第六章 月曜日の夜喫茶(2)
戸口から三歩ほど入ったところで、女の子はまた足を止めた。
ひとつだけの灯りに照らされたカウンター。その外側に沈んでいる暗がり。壁の振り子時計。店の中をひとつずつ確かめるように見てから、女の子は、カウンターの内側にいる俺に目を留めた。
「どうぞ。お好きな席に」
少し迷ってから、女の子はカウンターを選んだ。端の丸椅子のそばには朧さんが立っていたから、そこから、ふたつ内側。灯りのいちばん明るいところだった。
重そうなリュックを足元に下ろして、女の子は小さく息を吐いた。付箋だらけの単語帳は、まだ手に握ったままだった。
朧さんが、端の丸椅子に腰を戻した。ひとつ空けた隣から、女の子の横顔を静かに見ている。
「何になさいますか」
「……あの。表の、ブレンドを。おいくらですか」
「四百円です」
女の子はこくりとうなずいた。それから、朧さんのほうをそっと見た。銀の髪が、灯りを受けて淡く光っている。
「お名前、聞いてもいいかしら」
女の子は、単語帳を膝の上に置いた。
「春日です。春日、ひより。……高校三年で、家は、この坂の下なんです」
「ひより」
朧さんは、その名前をひとつ確かめるように口にした。
「私は、朧。そっちは、朔。このお店の店主よ」
「久遠です」
俺がそう言うと、春日さんは座ったまま「よろしくお願いします」と頭を下げた。
*
棚から、キャニスターを下ろした。昨日の朝に焔が焼いた豆だ。
十五グラムを量って、祖父の木のミルに移す。ハンドルを回すと、ごり、ごり、と豆の砕ける音が、静かな店に響いた。春日さんが、単語帳から顔を上げた。
やかんで沸かした湯を銅のポットに移して、温度計を差す。針が、ゆっくりと下りていく。八十八度。
粉の真ん中に、細く湯を落とした。粉がふっくらと持ち上がり、甘く香ばしい匂いが、灯りの輪の中に広がっていく。
三十秒待ってから、「の」の字を描いて、三度に分けて注いだ。
ソーサーに載せて、春日さんの前に置く。
「どうぞ」
春日さんは両手でカップを包んで、ふうっと一度だけ息を吹きかけてから、口をつけた。
「……にがい」
言ってから、はっとしたように顔を上げた。
「あっ、ちがうんです。まずいって意味じゃなくて」
「大丈夫です。最初に苦いのが、このブレンドなので」
春日さんは、もう一口飲んだ。今度は、すぐには何も言わなかった。
「……でも、あとから、ちょっと甘いかも」
そう言って、ほんの少しだけ口の端をゆるめた。店に入ってきてから、初めて見る顔だった。
*
振り子が、コチ、コチと揺れていた。
春日さんは、膝の上の単語帳を指でなぞっていた。表紙の角が、すっかり丸くなっている。
「……塾の、帰りなんです」
誰に聞かれたわけでもなく、春日さんは言った。
「今日、模試の結果が返ってきて。あんまり、よくなくて。……まっすぐ帰る気に、なれなかったんですけど」
声が、また少しかすれた。
「坂を上がってきたら、ここだけ、灯りがついてて」
俺は、何も聞かなかった。どこの塾なのか。どれくらい悪かったのか。聞けばこの子は、きっと、ちゃんと答えてしまう。
「帰りたくない夜も、あるわ」
朧さんは、それだけ言った。春日さんはカップの中を見つめたまま、小さくうなずいた。
ボーン、と振り子時計がひとつ鳴った。九時半だ。
「朧さん。そろそろ、作ろうか」
「ええ」
春日さんが、不思議そうに俺たちを見比べた。
「朧さんの、まかないなんです。……春日さん、夕飯は」
「塾の前に、おにぎりをひとつ」
「なら、一人ぶん多く作ります」
「えっ。でも、わたし」
「食べていきなさい」
朧さんが、静かに言った。
「夜のおなかは、正直なのよ」
春日さんは何か言いかけて、やめて、それから「……はい」と小さく答えた。
*
厨房の灯りをつけた。
炊飯器には、夕飯に炊いたご飯がまだ残っていた。茶碗に軽く一杯ずつ、朧さんと春日さんのぶんをざるに取る。蛇口の水をかけながら、指の腹でそっとほぐした。白く濁った水が、ざるの目から落ちていく。ぬめりを落としておくと、雑炊はさらりと仕上がる。
夕方に取っただしを片手鍋に注いで、中火にかけた。
鍋の縁に、細かい泡が並びはじめる。塩をひとつまみ。醤油を、ほんの数滴。醤油がだしに落ちたとたん、香りの角がひとつ立ち上がって、すぐにやわらかくなじんだ。
小皿に取って、すする。少し物足りないくらいのところで、手を止めた。卵が入れば、ちょうどよくなる。
水を切ったご飯を、鍋に移した。
ふつふつ、とだしが鳴る。白い米粒が、鍋の中でほどけるように泳ぎだした。ひと煮立ちさせるあいだに、ボウルに卵を二つ割り入れる。菜箸で白身を切るように、泡を立てずに溶いた。
二階で、ことり、と小さな音がした。誰かが寝返りを打ったのかもしれない。それきり、また静かになった。
菜箸に伝わせて、溶き卵を細く垂らしていく。鍋の縁から、真ん中へ。ぐるりと、ひと回り。
黄色い筋が、だしの中でゆるりとほどけながら、米粒のあいだへ沈んでいった。
ふたをして、火を止めた。
待つあいだに、三つ葉の根元を落として、指の幅ほどに刻む。とん、とん、と包丁が鳴るたびに、青く澄んだ匂いがまな板から立ちのぼった。
一分。
ふたを取った。
閉じこめられていた湯気が、ふわりとほどけて顔を包んだ。だしと卵の、やさしい匂い。卵は余熱で半分だけ固まり、とろりとした黄色が、白い米粒をやわらかく抱いていた。
その上に、刻んだ三つ葉を散らした。
白と淡い黄色の真ん中で、ひとつまみの緑が、目を覚ましたように色を濃くした。
茶碗を二つ出して、よそった。
*
カウンターに戻って、朧さんと春日さんの前に、茶碗とスプーンを置いた。
春日さんは茶碗をのぞきこんで、しばらく動かなかった。湯気が、灯りの中をゆっくりと昇っていく。
「……いただきます」
スプーンで少しすくって、息を吹きかけて、口に運んだ。
春日さんの手が、止まった。
「……あったかい、です」
それだけ言って、二口目をすくった。三口目は、さっきより少し早かった。膝の上の単語帳は、いつのまにかリュックの上に移されていた。
朧さんは茶碗を両手で持ち上げて、まず湯気を吸いこんだ。それからスプーンですくって、ひと口、食べた。
スプーンが、宙で止まった。
朧さんは、茶碗の中を見下ろしていた。紫紺の目が、灯りの下で、ほんの少しだけ揺れたように見えた。
「……この味」
小さな声だった。
その先を、朧さんは言わなかった。何に似ているのか、と口に出しかけて、俺はやめた。朧さんが、またゆっくりとスプーンを動かしはじめたからだ。
ひと口ずつ、時間をかけて。遠いところにある何かを、確かめるように。
*
茶碗が空になると、春日さんは慌てたように財布を出した。
「あの。お会計を。……雑炊のぶんも」
「雑炊は、まかないのついでですから。ブレンドの四百円だけで大丈夫です」
「でも」
「ついでなので」
春日さんは少し困った顔をしてから、千円札を一枚、カウンターに置いた。
レジの引き出しを開けると、チーン、と鳴った。おつりの六百円を、春日さんの手のひらに載せる。
カウンターの内側には、黄金の帳簿が置いてあった。今夜の会計は、俺の役目だ。厨房のペンで、今日の日付の下に書いた。
『ブレンド 一杯』
少し考えてから、もう一行。
『まかない 一人ぶん』
黄金の几帳面な字の下で、俺の字はやっぱり下手だった。
春日さんが、カウンター越しにそれを見ていた。
「……お代、もらわないのに、書くんですか」
「もらわないぶんほど、ちゃんと書くんだそうです。うちの経理が、そう言うので」
春日さんは、帳簿の二行をしばらく見ていた。
*
振り子時計を見上げると、針は十時の少し手前を指していた。
「十時までには、帰ろうか」
春日さんも時計を見上げて、「あ」と小さく声を上げた。リュックを背負い直して、戸口まで歩いていく。そこで、振り返った。
「……また、来てもいいですか」
答えたのは、朧さんだった。
「月曜の夜なら、いつでも」
春日さんは、ぺこりと頭を下げた。俺が戸を開けると、カラン、とドアベルが鳴った。
「気をつけて」
「はい。……ごちそうさまでした」
重いリュックの背中が、坂を下りていく。街灯の明かりの下に入って、暗がりに出て、また次の明かりの下に入る。坂の途中で一度だけ振り返って、小さく頭を下げたのが見えた。
その背中が見えなくなるまで、俺は戸口に立っていた。
*
店に戻ると、朧さんはカウンターの端の丸椅子で、空になった茶碗を前に置いたまま、時計の文字盤を見上げていた。
何を思っているのかは、わからなかった。俺も、聞かなかった。
それきり誰も来ないまま、振り子時計が十二時を打ち終えるのを待って、俺は戸に鍵をかけた。
振り返ると、朧さんはまだ、ひとつだけの灯りの下で、振り子の揺れるのを見つめていた。




