第五章 日曜日は、今日から友達である(2)
ボーン、と振り子時計が鳴りはじめた。
ひとつ、ふたつと数えているうちに、ミルの音にまぎれてわからなくなった。たぶん、十二回。昼になったのだ。
テーブル席は、奥さん二人連れと、初めての顔のお客さんとで、二つまで埋まっていた。カウンターの丸椅子も、六つのうち四つがふさがっている。
一杯淹れるのに、およそ四分。ドリッパーから顔を上げるたびに、待っている顔が増えていた。
温めたカップが、またひとつ、カウンターの陰から上がってきた。翠だ。受け取ると、指先にぬくもりが移った。
淹れ終えたカップは、雫がテーブル席へ運んでいく。ソーサーを両手で持って、一歩ずつ、ゆっくりと。急いだときにどうなるかは、本人がいちばんよく知っている。
レジの前では、黄金がお代を受け取るたびに、チーンとレジを鳴らしていた。
*
カラン、カランカラン。
戸口で、ひときわ大きくドアベルが鳴った。
「おお!」
陽華の声が、店の奥まで弾んできた。
「そなた、エイプリルフールの者だな! 待っておったぞ!」
顔を上げると、坂を上がってきたおじいさんが、戸口で笑っていた。四月一日に、ゴミ袋を提げて店の前を通った人。店を開け直した四月八日に、家族を連れて来てくれた人。源さんだ。
今日は、かみさんと、小さな孫を連れていた。
「エイプリルフールの、はひどいなあ」
源さんは頭をかいて、それから陽華の頭の上を見た。王冠のような角が、にょきりと出ている。その後ろでは、しっぽがぶんぶんと揺れていた。
「今日も、演出かい」
「うむ! 演出である!」
「しっぽも、充電ばっちりだねえ」
陽華は得意げに、しっぽをもうひと振りした。
源さんたちは、最後に空いていたテーブル席に座った。孫がすぐに椅子の上で膝立ちになって、カウンターのほうをのぞきこんだ。視線の先で、翠の双葉がぴこりと揺れている。
「……はっぱ」
孫が、小さな声で言った。
双葉が、カウンターの縁の向こうに少しだけ引っこんだ。それでも、すっかり隠れはしなかった。
*
振り子時計が、半の音をひとつ鳴らした頃だった。
戸口のほうから、聞き慣れない調子の声がした。
「はい、着きましたー。ここです、ここ。例の、角の店員さんがいるっていう喫茶店」
二十代くらいの男の人が、二人。ひとりは、スマホを取りつけた細い棒を顔の前に高く掲げていた。もうひとりも、手の中のスマホを店のほうへ向けている。話しかけている相手は、どうやら画面の向こうにいるらしかった。
「む! 初めての顔だな? 今日から友達である!」
陽華は、いつもと同じに二人を迎えた。
「うわ、ほんとに角ある。しゃべり方やば。え、これキャラ設定?」
「きゃら、ではない。余は余である!」
「撮っていい?」
「撮るのか! よいぞ、存分に撮るがよい!」
陽華が胸を張ると、カラン、とドアベルが鳴った。棒の先のスマホが、角のまわりをぐるりと回った。
二人は、カウンターに残っていた二つの丸椅子に並んで座った。
「ブレンド、二つで」
「はい。少し、お待たせします」
湯を注ぎはじめても、棒は下りなかった。画面の向こうの誰かに向かって、二人は声を張りつづけた。
「コメント、『本物?』って来てますね。どうなんでしょうねー。あ、奥のお客さんも映っちゃってますけど、まあいっか」
棒の先が、テーブル席のほうを向いた。奥さん二人連れのひとりが、カップを持ったまま顔をそむけた。
ポットを置いて、声をかけた。
「すみません。ほかのお客さんもいらっしゃるので、撮影はご遠慮いただけますか」
「あ、店長さん? 大丈夫っす、あとでなんとかするんで」
「宣伝になるんすよ、これ。むしろ感謝してほしいくらいで」
もうひとりが笑った。棒は、下りなかった。
そのとき、棒の先がふいに下を向いた。
「え、待って。カウンターの下、なんかいる」
温めたカップを差し出そうとしていた翠の手が、縁のところで止まった。
「子ども? 隠れてんの? てか、頭に葉っぱ生えてんだけど」
棒が、カウンターの内側へ伸びてきた。スマホの黒いレンズが、しゃがんでいる翠の真上に下りていく。
「ねえねえ、顔見せて。『いらっしゃいませ』って言ってみてよ。みんな見てるからさ」
翠の口が、小さく開いた。
声は、出なかった。
唇だけが何かの形に動いて、そのまま止まった。店じゅうの目が、いつのまにかこちらに集まっていた。テーブル席の奥さんたちも、源さんたちも、カウンターのお客さんたちも。
五月一日には、言えた言葉だった。開けたばかりの店で、ちよばあに向かってなら。
「え、しゃべんないんだけど。人形?」
「コメント、『かわいそう』と『やらせ』で割れてまーす」
二人が、声を揃えて笑った。
双葉が、しゅんと垂れた。
カウンターの陰で、小さな手が俺のエプロンの裾をつかんだ。震えているのが、布越しに伝わってきた。
「ちょっと、あなたたち」
テーブル席で、奥さんのひとりが腰を浮かせた。
棒の先が、くるりとそちらを向いた。
「うわ、おばさん怒ってます。こわー」
奥さんの顔が、こわばったまま止まった。源さんのかみさんが、黙って孫を膝に抱き寄せた。テーブル席の脇では、雫が運びかけのカップを持ったまま「まあ……」と立ちつくしていた。その足元の床が、じわりと濡れはじめていた。
裾をつかむ手をそっと握り返してから、俺は翠の前に立った。レンズとのあいだに、体を入れる。
「やめてください」
自分の声が、思っていたより低く出た。
「は? なに、こわ。……てか今の、使えるな」
レンズが、今度は俺の顔を映した。
店の中から、音がひとつ消えた。
さっきまであれほど鳴っていた戸口のベルが、揺れもせずに下がっていた。
敷居の上から、陽華が下りてきた。小さな足音が、一歩ずつ、カウンターのほうへ近づいてくる。
角は、まだ出たままだった。しっぽの先も、淡く光っている。
「そなたら」
いつもの、弾むような声だった。
少なくとも、そのひと言までは。




