第六章 月曜日の夜喫茶(3)
五月二十六日、月曜日。
それからの一週間は、思っていたより早く過ぎた。昼の店は毎日いつもどおりに開いて、いつもどおりに閉まった。
階段が小さくきしんで、朧さんが屋根裏から下りてきた。先週の月曜と、同じように。
八時の少し前に、入口の黒板の前に立った。先週と同じ二行を、同じ場所に書く。
『本日の担当は、朧です。』
『月曜の夜だけ、八時から十二時まで。』
店に戻って、灯りをひとつだけ残して、あとは消した。今夜は、言われる前にやった。
カウンターの端の丸椅子から、朧さんがそれを見ていた。何も言わなかった。ただ、紫紺の目がほんの少しだけ細くなった。
振り子時計が八つ打ち終えるのを待って、戸の鍵を開けた。
*
しばらくは、誰も来なかった。
俺はカウンターの内側で、拭く必要のないカップを、ひとつずつ布巾で拭いた。手を動かしていないと、戸のほうばかり見てしまいそうだった。
振り子が、コチ、コチと揺れている。朧さんは、先週と同じように時計を見ていた。待っているのかどうかは、横顔からはわからなかった。
九時まであと十分ほどになった頃、坂の下から足音が上がってきた。
先週よりも、少しだけ速い足音だった。店の前で止まる。今度は、黒板の前で立ち止まる間がなかった。
戸が押し開けられて、カラン、とドアベルが鳴った。
紺のブレザーと、先週と同じ重そうなリュック。春日さんは戸口で一度だけ息を整えると、挨拶より先に言った。
「お母さんに、言ってきました。十時までなら、いいって」
俺は壁の振り子時計を見上げた。十時まで、一時間と少し。
「わかりました。十時の少し前に、声をかけますね」
「はい。……お願いします」
「来たのね」
端の丸椅子から朧さんが言うと、春日さんは小さく頭を下げた。
「月曜は、塾の日なので。その帰りに」
春日さんは、端からふたつ内側の丸椅子に座った。先週と同じ席だ。リュックを足元に下ろして、カウンター越しに俺を見る。
「……あの」
言ってから、春日さんは自分で小さく首を振った。
「わたし、先週から、あの、あの、ってそればっかりで。……なんてお呼びしたらいいのか、ずっと迷ってたんですけど」
視線が、カウンターの上をさまよった。祖父のミル、銅のポット、棚に並んだカップ。それから、顔が上がった。
「マスター、って呼んでもいいですか」
「……マスター」
思わず、そのまま繰り返してしまった。背中のあたりが、妙にむずがゆくなった。
「……だめ、ですか」
「いえ。……ただ、慣れるまで、少しかかるかもしれません」
端の丸椅子で、朧さんが指先を口もとに当てた。肩が、ほんのかすかに揺れている。笑っているのだと、それでわかった。
「じゃあ、ブレンドを、お願いします。……マスター」
さっそく、だった。
春日さんは自分の財布を開けて、百円玉をカウンターに並べた。一枚、二枚、三枚、四枚。
「今日は、ぴったりあるので。先に」
四枚を受け取って、レジの引き出しを開けた。チーン、という音が、静かな店に思ったより大きく響いた。
帳簿は、先週と同じようにカウンターの内側に置いてあった。厨房のペンで、一行だけ書き足す。
『ブレンド 一杯』
今夜は、それで全部だ。
*
棚からキャニスターを下ろした。中の豆は、昨日の朝に焔が焼いたものだ。蓋を開けると、ひと晩寝かせた豆の、落ち着いた匂いがした。
十五グラムを量って、祖父の木のミルで挽く。ごり、ごり、という音に、振り子の音が重なった。やかんの湯を銅のポットに移して、温度計の針が八十八度まで下がるのを待つ。三十秒の蒸らし。それから「の」の字で、三度に分けて注いだ。
ソーサーに載せて、春日さんの前に置いた。
「お待たせしました」
春日さんは両手でカップを包んで、ひと口飲んだ。
今度は、何も言わなかった。少し間をおいて、ふた口目。カップを置いたとき、肩の力がひとつ抜けたように見えた。
ボーン、と振り子時計が鳴りはじめた。
九つ打ち終わるまで、春日さんは黙って時計のほうを見ていた。それからリュックを開けて、付箋だらけの単語帳を取り出した。ページをめくり、声を出さずに唇だけを動かしはじめる。
しばらく、朧さんはその横顔を見ていた。
「声に出しても、いいのよ」
「えっ。……うるさく、ないですか」
「夜は、少しくらい声があるほうがいいわ」
春日さんは少し迷ってから、ページに目を落とした。小さな声だった。
「……ありがたし。めったにない。めずらしい」
「ありがたし」
朧さんが、その言葉をゆっくりとなぞった。
「古い言葉ね」
「古文なんです。今の『ありがとう』の、もとになった言葉で。……昔は、めったにない、って意味だったらしいんですけど」
朧さんは、カウンターの木目に目を落とした。
「めったにないことだから、ありがとう、って言うのかしら」
春日さんは、単語帳を持ったまま、しばらく黙っていた。
「……そうかも」
それから、ぱっと顔を上げて、カウンター越しに俺を見た。
「あっ。マスター、先週の雑炊。……ちゃんとお礼、言えてなかったので。ありがとうございました」
「いえ。口に合ったなら、よかったです」
春日さんは小さくうなずいて、単語帳に目を戻した。唇の端が、少しだけ持ち上がっていた。
*
それからしばらく、店には春日さんの小さな声と、振り子の音だけがあった。
朧さんは、ときどき単語をひとつ聞き返した。ときどき、意味をたずねた。春日さんはそのたびにページの上で指を止めて、答えた。答えられなかった単語には、付箋が一枚増えた。
俺はカウンターの内側でポットを拭きながら、時計の針を見ていた。
九時半の鐘がひとつ鳴った。春日さんは、気づかないようだった。
そこから先の針は、思っていたより速く進んだ。長い針が、文字盤のてっぺんに近づいていく。
「春日さん。もうすぐ、十時です」
「あっ」
春日さんは時計を見上げて、慌てて単語帳を閉じた。リュックにしまい、背負い直す。戸口まで歩いたところで、振り返った。
「……来週も、月曜なので」
「開けておくわ」
答えたのは、朧さんだった。春日さんは、ぺこりと頭を下げた。
俺が戸を開けると、カラン、とドアベルが鳴った。
「おやすみなさい」
「おやすみなさい、マスター。……朧さんも」
坂を下りていくリュックは、上がってきたときと同じくらい重たそうだった。けれど足取りは、一度も止まらなかった。まっすぐに、坂の下のほうへ小さくなっていく。
その背中が夜の暗がりに溶けるまで、俺は戸口に立っていた。
戸を閉めて、カウンターに戻ったところで、振り子時計が鳴りはじめた。
ボーン、ボーン、と、ひとつずつ十を数えていく。
最後の音が消えると、店には、俺と朧さんだけが残った。
朧さんは端の丸椅子に座ったまま、春日さんのいなくなった席を見ていた。空のカップが、灯りの下に置かれたままになっている。
俺は、それを下げるのを、もう少しだけ待つことにした。




