第五章 日曜日は、今日から友達である(4)
振り子時計が、ボーン、と六つ打ち終えたとき、店にはもうお客さんは残っていなかった。
雫が戸を閉め、俺が鍵をかけた。ガラスの向こうの坂は、夕方の光で、まだ白っぽく明るかった。
レジの前で、黄金が引き出しを閉めた。丸眼鏡を押し上げて、俺の胸のあたりをじっと見る。
「……ほんまに、ヒバ姉なんやな」
ポケットの縁から、陽華の橙色の頭がのぞいた。
「そう申したであろう」
「申したけどな。ひよこやもん」
黄金はそれだけ言って、帳簿を開いた。万年筆の先が、しばらく紙の上で止まっていた。
*
「朔ちゃん、お疲れさまぁ」
まほろさんが、身をかがめて厨房の入口をくぐってきた。こちらへ歩いてきて、俺の胸の前で足を止める。
細い目が、ほんの少しだけ開いた。
「あらあら」
まほろさんは大きな体を折って、ポケットをのぞきこんだ。
「陽華ちゃん、ずいぶん小さくなっちゃったのねぇ」
「マホ。……少しばかり、張りきったのだ」
「そう。今夜は、ぐっすり眠らなきゃねぇ」
まほろさんはそれ以上聞かずに、人差し指の先で、橙色の頭をそっと撫でた。
焙煎室の扉が開く音がした。
厨房の奥から出てきた焔は、まほろさんの背中越しにこちらを見て、眉を寄せた。
「……なんだ、それ」
「余である」
焔は黙った。しばらく、ポケットの中のひよこを見下ろしていた。
「……姉貴かよ」
ポケットの中で、陽華が胸を張ったように見えた。産毛がふくらんだだけかもしれない。
「で。飯は」
「オムライスである。サクが、『王』と書くのだ」
焔は、俺の顔を見た。
「……さっさと作れ」
そう言って、先にテーブルのほうへ歩いていった。
*
翠は、カウンターの陰にしゃがんだままだった。
午後のあいだ、翠はそこから一度も出てこなかった。温めたカップだけが、いつもどおりに差し出されてきた。
隣にしゃがむと、翠が小さな声で言った。
「……さく」
「うん」
「……こえ、でなかった」
双葉が、少し下を向いた。
「……うん。でも、翠は逃げなかった」
翠が顔を上げた。しばらく俺の顔を見て、それから、こくりとうなずいた。
双葉が、ゆっくりと起き上がった。昼に陽華が声をかけたときよりも、もう少しだけ高く。
「料理のあいだ、陽華を頼めるか」
翠は両手を、器のようにそろえて差し出した。ポケットから陽華をすくい出して、その上に載せる。胸のあたりが、急に涼しくなった。
陽華は翠の手のひらの上で、丸くなった。
*
米びつの米を五合量って研ぎ、祖父の古い炊飯器のスイッチを入れた。
炊けるのを待つあいだに、玉ねぎをみじん切りにする。とん、とん、と刻むうちに、目の奥がつんとした。鶏もも肉は、皮ごと小さな角に切る。
勝手口の窓の外が、少しずつ暗くなっていった。いつのまにか、日が沈んでいた。
炊飯器が炊きあがりを知らせると、カレーのときの鍋に油をひいて、鶏肉を入れた。じゅうっ、と脂がはねる。色が変わったところで玉ねぎを加え、透きとおるまで炒めた。炊きたてのご飯を移して、大きいボトルのケチャップをぐるりと絞る。
鍋肌でケチャップがふつふつと煮えて、甘酸っぱい匂いが厨房いっぱいに広がった。箸で切るように返すたびに、白いご飯が赤く染まっていく。
塩をひとつまみ振って、火を止めた。
ここからは、一枚ずつだ。
ボウルに卵を二つ割り、塩をほんの少し。箸で白身を切るように溶く。小さな丸いフライパンに油をなじませて卵を流しこむと、しゅわっと音を立てて、縁から固まりはじめた。大きく混ぜて、表面がまだ半分ほど揺れているうちに、真ん中へチキンライスを載せる。フライパンを傾けて卵を寄せ、白い皿にかぶせるように返した。
山吹色の、ころんとした楕円が、皿の真ん中に収まった。薄い卵の膜の下から、湯気が細く逃げていく。
同じことを、あと六回くりかえした。焼けたそばから、まほろさんがテーブルへ運んでいった。
*
いつものように、テーブルをふたつくっつけた。
翠が、皿の横に陽華をそっと下ろした。皿は、ほかのみんなと同じ一人前だ。ひよこの陽華には、皿の縁が塀のように高かった。
俺はケチャップのボトルを持って、陽華の皿の前に立った。
まず上に、横の一本。卵の左の端から、右の端まで。
その下に、もう一本。
縦に一本。上から下まで、まっすぐに。
最後に、いちばん下の一本を長く引いた。
どの線も卵からはみ出して、白い皿の縁まで届いた。
皿いっぱいの、赤い『王』。
その横で、橙色のひよこが首をいっぱいに反らして、字を見上げていた。字のほうが、陽華よりずっと大きかった。
「……うむ」
小さな声だった。
「端まで、であるな」
鍵のかかった戸の上で、ドアベルがカランと鳴った。
翠の双葉が、ぴこっと跳ねた。
「まあ……。ご立派ですわ」
雫が、胸の前で両手を合わせた。
「いただきます」
俺が手を合わせると、みんなが続いた。
陽華は皿の縁に小さな足をかけて、卵の端をつついた。ひと口ぶんが、米粒ほどしかない。
「字は、最後である」
そう言って、また端をつつく。
「そのペースやと、朝になってまうで」
黄金がスプーンを止めて言った。まほろさんが、くすくすと笑った。
*
天井の上で、床がひとつ鳴った。
少しして、朧さんが階段を下りてきた。テーブルの上を見て、それから皿の横のひよこに目を留める。
驚いた顔は、しなかった。
「……小さくなったのね、陽華」
「うむ。今夜の余は、これである」
朧さんは、ほんのわずかに目を細めた。何があったのかは、聞かなかった。
「朧さんのぶん、今から焼くよ」
「急がなくていいわ。焼きたてがいいもの」
厨房に戻って、八枚目の卵を焼いた。皿を運んでいくと、朧さんは陽華の皿の『王』を見ていた。
「朧さんのにも、何か書こうか」
「いいえ。……いちばん大きいのは、陽華のだけのほうがいいんじゃないかしら」
*
陽華の皿は、ほとんど減っていなかった。
卵の端が、小鳥につつかれたように少し欠けているだけだ。『王』の字は、四本ともそっくり残っていた。
「……もう、入らぬ」
陽華が、皿の縁からそっと足を下ろした。
隣で、焔が自分の皿を空にしたところだった。焔は黙って、陽華の皿を引き寄せた。
「残すくらいなら、アタシが食う。食いもん、無駄にすんな」
焔は、字のないところから食べていった。スプーンが、赤い線をよけて進む。『王』の四本は、最後まで皿の上に残っていた。
最後に、焔はそれをひとすくいにして、口に入れた。
「……ごちそうさん」
陽華は、空になった皿を長いこと見ていた。
*
片付けが終わると、まほろさんが翠と雫を連れて二階へ上がっていった。翠は階段の途中で一度振り返って、テーブルの上の陽華を見た。
黄金も帳簿を抱えて引きあげていき、焔は何も言わずに厨房の奥へ消えた。
テーブルには、朧さんの皿だけが残っていた。朧さんは店の灯りの下で、それを少しずつ口に運んでいた。
陽華は、その皿のそばで丸くなっていた。産毛の光が、昼よりも弱い。
「……サク」
「ん」
「今朝、余は、王であると申したな」
「ああ。聞いた」
陽華は、しばらく黙っていた。
「……余はもう、王ではないのにな」
小さな声だった。今朝、胸を張ったときの声とは、別のもののようだった。
どうして、とは聞かなかった。聞いてはいけないことのような気がした。
朧さんがスプーンを置いた。何も言わずに、手のひらを上にして、テーブルの上に差し出した。
陽華は少しだけ迷ってから、その上に乗った。
「眠りなさい、陽華。朝まで、私が起きてるから」
「……うむ」
陽華は、朧さんの手のひらの上で目を閉じた。
朧さんは、ただ陽華を見下ろしていた。その目が何を知っているのか、俺にはわからなかった。
王ではない、と陽華は言った。
それでも今日、あの二人の前に立ったのは陽華だった。翠の隣にしゃがんで「よう、こらえたな」と言ったのも。
次の日曜も、黒板の陽華の名前は、少し太く書こうと思った。
朧さんの手のひらの上で、橙色の産毛が、寝息のたびにほのかに灯っていた。
(第五章・了)




