第四章 木曜日のミントティー(3)
四月二十六日、土曜日。
黒板に、チョークで一行書いた。
『本日の担当は、まほろです。』
まほろさんが身をかがめて、自分の名前を眺めた。今週も、ちゃんと起きている。
その日は、十時に戸を開けたときから様子が違った。
坂の下から、見慣れない顔が次々に上がってくる。リュックを背負った若い二人連れ。スマホで店の外観を撮っていく家族。連休が、始まったのだ。
「む! 初めての顔だな? 今日から友達である!」
カラン、カランカラン。
陽華が戸口で声を上げるたびに、ドアベルが鳴った。お客さんたちは角を見て笑い、スマホを向けていった。
カウンターの丸椅子は、昼前には全部ふさがった。
俺は、ドリッパーの前から動けなかった。カウンターの陰からは、翠が温めたカップを休みなく差し出してくる。双葉は、ずっと引っこんだままだった。
昼の混雑がひと息ついたところで、黄金がそろばんを弾いた。
「なあ店長はん。こんだけ来はるんやったら、五十円くらい――」
「上げない」
「……ほな、来月の会議で、また言うからな」
ぱちん、と珠が戻った。黄金の口の端は、少しだけ上がっていた。
*
四月二十七日、日曜日。
黒板に『本日の担当は、陽華です。』と書いた。陽華の名前だけ、少し大きく。
人出は、昨日よりさらに増えた。陽華の「今日から友達である!」は、昼までに何度響いたかわからない。
六時に、店にいたお客さんを見送った。まかないのあと、流しで茶碗を洗っていると、シャツの裾が引かれた。
翠が、流しの横のコップを見ていた。木曜の朝に摘んだ、ミントの二枚が挿してある。
「……ちよばあ。……これ、みてた」
木曜の夕方のことだ。ちよばあはこのコップを見て、「上の、ふたつだけ」と繰り返した。カウンターの陰から、翠の双葉もそれを見ていた。
「……翠。……のんで、ほしい」
「ちよばあに?」
「……みんとの、おちゃ」
翠は、自分の言葉を確かめるように、小さくうなずいた。
明日は月曜日で、店は休みだ。
「じゃあ、明日練習しよう。それから、ちよばあの家にも行ってみるか」
双葉が、ぴこっと跳ねた。
*
四月二十八日、月曜日。
朝の菜園で、翠はミントの茂みに顔を寄せた。
「……いっぽんから、うえの、ふたつ。……ほかのも、おなじ、って」
五本の茎から、上の二枚ずつを摘んだ。手のひらに、十枚の若い葉が重なる。涼しい匂いが、朝の空気に溶けていった。
厨房に戻って、やかんを火にかけた。
ミントティーの淹れ方を、俺は知らない。祖父が淹れていたのかどうかも。だから今日は、翠のやり方でやってみることにした。
棚から急須を出す。四月一日の朝に、まほろさんがほうじ茶を淹れた急須だ。その横に、湯呑みを二つ並べた。
やかんが、しゅんしゅんと鳴りはじめた。
「先に、湯呑みを温めるんだ。まほろさんが、そうしてた」
翠はうなずいて、湯呑みに湯を張った。温まったところで、流しに捨てる。
それから、十枚の葉を一枚ずつ急須に落とした。そっと、並べるように。
沸いた湯を注ぐ。とぽぽ、と小さな音がして、葉が湯の中でゆらりと浮かんだ。
ふたをして、スマホのタイマーを三分に合わせる。翠は、画面の数字をまばたきもせずに見つめていた。
ふたを取ると、湯気と一緒にミントの匂いが上がった。ただ、摘んだときほど強くはない。
翠が、急須を両手で傾けた。湯呑みに落ちたのは、ほとんど色のない淡い黄緑だった。
ひと口、飲んでみる。
匂いはする。でも、舌の上を通るのは、ほとんど湯の味だった。香りだけが、あとから鼻の奥を追いかけてくる。
翠も湯呑みを両手で包んで、ひと口すすった。
「……おゆ」
双葉が、しゅんと垂れた。
「……ちよばあに、だすの。……これじゃ、だめ」
三月三十一日の夜に淹れた、まずいコーヒーを思い出した。あれに比べれば、ずっとましだ。けれど、翠が出したいのは「まし」な一杯ではない。
急須の底をのぞくと、十枚の葉は、摘んだときの形のまま沈んでいた。どれも、きれいなままだ。
「翠。葉っぱ、一度も揉まなかったな」
「……うん」
「ハーブはな、手のひらで軽く叩くと、香りが出やすくなるんだ。料理で使うときは、そうする」
翠は、自分の手のひらをじっと見た。それから、首を横に振った。
「……いたい、かも」
それが、翠だった。摘むときも、根元の葉には触れない。急須に入れるときも、一枚ずつ並べた。
「じゃあ、ミントに聞いてみるか」
「……いまは、おひさま。……あした、あさ、きく」
翠は、急須の中の葉を指でそっとなでた。
*
昼すぎに、坂を上った。
しばらく歩いたところで、翠が足を止めた。すん、と小さく鼻が鳴る。
「……こっち」
ちよばあの家は、本当にすぐそこだった。低い垣根の向こうに、黄色い花がのぞいている。門の脇には、『綾瀬』と書かれた古い表札がかかっていた。
庭では、ちよばあがじょうろで水をやっていた。
「おや。来てくれたのかい」
翠は、俺の背中にぴったりくっついていた。けれど、双葉だけは庭のほうを向いている。
「菜の花を見に来たんだね、翠ちゃん」
ちよばあが、垣根の戸を開けてくれた。
小さな庭だった。菜の花が、庭の半分を黄色く染めている。その足元で、名前のわからない草がいくつも葉を広げていた。
翠が、俺の背中から離れた。
ゆっくりと菜の花の前まで行って、しゃがみこむ。土に顔を近づけたまま、しばらく動かなかった。
「……ひさしぶり、って」
翠が、ぽつりと言った。
「……翠、はじめて、なのに」
双葉が、ふるふると揺れている。翠は振り返って、俺を見た。
「……この子たち、翠のこと、しってる」
ちよばあは、じょうろを持ったまま翠の背中を見ていた。じょうろの先から落ちる水が、いつのまにか止まっていた。
「そうかい」
ちよばあは、それだけ言った。何も聞かなかった。木曜日に、陽華の角を見たときと同じだった。
翠は、菜の花の葉に指先を当てた。何度か小さくうなずいてから、ちよばあのほうに向き直る。
「……ちよばあ」
「うん」
「……おちゃ。……れんしゅう、してる」
「お茶かい」
「……できたら。……のんで」
ちよばあは、目尻の皺を深くした。
「楽しみに、待ってるよ」
帰り道、翠は一度も俺の背中に隠れなかった。シャツの裾を握ったまま、隣を歩いた。
*
四月二十九日、火曜日。昭和の日。
黒板に『本日の担当は、焔です。』と書き終えたところで、翠が勝手口から戻ってきた。手のひらに、ミントの葉が十枚載っている。
「……かるく、なら。……いいって」
「店を閉めたら、もう一回やろう」
双葉が、ぴこっと跳ねた。
十時に戸を開けると、テツさんが立っていた。
「おう。約束だからな」
テツさんは郵便受けから朝刊を抜いて、カウンターの端の丸椅子に腰を下ろした。祝日の坂を、今朝も見慣れない顔が上がってくる。
棚から、大きなガラス瓶を下ろした。昨日の四時半に焔が焼いて、ひと晩寝かせた豆だ。
十五グラムを量り、ミルに移す。
ごり、ごり、ごり。
焦がした砂糖の匂いが、カウンターに広がった。
温度計が八十八度を指すのを待って、粉の真ん中にひと筋落とす。寝かせた豆は、湯を吸うとこんもりと丸く膨らんだ。三十秒、蒸らす。それから「の」の字を三度描いて、八分目でドリッパーを外した。
黒に近い焦げ茶の縁が、白いカップの中でうっすらと赤く透けている。
テツさんは湯気を吸いこんでから、ひと口飲んだ。
喉が、ごくりと動いた。
「……ああ。これで、また一週間、沖に出られる」
それから、ポケットを探って、カウンターに百円玉を四枚並べた。
「毎度おおきに〜!」
黄金が百円玉をさらって、レジがチーンと鳴った。
テツさんは、厨房の奥に目をやった。厨房の入口から、赤い頭がのぞいている。
「焔ちゃんの焼きか」
「……ちゃん付けすんな」
焔は腕を組んだまま、そっぽを向いた。それから、ぼそりと付け足した。
「……鯛、うまかった」
テツさんが、声を上げて笑った。
「おう。来週の火曜も、頼むわ」
焔のしっぽの先に、小さな火がぽっと灯った。
流しの横では、翠の摘んだ十枚の葉が、水を張ったボウルに浮かんでいた。




