第四章 木曜日のミントティー(4)
四月二十九日、火曜日。昭和の日。
店を閉めたのは、六時を少し過ぎた頃だった。
ガラス戸の外は、まだ明るい。祝日の坂を、見慣れない顔がゆっくりと下りていく。
戸を閉めて振り返ると、翠がもう厨房の入口に立っていた。裾を折り返したエプロンの胸元を、両手で握っている。
流しの横のボウルには、朝に摘んだ十枚の葉が浮かんでいる。
やかんを火にかけると、店のほうから雫がのぞいた。
「まあ。翠ちゃん、何をなさいますの」
「……おちゃ。……ちよばあに、だすの」
雫は、それ以上は聞かなかった。流しの向かいに立って、両手を胸の前で重ねた。
棚から急須を出して、湯呑みを三つ並べた。雫のぶんも入れて、三つだ。
やかんが、しゅんしゅんと鳴りはじめる。翠が湯呑みに湯を張り、温まったところで流しに捨てた。昨日と同じ手順だ。
違うのは、ここからだった。
翠はボウルから葉を一枚すくって、左の手のひらに載せた。水気を、指先でそっと払う。それから右の手のひらを、上からかぶせるように下ろした。
ぽん。
小さな音だった。拍手を一回、途中でやめたような音。
その瞬間、匂いが立った。
摘んだときより、ずっと強い。鼻の奥を通りぬけて、頭のてっぺんまでまっすぐに抜けていく。閉めきった部屋の窓を、いっぺんに開けたような匂いだった。
「……わ」
翠が、自分の手のひらを見つめた。
「痛くないか」
翠は、勝手口の窓のほうをちらりと見た。
「……かるく、だから。……だいじょうぶ」
ぽん。ぽん。一枚ずつ、同じ強さで。十枚を叩き終える頃には、厨房じゅうがミントの匂いで満ちていた。
叩いた葉は、縁が少しだけ濃い緑に変わっていた。翠はそれを、昨日と同じように一枚ずつ急須に並べた。
沸いた湯を注ぐ。とぽぽ、と小さな音がした。
ふたをして、スマホのタイマーを三分に合わせる。三分が、昨日よりも長く感じた。
ふたを取ると、湯気と一緒に匂いが上がった。今度は、摘んだときに負けていない。翠が急須を傾けると、三つの湯呑みに落ちたのは、昨日よりひと刷毛ぶん濃い黄緑だった。
ひと口、含む。
香りが、最初から舌の上に広がった。昨日のように、あとから追いかけてはこない。
そこまでは、よかった。
飲みこんだあとで、喉の奥に青い苦みが引っかかった。草の茎を噛んだときのような、ざらりとした苦さだ。
翠も、湯呑みを両手で包んでひと口すすった。
双葉が、跳ねかけて、垂れかけて、途中で止まった。
「……におい、する。……でも、にがい」
雫は湯呑みを目の高さまで持ち上げて、しばらく湯気を眺めていた。それから、ほんの少しだけ口に含んだ。
「まあ……」
湯呑みを置いて、急須のふたに指先をそっと当てる。
「お湯が、少し強すぎるのかもしれませんわ」
「強すぎる?」
「沸きたてのお湯は、元気がよすぎますの。香りと一緒に、葉っぱが言いたくないことまで、みんな引き出してしまいますのよ」
翠が、雫を見上げた。
「……しずねえ。……わかるの」
「お湯のことでしたら、少しだけ」
雫は、はにかむように笑った。
「なんや、ええ匂いしとる思たら」
厨房の入口から、黄金がのぞいていた。鼻をひくひくさせて、急須に目を留める。
「その葉っぱ、裏の畑のか? ほな、元手は湯代だけやんか」
「売らないぞ」
「わかっとるわ。……言うてみただけや」
*
四月三十日、水曜日。
開店前の黒板に、チョークで一行書いた。
『本日の担当は、雫です。』
雫が銅のポットを胸に抱えて、自分の名前を見上げた。
「雫。今日、何かしたいことはあるか」
雫は、少し考えるように首を傾げた。それから、カウンターの陰にしゃがんでいる翠のほうを見た。
「わたくしのことより、翠ちゃんのことですわ」
雫はポットを抱えたまま、翠の前にしゃがんだ。
「翠ちゃん。明日、わたくしのポットをお使いくださいまし」
双葉が、ぴくりと立った。
「……しずねえの。……だいじな、の」
「ええ。だいじな子ですから、お貸ししたいのですわ」
雫は、ポットの胴をそっとなでた。
「ちょうどいいお湯は、わたくしが用意いたします。翠ちゃんは、葉っぱのことだけを考えてくださいまし」
翠は、ポットと雫の顔を順番に見た。
「……うん。……あした」
シュウッ、と、雫の腕の中でポットが小さく鳴った。
「まあ」
雫が、ふたの上に慌てて手をかぶせた。
*
連休の合間の平日で、坂を上がってくる見慣れない顔は昨日より少なかった。
十二時半を少し過ぎた頃、カラン、とドアベルが鳴った。紺のスーツに、首から下げた社員証。
「ノノムラ! また来たのだな!」
陽華の声に小さく会釈して、野々村さんはカウンターの真ん中の丸椅子に座った。
「ブレンドを、お願いします」
「はい。野々村さま」
雫が、ポットを抱えたまま答えた。名前で呼ぶのは、初めてだった。野々村さんが、少しだけ目を丸くした。
棚の大きなガラス瓶から、昨日の四時半に焔が焼いた豆を出す。十五グラムを量って、ミルに移した。
ごり、ごり、ごり。
焦がした砂糖の匂いが、カウンターに広がる。
フィルターに湯を通して、カップの湯を捨てる。雫の持つポットの温度計は、八十八度で止まったまま動かない。雫がポットを傾けて、粉の真ん中にひと筋落とすと、寝かせた豆がこんもりと丸く膨らんだ。三十秒待って、「の」の字を三度。細い湯の筋は、最後まで揺れなかった。
八分目でドリッパーを外す。カウンターの陰から、翠の手が温めたカップを差し出した。白いカップの中で、焦げ茶が静かに揺れた。
野々村さんは湯気を吸いこんでから、ひと口飲んだ。
肩が、すとんと下がった。
「……うん」
それだけ言って、今度はゆっくりと二口目を飲んだ。スマホは、上着のポケットにしまったままだった。
飲み終えると、野々村さんは財布から百円玉を四枚出して、カウンターに並べた。迷う手つきは、もうなかった。
「ごちそうさまでした」
「毎度おおきに、野々村はん」
黄金が百円玉をさらって、レジがチーンと鳴った。
「……また、水曜日に」
戸口で振り返って、野々村さんはそう言った。
雫の足元で、ぽたりと小さな水の音がした。エプロンの裾から、水色のしっぽの先がのぞいていた。
*
六時。店にいたお客さんを戸口まで見送って顔を上げると、坂の途中に、見覚えのある小柄な人影があった。
ちよばあだった。今日も鉛筆を動かして、この店を描いている。
シャツの裾が、くいと引かれた。翠が俺の背中から、坂のほうを見ている。すん、と小さく鼻が鳴った。
それから――翠の指が、裾から離れた。
翠は、ひとりで戸口を出た。坂の上へ、一歩ずつ。エプロンの裾が、小さく揺れていた。
ちよばあが、鉛筆を止めた。
「おや。翠ちゃん」
翠はちよばあの前で立ち止まって、エプロンの胸元を両手で握った。
「……あした」
「うん」
「……おみせ、きて」
ちよばあは、すぐには答えなかった。翠の顔を、じっと見下ろしていた。
「明日だね」
それから、ゆっくりとうなずいた。
「行くよ。翠ちゃんが呼んでくれたんだから」
双葉が、ぴこっと跳ねた。
俺も戸口を出て、坂を少しだけ上がった。
「ちよばあ。よかったら、裏の菜園も見ていきませんか。祖父が耕してた畝なんです」
「いいのかい。……それじゃあ、少しだけ」
店の中を通って、裏庭へ向かった。陽華がテーブルを拭く手を止めて大きく手を振り、雫がカウンターの中で頭を下げた。黄金は、レジの前で帳簿から顔を上げた。ちよばあは、ひとりずつに目尻の皺を深くしてみせた。
厨房の入口で、まほろさんが小さく頭を下げた。ちよばあも、同じだけ頭を下げた。どちらも、何も言わなかった。
勝手口を出ると、裏庭は西日の色をしていた。
古い木の根元から、黒い土の畝が並んでいる。畝の端ではミントの茂みが、隣の畝では菜の花が、傾いた光を受けていた。
ちよばあは、畝のあいだをゆっくりと歩いた。杖が、柔らかい土に小さく沈む。
古い木の前で、ちよばあは足を止めた。見上げたまま、長いこと動かなかった。
「宗一郎さん、ちゃんと守ってたのね」
小さな声だった。俺に言ったのではない気がした。
何を、とは聞かなかった。ちよばあは、何も聞かない人だ。だから、俺も聞かなかった。
振り返ると、翠がミントの茂みの前にしゃがんでいた。
ちよばあを木の前に残して、畝のあいだを戻る。翠のそばまで来たとき、小さな声が聞こえた。
「……あした、よろしく」
ミントの葉に、額がつきそうなくらい顔を寄せていた。木の前のちよばあには、届かない声だった。
翠は、しばらくそのまま待っていた。それから、俺を見上げた。
「……いいよ、って」
夕方の風が、畝の上を渡っていった。双葉が、ミントの葉と同じ向きに揺れた。
ちよばあを店の戸口まで送って、杖の音が坂の上に消えるまで見ていた。
戸を閉めると、カウンターの上で、銅のポットがシュウッと小さく鳴った。




