第五章 日曜日は、今日から友達である(3)
次の声は、低かった。
「そなたらは、この店で、してはならぬことをした」
大きな声ではなかった。戸口で坂に向かって張っていた声より、ずっと小さい。それなのに、店のすみずみまで、ひと文字も欠けずに届いた。
陽華は、配信者の二人から三歩ほど手前で足を止めていた。
角は出たままだった。しっぽの先も、淡く光ったままだ。けれど、そのしっぽはもう揺れていなかった。
金色の目は、棒の先のレンズを見ていなかった。その向こうにある二つの顔を、まっすぐに見ていた。
「断りもなく、余の客を撮った。余の妹を、笑いものにした」
陽華の声なら、毎日聞いている。朝の「ある!」も、戸口の「いらっしゃいませなのだ!」も。
こんな声は、知らなかった。
「……え、なに」
棒を掲げたほうが、口の端を上げた。笑おうとしたのだと思う。うまくいっていなかった。
隣でスマホを構えていたほうが、自分の画面に目を落とした。親指が止まった。
「……待って。角、映ってなくね?」
「は?」
「いや、映ってはいるんだけど。角のとこだけ、なんか、ぼやけてて」
棒のほうが、棒を手元に引き寄せた。画面をのぞきこみ、指でさかのぼっていく。戸口で陽華を撮ったところまで。
「さっきのも……え、全部?」
「コメント、『映ってない』『ぼやけてる』『加工じゃん』って……」
読み上げる声が、途中でしぼんだ。
陽華は、何も答えなかった。
ただ、一歩だけ前に出た。
それだけで、棒のほうの肩が跳ねた。掲げていた棒が、ゆっくりと下がっていく。先のスマホが、カウンターの縁にこつんと当たった。
誰も、何も言わなかった。壁の振り子時計の振り子だけが、同じ幅で揺れていた。
先に頭を下げたのは、スマホを手に持っていたほうだった。
「……すんません」
棒のほうも、つられるように首を折った。
「……すんませんでした」
陽華は、下がった二つの頭をしばらく黙って見ていた。
「――頭を上げよ」
声は、静かなままだった。
「この店の客に手を出す者は、神であろうと余が許さぬ」
厨房の奥で、ゴウン、と焙煎機が一度だけ回った。
二人が、おそるおそる顔を上げた。
「配信を、切るがよい」
「……はい」
二人はそれぞれの画面に指を当てた。画面が暗くなるところまで、陽華は目を離さなかった。
「それから、撮ったものを消してゆけ。余の客と、スイが映っておるものをだ」
俺は翠の前に立ったまま、口を開いた。
「消すところを、見せてもらえますか」
棒のほうがうなずいて、スマホの画面をこちらに向けた。
今日撮った映像が、小さく並んでいた。いちばん上は、戸口の陽華だ。顔もポニーテールも、エプロンの橙の糸までくっきりしている。それなのに、頭の上と腰のあたりだけが、湯気の向こうのように白くにじんでいた。
その下に、テーブル席の奥さんたちの顔があった。カウンターの陰にしゃがむ翠の双葉も、レンズを見返す俺の顔も。どれも、はっきりと映っていた。
「サクの顔もだ」
陽華が言った。
指が、映像をひとつずつ選んでいく。消すたびに、画面から一枚ずつなくなっていった。スマホを手に持っていたほうも、同じようにして画面を俺に見せた。
「……これで、全部っす」
「うむ」
陽華は、そこでようやく二人から目を離した。
角が、髪のあいだへゆっくりと引っこんでいった。
「ブレンドは、飲んでゆくか」
二人は顔を見合わせた。棒のほうが棒を縮めて、カウンターに伏せて置いた。
「……いただきます」
*
注文を受けたまま、まだ出していないブレンドが二杯あった。
エプロンの裾が、ふっと軽くなった。振り返らなくても、翠が手を離したのがわかった。
やかんの湯を銅のポットに移し、針が八十八度まで下がるのを待つ。ドリッパーとカップに湯を通して温め、粉に最初の湯を落とした。
粉がふくらむのを待つあいだに、テーブル席のほうで雫がようやく動いた。運びかけのカップを、ソーサーごと両手で持ち直す。初めての顔のお客さんの前に、静かに置いた。
「……お待たせいたしました」
足元の床は、まだ少し濡れていた。
三十秒。「の」の字で三度、湯を重ねる。八分目でドリッパーを外し、二つのカップを配信者の前に置いた。
「お待たせしました」
二人は、伏せたスマホには触らずにカップを持ち上げた。スマホを手に持っていたほうが、ひと口飲んで眉を寄せた。
「……最初、苦いっすね」
それから、もうひと口飲んだ。
「……あと、なんか、甘い」
飲み終えると、二人はレジの前に立った。黄金は何も言わずに、八百円を受け取った。
チーン、とレジが鳴った。
陽華は、戸口まで二人を見送った。
「次は、撮らずに来るがよい」
二人は小さく頭を下げて、坂を下りていった。戸が閉まった。
テーブル席で腰を浮かせかけていた奥さんが、ゆっくりと座り直した。源さんのかみさんは、膝に抱いた孫の背中を、ぽん、ぽんと叩いていた。
「……ありがとね」
奥さんのひとりが、陽華に言った。
「うむ!」
陽華は、いつもの顔でにかっと笑った。
ドアベルは、揺れもしなかった。
*
店の中に、少しずつ話し声が戻ってきた。
陽華がカウンターをくぐって、内側に入ってきた。翠の隣にしゃがむ。客席からは、もう二つの頭のてっぺんしか見えない。
「スイ」
翠は膝を抱えたまま、顔を上げなかった。双葉は垂れたままだった。
「よう、こらえたな」
陽華は、それだけ言った。
双葉が、少しだけ持ち上がった。跳ねはしなかった。それでも、さっきよりは上を向いていた。
入口のドアベルが、ひとつだけ、小さくカランと鳴った。
戸は、閉まったままだった。
「……ひばねえ」
翠が、小さな声で呼んだ。
そのとき、テーブル席のほうで源さんの孫が椅子から下りようとして、かみさんに抱きとめられた。客席の目が、そちらに集まった。
ぽん、と小さな音がした。
陽華がしゃがんでいたところに、橙色の光がひとかたまり、ころんと転がっていた。
光が、少しずつ落ち着いていく。中から出てきたのは、手のひらに載るくらいの丸いひよこだった。橙色の産毛が、ふわふわと淡く光っている。頭のてっぺんには、王冠のような小さなでっぱりが二つある。短いしっぽの先も、同じ色に灯っていた。
ひよこが、ぱちりと金色の目を開けた。
「……む」
ずいぶん小さくなっていたが、陽華の声だった。
「力を、使いすぎたのだ」
「……陽華、だよな」
「余である。ひと晩眠れば、戻る」
翠が、両手でそっとすくい上げた。レジの前では、黄金が丸眼鏡の奥で目を丸くしていた。
客席を振り返った。こちらを見ている人は、ひとりもいなかった。
*
それからの戸口には、雫が立った。
「いらっしゃいませ。どうぞ、お入りくださいまし」
雫は、坂に向かって声を張りはしなかった。その代わり、ひと組ずつ深く頭を下げて迎えた。テーブル席へ運ぶのも雫で、ソーサーを両手で持って、急がずに回った。会計は、黄金のままだった。
陽華は、俺のエプロンの胸ポケットに入った。縁から、橙色の丸い頭だけがのぞいている。ときどき、産毛が淡く光った。
三時を過ぎた頃、カウンターでブレンドを待っていた初めての顔の女の人が、首を傾げた。
「あの。胸のところの、ひよこ……?」
「……本日の、担当です」
女の人は入口の黒板を振り返って、それから、もう一度俺の胸を見た。
ポケットの中で、陽華がもぞりと動いた。
ぴい、と小さく鳴いた。
鳴いたのか、鳴いてみせたのかは、わからなかった。
*
六時が近づくと、店にいたお客さんがひと組ずつ帰っていった。雫が戸を開けるたびに、ドアベルがカランと鳴った。
窓の外は、まだ明るかった。
「サク」
胸のポケットから、小さな声がした。
「なんだ」
「……余が小さくなっても、字は大きくだぞ」
「わかってる。端までな」
陽華は、それきり黙った。
胸のポケットが、ほんのりと温かかった。




