↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本日の担当は、竜です  作者: 奉日本 灯
第一巻 閉店前夜、祖父のブレンドを淹れたら、竜が七匹起きてきた。
PR
29/44

第七章 土曜日のお茶会と、三日目の朝(1)

第七章 土曜日のお茶会と、三日目の朝(1)


 六月五日、木曜日。


 あの月曜の夜から、十日ほどが過ぎた。


 六月に入って、エプロンの下のシャツを半袖に替えた。朝の厨房に立つと、肘から先がすうすうする。


 開店前、黒板の前でチョークを取った。祖父の字の『本日のブレンド 深煎り』は、今日も消さずに残してある。その下に、一行だけ書き足す。


『本日の担当は、翠です。』


 厨房へ戻ると、まほろさんが流しの前で背中を丸めていた。大きな手の中で、祖父のアルミのシフォン型が水をはじいている。真ん中に筒の立った、背の高い型だ。


 祖父はこの型で、毎週シフォンを焼いていたという。四月に、まほろさんから聞いた話だ。


「それ、焼くのか」


「ええ。……ねぇ、朔ちゃん」


 まほろさんは布巾で型の水気を拭きながら、細い目をこちらに向けた。


「土曜日にね、お茶会を開いてみたいのよぉ」


「お茶会」


「お店に来てくれた人と、ケーキを食べて、お茶を飲むの。それだけ」


 型を灯りにかざして、まほろさんは内側に曇りが残っていないかを確かめた。


「ケーキの焼ける匂いがするお店って、いいでしょう?」


 勝手口のほうから、翠(すい)が戻ってきた。菜園の水やりを終えたところで、裾を折り返したエプロンの端が濡れている。


「翠。今日、何かしたいことはあるか」


 翠は、まほろさんの手の中の型を見た。すん、と鼻を鳴らす。


「……まほねえ、の」


 間があった。


「……おてつだい」


 頭の上の双葉が、ぴこっと跳ねた。


「じゃあ、お店が終わってから、いっしょに焼きましょうねぇ」


 まほろさんは型を台に置いて、冷蔵庫を開けた。


「卵、六個いるのよぉ。……それとね、土曜の朝に、もう一回焼くの。今日のは、練習」


 冷蔵庫の卵では、どちらにも足りなかった。まほろさんに言われて棚をのぞくと、薄力粉も砂糖もサラダ油も、心もとない量しか残っていない。


 昼の客が引いたところで、店を黄金(こがね)に任せて、坂の下のスーパーまで下りた。六個入りの卵を二パックと、薄力粉と、砂糖と、サラダ油。自分の財布から払った。


*


 六時の鐘が鳴り終わって戸を閉めると、翠はまっすぐ勝手口へ向かった。


 植物に大事なことを聞くのは、朝か夕方だ。日中はおひさまを浴びたいから、邪魔をしないのだという。


 廊下の突き当たりの戸口に立って、俺は翠の背中を見ていた。


 裏庭の奥、古い木と物置の向こうは、そのまま低い裏山の斜面になっている。祖父が耕していた畝のそばで、翠はミントの前にしゃがみこんだ。


「……どようび、ね。……おちゃかい、するの」


 ミントの葉に、顔を寄せる。


「……すこし、もらっても、いい?」


 しばらく、翠は動かなかった。


 やがて、こちらを振り返った。


「……さく。……どようびの、あさ、なら。いいって」


「そうか。よかったな」


 けれど、翠はすぐには立ち上がらなかった。双葉が途中まで持ち上がって、そこで止まっている。


「……それと」


 翠は、斜面のほうを見上げた。


「……あめ、くるって。……たくさん」


「今夜か」


 翠は、こくりとうなずいた。


 後ろで、廊下の床板がきしんだ。振り返ると、まほろさんが勝手口の戸枠に手をかけて、俺の頭の上から裏庭をのぞいていた。


 いつもは糸のように細い目が、わずかに開いていた。見ているのは翠でもミントでもない。古い木の向こうの、斜面だった。


「……そう。たくさん、ねぇ」


 それから、いつもの顔に戻って笑った。


「じゃあ、洗濯物をしまっておかなきゃねぇ」


*


 厨房の灯りの下に、まほろさんは卵を六個並べた。


 こつ、とボウルの縁で割り、殻から殻へ黄身を移して、白身だけを下のボウルに落としていく。大きな手なのに、黄身はひとつも崩れなかった。


「翠ちゃんは、粉をふるってくれるかしらぁ」


 翠は踏み台に乗って、ふるいを両手で持った。縁を指で叩くたびに、薄力粉が白く降っていく。


 黄身に砂糖を入れて、白っぽくなるまで混ぜる。サラダ油を細くたらし、水を足す。そこへ、翠がふるった粉を落とした。


「白身はねぇ、最初は大きく回すの。お砂糖は、三回に分けて入れるのよぉ」


 泡立て器が、ボウルの中で軽い音を立てはじめた。


 しばらくして、まほろさんが泡立て器をこちらに差し出した。


「朔ちゃんも、やってみて」


 受け取って、回す。メレンゲなら、作ったことはある。けれど、手で立てるのは久しぶりだった。まほろさんの手つきをまねて、ボウルを傾ける。二回目の砂糖が入るころには、肘の上がじんと重くなってきた。


「そうそう。角が、ぴんと立つまでねぇ」


 まほろさんは、俺の手元をじっと見ていた。


「……ちゃんと、覚えておいてねぇ」


 土曜の朝も、まほろさんが焼くはずだ。横で見ていれば済む話じゃないのか。そう思ったけれど、口には出さなかった。


 泡立て器を持ち上げると、白身の先が、つんと立った。


 黄身の生地に、メレンゲを三回に分けて合わせていく。ゴムべらで底からすくって、返す。まほろさんのへらは、急がなかった。それでいて、泡はひとつもつぶれていないように見えた。


 型に流しこんで、台の上で、とん、とん、と二回落とす。


 百七十度のオーブンに入れて、扉を閉めた。四十分。


*


 甘い匂いが厨房の入口まで流れたころ、黄金が帳簿とそろばんを抱えて顔を出した。


「なんや、この匂い」


「シフォンよぉ。土曜日のお茶会の、練習なの」


「お茶会て」


 まほろさんが話すあいだに、黄金の丸眼鏡が、じわりと光った。


「その日だけ出す、て。……お代は」


「いらないわぁ。お茶会だもの」


「あかん」


 黄金は帳簿の上にそろばんを載せて、珠を弾きはじめた。


「卵が六個、粉、砂糖、油。ガス代も、四十分ぶん。……ほな、ひと切れ百五十円で出したら……」


「黄金ちゃん」


 まほろさんが、困ったように首を傾けた。


「お茶会でお金をもらうのは、なんだか違う気がするのよぉ」


 珠の上で、黄金の指が止まった。


「……せやけどな、まほ姉。タダで出したら、まほ姉のケーキの値打ちが、帳簿のどこにも残らへん」


 どちらも、引く気はないらしかった。翠の双葉が、二柱の顔のあいだを行ったり来たりしている。


「なら」


 口を挟むと、二柱がこちらを向いた。


「ブレンドに付けるのは、どうだ。土曜だけ、ブレンドを頼んだ人に、ひと切れ付ける。値段は四百円のまま」


 黄金は黙った。そろばんの珠に、指先を置いたままだ。


「……ケーキのぶんも、ブレンドのお代のうちに入っとる、いうことやな」


「そういうことになる」


「ほんなら、帳簿には『ブレンド シフォン付き』て書ける。……それやったら、ちゃんと残る」


 黄金はそろばんを振って、珠を払った。じゃっ、と乾いた音がした。


「黄金ちゃん、ありがとうねぇ。朔ちゃんも、商売上手ねぇ」


「商売にはなってへん。ウチは、帳簿の話をしとるだけや」


 黄金はそっぽを向いた。


 店のほうで、レジがチーンと鳴った。誰も触っていないはずだった。


*


 四十分が過ぎて、オーブンの扉を開けた。


 熱い空気といっしょに、きつね色の頭がのぞいた。型の縁より、指一本ぶん高くふくらんでいる。


 まほろさんは型を取り出すと、すぐに逆さにした。台の上の空き瓶を、翠が両手で押さえている。真ん中の筒に瓶の口を差しこむと、型が宙に浮いた。


「すっかり冷めるまで、このままねぇ」


 翠が、瓶から手を放さずに見上げた。


「……まほねえ。……あした、たべる?」


「ええ。みんなで、ね」


 まほろさんの大きな手が、翠の頭を撫でた。撫でられた双葉が、くすぐったそうに揺れた。


 逆さの型の下に、甘い匂いがたまっている。


 洗いものを終えてから、勝手口の戸を開けてみた。


 雨は、まだ降っていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。