第五章 日曜日は、今日から友達である(1)
五月十八日、日曜日。
五月一日から、半月あまりが過ぎた。
連休の後半は、四月の終わりよりもさらに人が来た。坂の下から上がってくるのは見慣れない顔ばかりで、ブレンドは淹れても淹れても追いつかなかった。陽華は戸口に立ちっぱなしで、ドアベルは開店から閉店まで鳴っていた。
五月六日の振替休日には、テツさんがいつもの端の丸椅子に座った。焔は厨房の入口から、テツさんがひと口目を飲むところだけを見届けて、焙煎室に引っこんだ。
野々村さんは、水曜日ごとに来た。七日も十四日も、カウンターの真ん中の丸椅子で雫のブレンドを飲み、四百円を置いていった。
御影さんも、一度だけ検査に来た。ブレンドの代金をきっちり払い、まほろさんの試作のシフォンケーキを「検査の一環です」と言って二切れ食べ、バインダーに何か書きこんで帰っていった。
四月のお駄賃が出たのも、この半月のうちのことだ。
連休が明けた頃、黄金が四月の帳簿を締めた。まかないのあとでそろばんを長いこと弾き、最後に万年筆で一行書きこんでから、顔を上げた。
「……黒字や。ちょびっとだけな」
「月末って話じゃなかったか」
「連休で、締めるひまがあらへんかったんや。遅うなったぶん、ちゃんと出すで」
黄金はレジの引き出しから五百円玉を出して、ひとつずつテーブルに並べた。
「ひとり、五百円。ほんまにちょびっとやで」
陽華は五百円玉を両手で挟んで、「余のお駄賃である!」と頭の上に掲げた。焔は「……もらっとく」とだけ言って、エプロンのポケットにしまった。翠は手のひらに載せたまま、しばらく眺めていた。
「朧姉のは、あとで持ってく」
黄金は一枚だけ脇によけてから、最後の一枚を自分のがま口に入れた。ぱちん、と口金が鳴った。
「店長はんのぶんは、あらへんで」
「わかってる」
「店長はんは、店長はんやからな」
何がどうなってそうなるのかは、よくわからなかった。
*
今朝も、階段を下りる前から焙煎の匂いがした。
焔は四時半から火の前にいたはずだ。今日出す豆は昨日焼いたもので、キャニスターの中で、ちょうど息が落ち着いている頃だった。
黒板の前に立って、祖父の字の下にチョークを当てた。
『本日の担当は、陽華です。』
名前の二文字だけは、チョークを少し太く、大きく運んだ。
「サク!」
書き終えたところで、階段のほうから声がした。
陽華が、二階から駆け下りてくるところだった。橙の糸で名前を縫いとったエプロンを、もう着けている。ポニーテールが、一段ごとに跳ねた。
「陽華。今日、何かしたいことはあるか」
「ある!」
陽華は黒板の前で足を止めた。自分の名前を見上げてから、俺に向き直る。
「サク、余のオムライスにケチャップで『王』と書くのだ。……大きくだぞ? 端までだぞ?」
「……オムライス」
「うむ。今夜のまかないである」
「なんで『王』なんだ」
「余は、王であるからな!」
カラン、とドアベルが鳴った。戸は閉まったままだった。
陽華は胸を張って、にかっと笑った。髪のあいだから、角の先が少しだけのぞいていた。
*
厨房の冷蔵庫を開けて、中をのぞきこんだ。
ケチャップは、ない。鶏肉も、玉ねぎもない。卵も、全員ぶんのオムライスを包むには、とても足りなかった。
「黄金。開店前に、買い物を頼めるか」
レジの前でそろばんを弾いていた黄金が、顔を上げた。
「ええで。何買うん」
「鶏肉と、玉ねぎと、卵と、ケチャップ」
「……オムライスやな」
黄金は、黒板のほうをちらりと見た。聞こえていたらしい。
「余も行くのだ!」
「陽華は、開店の支度。今日の担当だろ」
「……むう。そうであった」
陽華は口をとがらせたが、すぐに戸口のほうへ走っていった。
財布から千円札を三枚出して、黄金に渡した。結局、荷物持ちとして俺もついていくことになった。九時を少し回った頃、黄金と並んで潮見坂を下りた。
*
日曜の朝の坂の下のスーパーは、まだ空いていた。
黄金は、精肉の棚の前で足を止めた。鶏もも肉のパックを手に取っては裏返し、値札と重さの数字を見比べて、また戻す。三つ目で、ようやくかごに入れた。
「こっちのほうが、グラムあたり安いねん」
玉ねぎは、ネットに入った一袋。卵は、十個入りを二パック。卵の棚の前で、黄金が小さく眉を寄せた。
「……卵、また高なったなあ」
ケチャップの棚では、黄金は迷わず大きいほうのボトルを取った。
「大きいほうが、得や」
「そんなに使うか?」
「王の字、端まで書くんやろ」
言い返せなかった。
レジで、黄金は千円札を三枚出して、おつりを一枚ずつ数えてから受け取った。それから、レシートと一緒に、俺の手のひらに載せた。
「はい、店長はん。おつりとレシート」
レシートは、きちんと四つにたたんであった。
「帳簿には、あとでつけとくさかいな」
*
両手の袋が、指に食いこむ。同じ坂なのに、上りのほうがずっと長く感じた。
振り返ると、坂の下に海が見えた。日曜の朝の光が、波の上で細かく跳ねていた。
店に戻ったのは、十時の少し前だった。
買ってきたものを冷蔵庫にしまってから、戸の前に立った。十時に鍵を開けると、待ちかねていたように、陽華が敷居の上に飛び出した。
坂の上にも下にも、日曜の人出があった。子ども連れの家族。自転車を押して上がってくる中学生。犬を連れたおじいさん。
陽華は、ひと組ずつに声をかけた。
「いらっしゃいませなのだ! む、初めての顔だな? 今日から友達である!」
カラン、カランカラン。
そのうちに、見覚えのある顔が坂を上がってきた。近所の奥さん二人連れだった。
「覚えたのだ!」
陽華が、ぱっと顔を輝かせた。
「あら、覚えててくれたの」
「うむ! また会えて、嬉しいのだ!」
奥さんたちは笑いながら、テーブル席に座った。
カウンターの内側では、ブレンドの支度が始まっていた。まほろさんは厨房にいる。翠はカウンターの陰にしゃがんで、温めたカップを一つずつ差し出してくる。縁の向こうで、双葉がときどき揺れて見えた。
ミルを回す音の合間にも、戸口から陽華の声とドアベルが途切れずに聞こえてきた。
一杯目を淹れ終えて顔を上げると、陽華がこちらを振り返っていた。
「サク!」
「なんだ」
「今夜は『王』だぞ。忘れるでないぞ」
「忘れないよ。ケチャップ、大きいほうを買ってきたから」
陽華は満足そうにうなずいて、また戸口に向き直った。
「いらっしゃいませなのだ!」
昼が近づくにつれて、ドアベルはますますよく鳴った。




