっぽを椅子の後ろに回した。
思わず、箸を止めてちよばあを見た。ちよばあは、もう卵焼きのほうを見ていた。
「まあ……。あったかいですわ」
雫は、卵焼きをひと切れ、大事そうに少しずつ食べた。
「卵十個で二百九十八円やろ。一個、三十円ちょいや」
黄金は、箸でそろばんを弾くような手つきをしながら、二切れ目に手を伸ばしていた。
「……苦いのね。春は」
朧さんは、おひたしをひと口食べて、窓の外の暗い坂を見た。
「あらあら。いい色ねぇ」
まほろさんは、自分の皿よりも、翠の皿ばかり見ていた。
翠は、菜の花のつぼみを一本だけ箸でつまんで、しばらく見つめていた。それから、そっと口に入れた。
「……あまい」
小さくつぶやいて、もう一本。
「……あした、はなす。……おいしかった、って」
ちよばあは、卵焼きをひと切れ口に運んで、ゆっくりと噛んだ。
「……しょっぱいほうだね」
「甘いほうが、よかったですか」
「ううん」
ちよばあは、首を横に振った。
「これで、いいんだよ」
それ以上は、何も言わなかった。
*
八時を過ぎた頃、ちよばあは杖をついて立ち上がった。
ガラス戸を開けると、坂の街灯がぽつぽつと灯っていた。
「ごちそうさま。朔くん、また来てもいいかい」
「いつでも。……上まで、送りましょうか」
「すぐそこだよ。年寄り扱いは、まだ早いね」
ちよばあは笑って、俺の後ろに目をやった。
翠は、今度は顔をうずめなかった。シャツの裾を握ったまま、半分だけ顔を出している。
「翠ちゃん」
双葉が、ぴくりと揺れた。
「うちの庭にもね、菜の花が咲いてるよ。今度、見においで」
翠は、黙っていた。
ちよばあは返事を待たずに、杖をこつこつと鳴らしながら坂を上っていった。
小さな背中が、街灯の向こうに見えなくなってから、翠がささやいた。
「……ちよばあ」
初めて、その名前を呼んだ。
「……こんど。……いく」
頭の上の双葉が、ぴこっと跳ねた。




