第六章 月曜日の夜喫茶(1)
五月十九日、月曜日。
目覚ましより早く目が覚めた。
窓の外は、まだ薄青い。枕元のスマホは、五時を少し過ぎたところだった。
昨夜、店のテーブルに残してきたものが、ずっと気になっていたのだと思う。
正確には、残してきたのではない。預けてきたのだ。
*
階段を下りると、店の灯りは消えていた。
窓から入る朝の光で、テーブルの輪郭がぼんやりと浮かんでいる。昨夜、最後まで残っていた朧さんの皿は、もうなかった。厨房をのぞくと、水切りかごに、洗った皿が一枚とスプーンが一本だけ立てかけてあった。
朧さんは、もう屋根裏に上がったあとらしい。
そして、そのテーブルの椅子に――
「おお、サク!」
陽華が、あぐらをかいて座っていた。
手のひらに載る大きさではない。いつもの陽華だ。橙色の髪はほどけて背中に広がり、片側だけ寝ぐせで跳ねている。
「戻ったのだ!」
「……ああ。おかえり」
ほかに言うことが思いつかなかった。
陽華は「うむ」とうなずいて、それから腹に手を当てた。
「して、サク。腹が減ったのだ」
「……第一声が、それか」
「昨夜は米粒ほどしか入らなかったのだぞ。余の腹は今、空っぽである」
ぐう、と陽華の腹が鳴った。ずいぶん素直な音だった。
陽華は、昨夜のことを何も言わなかった。俺のほうからも、何も言わなかった。
陽華はほどけた髪を両手でまとめて、いつものポニーテールに結い直した。
結び終えた頭の上で、ドアベルが一度だけ、カランと鳴った。
*
月曜は、店の定休日だ。
朝ごはんのあと、陽華は二階へ駆け上がっていった。天井越しに「スイ! 余は戻ったぞ!」という声が聞こえ、少しして、ぱたぱたと小さな足音が重なった。
黒板は、朝のうちは書かなかった。
月曜の担当は、朧さんだ。けれど朧さんは、昼のあいだは屋根裏で眠っている。いつもの「今日、何かしたいことはあるか」も、日が暮れるまで聞けない。
*
昼すぎ、ひとりで坂の下のスーパーへ行った。
何を買うかは決めていなかった。棚のあいだを歩きながら、昨夜の朧さんのことを考えていた。
みんなが引きあげたあとも、店の灯りの下で、朧さんは自分の皿を少しずつ食べていた。焼きたてがいい、と言って、下りてきてから焼いたオムライスだ。
夜に起きる人にとって、あれは夕飯だったのか。それとも、朝ごはんだったのか。
どちらにしても、起き抜けにケチャップの濃い味は、少し重かったかもしれない。
乾物の棚の前で、足が止まった。
祖父の厨房には、たしか、だしになりそうなものは置いていなかった。昆布を一袋と、かつお節の小袋をかごに入れた。それから卵を一パックと、三つ葉を一束。
雑炊にしよう、と思った。夜中に食べても、腹にもたれない。
代金は、自分の財布から出した。
*
帰ってから、鍋に水を張って、昆布を沈めた。
乾いた昆布は黒くて硬く、表面に白い粉を吹いている。うま味の粉だから拭き取らない、と、どこかで読んだことがある。
「……サク。それは何の儀式だ」
陽華が、厨房の入口から鍋をのぞきこんでいた。
「儀式じゃない。だしを取るんだ。夕方まで、このまま置いとく」
「置いておくだけか?」
「置いとくだけ」
陽華は、鍋の底の昆布をしばらく真剣に見つめていた。
「……昆布も、寝るのだな」
妙に納得した顔で、陽華は店のほうへ戻っていった。
*
夕方、鍋を弱火にかけた。
水を吸った昆布は、昼の倍ほどに広がって、つやのある深い緑になっていた。鍋の底から、小さな泡がひとつ、ふたつと上がってくる。
鍋の縁が、ふつふつと鳴りはじめた。煮立つ前に、菜箸で昆布を引き上げる。煮立たせると、ぬめりと磯くさい匂いが出てしまう。
火を強めて、湯がひと息に沸いたところへ、かつお節をひとつかみ落とした。
薄い花びらのような削り節が、湯の上でふわりと広がり、ゆっくりと沈んでいく。火を止めて、そのまま少し待った。
香りが変わった。昆布の、浜辺のような静かな匂いの上に、かつお節の香ばしい匂いが重なる。湯気を吸いこむだけで、腹の底があたたかくなる匂いだった。
ざるに布巾を敷いて、鍋の中身をこす。落ちていくのは、澄んだ薄い金色だ。布巾は絞らない。絞ると、えぐみが出る。
小皿にひと口ぶん取って、すすった。
薄い。けれど、あとからゆっくりと来る。舌の上に広がって、喉を通ったあとも、しばらく口の中に残った。
「……よし」
勝手口の窓の外で、裏庭が西日の色をしていた。
その色が、少しずつ褪せていく。古い木の影が長く伸びて、やがて庭の暗がりに溶けた。
日が沈んだ。
*
振り子時計が、ボーン、と七つ打った。
少しして、天井の上で床がひとつ鳴った。
足音はほとんどしなかった。階段のきしむ音だけが、一段ずつ下りてくる。
「……いい匂いね」
厨房の入口に、朧さんが立っていた。
銀色の長い髪が、廊下の暗がりの中で、そこだけ淡く光って見えた。紫紺の目は、コンロの鍋に向いている。
「だしを取ったんだ。あとで雑炊にしようと思って。朧さんの、朝ごはん……になるのかな。夜だけど」
「朝ごはんよ。私にとっては」
朧さんは、かすかに笑った。それから、店のほうへ目をやった。
「陽華は?」
「戻ったよ。朝から腹が減ったって、うるさかった」
「そう」
短い返事だった。けれど紫紺の目が、ほんの少しやわらいだのが、俺にもわかった。
聞くなら、今だと思った。
「朧さん。今日、何かしたいことはあるか」
朧さんは、すぐには答えなかった。
厨房の入口から、店の中をゆっくりと見回す。カウンター。丸椅子。振り子時計。それから、壁に掛かった古い写真。
「……お店を、開けてもいいかしら」
「今から?」
「八時から。十二時まで」
夜のあいだだけ、と朧さんは小さく付け足した。
「月曜のお昼は、お休みでしょう。だから、夜だけ」
どうして夜なのかは、言わなかった。夜にしか起きていられないから、というだけではない気がした。
「いいよ。開けよう」
*
夕飯のあとで、みんなに話した。
「夜も開けるんか」
黄金が丸眼鏡を押し上げた。そろばんを弾いていた指が、途中で止まる。
「……夜は炭も焚かへんし、灯りだけやな。ブレンド一杯、四百円」
「弾くとこ、そこか」
「大事なとこやろ」
黄金は五百円玉を一枚、朧さんの前に置いた。
「朧姉。これ、四月のぶん。遅なったけど」
朧さんは五百円玉をしばらく眺めてから、紫紺の糸のエプロンのポケットにしまった。
陽華は「余も起きておるのだ!」と言った。けれど朧さんに「陽華は、寝なさい」と言われると、少し黙ってから「……うむ」とうなずいた。
まほろさんが、陽華と翠と雫を連れて二階へ上がっていった。焔は、いつのまにか厨房の奥へ消えていた。
*
八時の少し前に、入口の黒板の前に立った。
祖父の字の『本日のブレンド 深煎り』の下に、チョークを当てる。
『本日の担当は、朧です。』
書いてから少し迷って、もう一行足した。
『月曜の夜だけ、八時から十二時まで。』
朧さんは、書き足した一行を黙って見ていた。
「灯りは、ひとつでいいわ」
言われたとおりに、店の灯りをひとつだけ残して、あとは消した。
店が、急に狭くなったような気がした。灯りの届くところだけが、ぽっかりと明るい。
振り子時計が、ボーン、と八つ打った。
俺は、戸の鍵を開けた。
*
誰も来なかった。
坂を上がってくる足音はない。ガラス戸の外には、街灯の明かりがところどころに落ちているだけだ。
朧さんはカウンターの端の丸椅子に座って、振り子時計を見ていた。
「来ないかもしれないな」
「来なくても、いいの」
朧さんは、時計から目を離さずに言った。
「開いてるってことが、大事なのよ」
振り子が、コチ、コチと揺れていた。
九時を打って、少ししたときだった。
坂のほうから、足音が聞こえた。
重たい足取りだった。一度止まって、また動き出して、店の前でもう一度止まる。
ガラス戸の向こうに、人影が立っていた。
制服の女の子だった。紺のブレザーに、背中が丸くなるほど重そうなリュック。片手に、付箋だらけの単語帳を握っている。
女の子は、入口の黒板を見ていた。たぶん、書き足した一行のほうを。
戸が、そっと押し開けられた。
カラン、とドアベルが鳴った。
「……あの」
かすれた声だった。
「ここ、開いてるんですか」
答えたのは、俺ではなかった。
「ええ」
灯りの下で、朧さんが丸椅子から立ち上がった。
「いらっしゃい。……月曜の夜だけ、開いてるの」
女の子は戸口で少し迷ってから、一歩だけ、中に入った。




