第四章 木曜日のミントティー(5)
五月一日、木曜日。
勝手口を開けると、裏庭の土には、まだ夜の湿り気が残っていた。
翠は、もうミントの茂みの前にしゃがんでいた。昨日の夕方と同じ場所だった。
「……きょう、よろしく」
葉に顔を寄せて、しばらく待つ。それから、翠は小さくうなずいた。
茎を一本ずつ確かめながら、いちばん上の二枚だけを摘んでいく。五本目を摘み終えると、小さな手のひらに十枚がそろった。
店に戻って、黒板の前に立った。祖父の字の下に、今朝の名前を書き入れる。
『本日の担当は、翠です。』
「翠。今日、何かしたいことはあるか」
翠はエプロンの裾を折り返す手を止めて、黒板を見上げた。
「……いらっしゃいませ。……いう」
「そうか」
それだけ答えた。双葉が、ぴこっと跳ねた。
*
十時の少し前に、雫がやかんを火にかけた。
沸いた湯を銅のポットに移すと、雫はポットを胸の前で抱えて目を閉じた。温度計の針が、ゆっくりと下がっていく。八十八度を過ぎても、止まらない。もう少し下がったところで、針はぴたりと動かなくなった。
「少し、休ませたお湯でございますわ」
雫は、ポットをカウンターの上に置いた。
「どうぞ。今日は、翠ちゃんの子ですわ」
翠は、ポットの取っ手にそっと触れた。急須と湯呑みは、朝のうちに厨房から運んである。十枚の葉は、ボウルの水に浮かんでいた。
十時に戸の鍵を開けると、ほどなくして、カラン、とドアベルが鳴った。
ガラス戸を押して入ってきたのは、杖をついた小柄な人だった。絵の具と古い紙の匂いが、ひと足先に店に届いた。
「い――」
ホールから駆け寄りかけた陽華が、途中で口を閉じた。
カウンターの陰から、双葉が一本、ゆっくりと伸びあがった。双葉の下から若草色のおかっぱが、それから翠の顔が、カウンターの上に出てきた。両手で縁をつかんで、つま先で立っている。
翠が、息を吸った。
「……いらっしゃい、ませ」
小さな声だった。けれど、店にいる誰もがそれを聞いていた。レジの前で、黄金の万年筆が止まった。雫は、両手を胸の前で重ねていた。
ちよばあは戸口に立ったまま、翠を見ていた。
「来たよ」
ひと言だけだった。
カラン。
誰も戸に触れていないのに、ドアベルが鳴った。カラン、カランカラン。陽華は両手で口を押さえていた。それでも、ベルは鳴りやまなかった。
「チヨ! また来たのだな!」
*
ちよばあは、この前と同じ丸椅子に腰を下ろした。カウンターの端から、ひとつ内側の席だ。
翠が湯呑みに湯を張った。温まったところで、湯を捨てる。
ボウルから葉を一枚すくって、左の手のひらに載せる。水気を払って、右の手のひらを重ねた。
ぽん。
匂いが、カウンターを越えていった。ちよばあが、ほんの少しだけ顔を上げた。
ぽん。ぽん。十枚ぶんの音が、開店したばかりの店に、ひとつずつ置かれていく。
急須に一枚ずつ並べ終えると、翠は雫のポットを両手で持ち上げた。細い注ぎ口から、湯がひと筋落ちる。
とぽぽ。
練習のときと同じ音のはずなのに、今日は少しだけ低く、やわらかく聞こえた。
ふたをして、三分。スマホの数字が進むあいだ、誰も喋らなかった。翠はふたの上に目を落としたまま、双葉ひとつ動かさなかった。
ふたを取ると、湯気と一緒に匂いが立った。朝の菜園の空気を、そのまま汲んできたような匂いだった。
翠が急須を傾けた。湯呑みに落ちたのは、若葉を日に透かしたような、澄んだ黄緑だった。三つの湯呑みに、少しずつ注ぎ分けていく。
翠はひとつめの湯呑みを両手で運んで、ちよばあの前に置いた。
「……どうぞ」
ちよばあは湯呑みを両手で包んだ。湯気を、ゆっくりと吸いこむ。それから、ひと口。
カウンターをはさんで、湯呑みひとつぶんの距離に、ちよばあと翠がいた。翠はつま先で立ったまま、縁から目だけをのぞかせている。ちよばあは目を閉じて、湯呑みを口もとで止めていた。
店の中で動いているのは、湯気だけだった。
ちよばあが、目を開けた。
「おいしいよ」
湯呑みの中を見下ろして、もうひと言だけ足した。
「上の、ふたつだね」
「……うん」
双葉が、小さく揺れた。
ちよばあはそれ以上何も言わずに、二口目を、一口目よりゆっくりと飲んだ。
翠が、残った湯呑みのひとつを雫に差し出した。雫はひと口含んで、そっと目を細めた。
「……今日は、葉っぱが言いたいことだけを、お話ししておりますわ」
翠も、自分の湯呑みをすすった。
双葉は、途中で止まらなかった。まっすぐに、跳ねた。
シュウッ、と、カウンターの上でポットが小さく鳴った。
*
飲み終えたちよばあが、湯呑みを置いた。
「お代は、いくらだい」
「翠のお茶は、メニューに載ってないんです」
ちよばあは、黒板のほうをちらりと見た。祖父の『本日のブレンド 深煎り』と、その下の『本日の担当は、翠です。』。
「そうかい」
戸口まで送ると、翠がカウンターの端をくぐって、俺の隣に並んだ。背中には隠れなかった。
「またね、翠ちゃん」
カラン、とドアベルが鳴って、杖の音が坂を上がっていった。
レジの前に戻ると、黄金が帳簿に万年筆を走らせていた。
『ミントティー 一杯 お代なし』
「売らないぞ、って言ったよな」
「売ってへんよ。書いとるだけや」
黄金は、インクが乾くのを待ってから帳簿を閉じた。
「お代もろてへんもんほど、ちゃんと書いとかなあかんねん」
*
閉店のあと、戸に鍵をかけて振り返ると、翠が棚の下に立っていた。
見上げているのは、木彫りの茶葉入れだった。
「……さく。……あれ」
腕をのばして、下ろしてやる。思っていたより軽い。ふたを開けると、中は空っぽだった。
翠は茶葉入れを胸に抱えて、厨房に入っていった。流しの横のコップの前で、足を止める。
四月二十四日に摘んだ、ミントの二枚。ちよばあが見ていた二枚だ。一週間挿したままの葉は、縁が少しくたびれていた。
翠はそれをコップから抜いて、エプロンの端で水気をそっと拭いた。それから、茶葉入れの底に並べて置いた。
「……おぼえて、おく」
ふたが、ことりと閉まった。
翠の腕の中で、茶葉入れが若草色に、かすかに灯った。
灯りは、すぐに消えた。翠はそれに気づいたのかどうか、黙って茶葉入れを俺に差し出した。
棚の上に戻すと、翠はしばらくそれを見上げていた。
『一杯のコーヒーは、一人ぶんの居場所だ』
祖父のノートの一行を、思い出した。一杯のお茶も、たぶん同じだ。
(第四章・了)




