第六章 月曜日の夜喫茶(4)
春日さんのカップを、ソーサーごと下げた。
底には、ほんのひとしずくしか残っていなかった。飲み終えてからも単語帳をめくっていたから、とうに冷めていたはずだ。それでも、最後まで飲んでいったのだ。
流しで湯を出して、スポンジでカップの内側をなぞる。縁の近くにうっすら残っていた茶色い輪が、指の下で消えていった。すすいで、水切りかごに伏せる。ソーサーも、その隣に立てかけた。
布巾で手を拭いてから、もう一度かごを見た。
伏せたカップが、ひとつあるだけだ。それなのに、なぜか目が離れなかった。
「きれいに、飲んでいったのね」
カウンターの端の丸椅子から、朧さんが言った。
「うん」
答えてから、布巾をたたむ手が止まった。
「……前の仕事じゃ、飲み終わったカップを見ることなんて、なかったな」
言ってから、自分で少し驚いた。そんな話をするつもりはなかった。
朧さんは何も聞かなかった。紫紺の目を、ただこちらに向けていた。
ボーン、と振り子時計がひとつ鳴った。十時半だ。
その音が消えるのを待ってから、俺は流しの縁に手をついたまま、口を開いた。
「東京で、四年、営業をしてたんだ」
朧さんはうなずかなかった。それでも、聞いているのはわかった。
「向いてたかどうかは、わからない。でも、あの蛍光灯の下で、ちゃんとやってるつもりだった。四年間、ずっと」
言葉が、そこでいったん途切れた。
蛇口の先から、しずくがひとつ、流しの底に落ちた。
「最後に、自分がやっていないことの責任を取って、会社を辞めた」
声に出してみると、思っていたより短い一文だった。
東京を出てから、ずっと胸の底に沈めていた。重たくて、ふたを開けるのも怖かった。なのに口にしてしまえば、それだけだった。
その先は言わなかった。言えなかった、と言ったほうが近いのかもしれない。
朧さんは、しばらく黙っていた。
振り子が、コチ、コチと揺れている。ひとつだけ残した灯りの縁で、振り子の影がかすかに行ったり来たりしていた。
「言えるところまでで、いいわ」
静かな声だった。慰めるのでもなく、急かすのでもない声だった。
「続きは、言いたくなった夜にすればいいの」
「……聞かないんだな」
「聞いてほしいの?」
少し考えてから、首を振った。
「……いや」
聞かれたら、俺はたぶん、全部答えてしまう。答えたら、まだ、立っていられなくなる気がした。
朧さんは、それをわかっているようだった。
この店に戻ってから、俺は竜たちが言わないことに、理由を聞かずにきた。聞かないほうがいいと思ったからだ。けれど、自分が聞かれない側になって、初めてわかった。聞かれないというのは、そこに置いておいていいと言ってもらえることなのだ。
流しの縁から手を離した。握っていたところだけ、指先が少し冷たかった。
*
十一時の鐘が鳴りはじめた。
朧さんは時計のほうへ顔を向けて、ひとつずつ打つ音を聞いていた。十一の音が終わっても、しばらくそのまま動かなかった。
「昔ね」
文字盤を見上げたまま、朧さんが言った。
「夜にしか会えなかった人が、いたの」
それだけだった。
誰なのかは、聞かなかった。いつのことなのかも、聞かなかった。朧さんの横顔は、話し終えたというより、そこに言葉をひとつ置いたように見えた。俺がさっき、流しの前で置いたのと同じように。
「夜は、そういうものを置いていくのに、ちょうどいいのかしら」
ひとり言のような声だった。返事を待っている問いには聞こえなかったから、俺は黙っていた。
黙っているのが、少しも苦しくなかった。黙っていても責められない時間があることを、俺は長いあいだ忘れていた気がする。
*
それからしばらく、どちらも口をきかなかった。
十一時半の鐘が、ひとつ鳴った。
俺はミルの引き出しに残った粉を払い、温度計を布巾で拭き、銅のポットの水気をていねいに拭きとった。ひとつ片付けるたびに、カウンターの上が少しずつ広くなっていく。
最後に布巾をたたんで置いてから、カウンターの内側から店を見回した。
灯りの下の端の丸椅子に、銀色の髪があった。朧さんは、また時計を見上げていた。
来週の月曜も、きっと、あの子は坂を上がってくる。重たいリュックを背負って、単語帳を抱えて。
「……来週も、開けような。朧」
言い終えてから、気がついた。
「さん」が付いていなかった。付け忘れたのではない。付けようと思わなかったのだ。いつからそうなっていたのかは、自分でもわからない。
言い直そうかと、一瞬だけ思った。けれど、口は動かなかった。
朧さんが、ゆっくりとこちらを向いた。紫紺の目が、一度だけまばたいた。
「そうね」
それから、少しだけ間があった。
「開けましょう、朔」
夜の朧さんは、いつも俺をそう呼ぶ。それなのに、さっきまでとは少し違って聞こえた。違っているのは、たぶん俺のほうだった。
朧さんはそれきり何も言わず、また時計のほうを向いた。横顔が、さっきより少しだけやわらかく見えた気がした。
*
やがて、振り子時計が十二時を打ちはじめた。
ボーン、と一つ目が鳴る。俺は数えなかった。数えなくても、最後の音がどれかはわかる気がした。
十二の音が店の隅に吸いこまれて消えてから、戸口まで歩いて、鍵を回した。かちり、と小さな音がした。
振り返ると、朧さんが灯りの下からこちらを見ていた。
「朔も、もう休みなさい」
「ああ。……おやすみ、朧」
「おやすみなさい」
俺にとっての一日は、ここで終わる。朧さんの夜は、まだこの先も続いていく。
階段を上がるあいだも、「さん」を付けずに呼んだ名前が、まだ口の中に残っていた。
(第六章・了)




