第七章 土曜日のお茶会と、三日目の朝(1)
第七章 土曜日のお茶会と、三日目の朝(1)
六月五日、木曜日。
あの月曜の夜から、十日ほどが過ぎた。
六月に入って、エプロンの下のシャツを半袖に替えた。朝の厨房に立つと、肘から先がすうすうする。
開店前、黒板の前でチョークを取った。祖父の字の『本日のブレンド 深煎り』は、今日も消さずに残してある。その下に、一行だけ書き足す。
『本日の担当は、翠です。』
厨房へ戻ると、まほろさんが流しの前で背中を丸めていた。大きな手の中で、祖父のアルミのシフォン型が水をはじいている。真ん中に筒の立った、背の高い型だ。
祖父はこの型で、毎週シフォンを焼いていたという。四月に、まほろさんから聞いた話だ。
「それ、焼くのか」
「ええ。……ねぇ、朔ちゃん」
まほろさんは布巾で型の水気を拭きながら、細い目をこちらに向けた。
「土曜日にね、お茶会を開いてみたいのよぉ」
「お茶会」
「お店に来てくれた人と、ケーキを食べて、お茶を飲むの。それだけ」
型を灯りにかざして、まほろさんは内側に曇りが残っていないかを確かめた。
「ケーキの焼ける匂いがするお店って、いいでしょう?」
勝手口のほうから、翠が戻ってきた。菜園の水やりを終えたところで、裾を折り返したエプロンの端が濡れている。
「翠。今日、何かしたいことはあるか」
翠は、まほろさんの手の中の型を見た。すん、と鼻を鳴らす。
「……まほねえ、の」
間があった。
「……おてつだい」
頭の上の双葉が、ぴこっと跳ねた。
「じゃあ、お店が終わってから、いっしょに焼きましょうねぇ」
まほろさんは型を台に置いて、冷蔵庫を開けた。
「卵、六個いるのよぉ。……それとね、土曜の朝に、もう一回焼くの。今日のは、練習」
冷蔵庫の卵では、どちらにも足りなかった。まほろさんに言われて棚をのぞくと、薄力粉も砂糖もサラダ油も、心もとない量しか残っていない。
昼の客が引いたところで、店を黄金に任せて、坂の下のスーパーまで下りた。六個入りの卵を二パックと、薄力粉と、砂糖と、サラダ油。自分の財布から払った。
*
六時の鐘が鳴り終わって戸を閉めると、翠はまっすぐ勝手口へ向かった。
植物に大事なことを聞くのは、朝か夕方だ。日中はおひさまを浴びたいから、邪魔をしないのだという。
廊下の突き当たりの戸口に立って、俺は翠の背中を見ていた。
裏庭の奥、古い木と物置の向こうは、そのまま低い裏山の斜面になっている。祖父が耕していた畝のそばで、翠はミントの前にしゃがみこんだ。
「……どようび、ね。……おちゃかい、するの」
ミントの葉に、顔を寄せる。
「……すこし、もらっても、いい?」
しばらく、翠は動かなかった。
やがて、こちらを振り返った。
「……さく。……どようびの、あさ、なら。いいって」
「そうか。よかったな」
けれど、翠はすぐには立ち上がらなかった。双葉が途中まで持ち上がって、そこで止まっている。
「……それと」
翠は、斜面のほうを見上げた。
「……あめ、くるって。……たくさん」
「今夜か」
翠は、こくりとうなずいた。
後ろで、廊下の床板がきしんだ。振り返ると、まほろさんが勝手口の戸枠に手をかけて、俺の頭の上から裏庭をのぞいていた。
いつもは糸のように細い目が、わずかに開いていた。見ているのは翠でもミントでもない。古い木の向こうの、斜面だった。
「……そう。たくさん、ねぇ」
それから、いつもの顔に戻って笑った。
「じゃあ、洗濯物をしまっておかなきゃねぇ」
*
厨房の灯りの下に、まほろさんは卵を六個並べた。
こつ、とボウルの縁で割り、殻から殻へ黄身を移して、白身だけを下のボウルに落としていく。大きな手なのに、黄身はひとつも崩れなかった。
「翠ちゃんは、粉をふるってくれるかしらぁ」
翠は踏み台に乗って、ふるいを両手で持った。縁を指で叩くたびに、薄力粉が白く降っていく。
黄身に砂糖を入れて、白っぽくなるまで混ぜる。サラダ油を細くたらし、水を足す。そこへ、翠がふるった粉を落とした。
「白身はねぇ、最初は大きく回すの。お砂糖は、三回に分けて入れるのよぉ」
泡立て器が、ボウルの中で軽い音を立てはじめた。
しばらくして、まほろさんが泡立て器をこちらに差し出した。
「朔ちゃんも、やってみて」
受け取って、回す。メレンゲなら、作ったことはある。けれど、手で立てるのは久しぶりだった。まほろさんの手つきをまねて、ボウルを傾ける。二回目の砂糖が入るころには、肘の上がじんと重くなってきた。
「そうそう。角が、ぴんと立つまでねぇ」
まほろさんは、俺の手元をじっと見ていた。
「……ちゃんと、覚えておいてねぇ」
土曜の朝も、まほろさんが焼くはずだ。横で見ていれば済む話じゃないのか。そう思ったけれど、口には出さなかった。
泡立て器を持ち上げると、白身の先が、つんと立った。
黄身の生地に、メレンゲを三回に分けて合わせていく。ゴムべらで底からすくって、返す。まほろさんのへらは、急がなかった。それでいて、泡はひとつもつぶれていないように見えた。
型に流しこんで、台の上で、とん、とん、と二回落とす。
百七十度のオーブンに入れて、扉を閉めた。四十分。
*
甘い匂いが厨房の入口まで流れたころ、黄金が帳簿とそろばんを抱えて顔を出した。
「なんや、この匂い」
「シフォンよぉ。土曜日のお茶会の、練習なの」
「お茶会て」
まほろさんが話すあいだに、黄金の丸眼鏡が、じわりと光った。
「その日だけ出す、て。……お代は」
「いらないわぁ。お茶会だもの」
「あかん」
黄金は帳簿の上にそろばんを載せて、珠を弾きはじめた。
「卵が六個、粉、砂糖、油。ガス代も、四十分ぶん。……ほな、ひと切れ百五十円で出したら……」
「黄金ちゃん」
まほろさんが、困ったように首を傾けた。
「お茶会でお金をもらうのは、なんだか違う気がするのよぉ」
珠の上で、黄金の指が止まった。
「……せやけどな、まほ姉。タダで出したら、まほ姉のケーキの値打ちが、帳簿のどこにも残らへん」
どちらも、引く気はないらしかった。翠の双葉が、二柱の顔のあいだを行ったり来たりしている。
「なら」
口を挟むと、二柱がこちらを向いた。
「ブレンドに付けるのは、どうだ。土曜だけ、ブレンドを頼んだ人に、ひと切れ付ける。値段は四百円のまま」
黄金は黙った。そろばんの珠に、指先を置いたままだ。
「……ケーキのぶんも、ブレンドのお代のうちに入っとる、いうことやな」
「そういうことになる」
「ほんなら、帳簿には『ブレンド シフォン付き』て書ける。……それやったら、ちゃんと残る」
黄金はそろばんを振って、珠を払った。じゃっ、と乾いた音がした。
「黄金ちゃん、ありがとうねぇ。朔ちゃんも、商売上手ねぇ」
「商売にはなってへん。ウチは、帳簿の話をしとるだけや」
黄金はそっぽを向いた。
店のほうで、レジがチーンと鳴った。誰も触っていないはずだった。
*
四十分が過ぎて、オーブンの扉を開けた。
熱い空気といっしょに、きつね色の頭がのぞいた。型の縁より、指一本ぶん高くふくらんでいる。
まほろさんは型を取り出すと、すぐに逆さにした。台の上の空き瓶を、翠が両手で押さえている。真ん中の筒に瓶の口を差しこむと、型が宙に浮いた。
「すっかり冷めるまで、このままねぇ」
翠が、瓶から手を放さずに見上げた。
「……まほねえ。……あした、たべる?」
「ええ。みんなで、ね」
まほろさんの大きな手が、翠の頭を撫でた。撫でられた双葉が、くすぐったそうに揺れた。
逆さの型の下に、甘い匂いがたまっている。
洗いものを終えてから、勝手口の戸を開けてみた。
雨は、まだ降っていなかった。




