第七章 土曜日のお茶会と、三日目の朝(2)
屋根を叩く音で、目が覚めた。
ばらばら、と。小石をひとつかみずつ撒いているような音だった。祖父の部屋の天井の上で、それが途切れなく続いている。
階下で、振り子時計が鳴りはじめた。
ボーン。
ひとつ目のあとも、鐘は続いた。雨にまぎれて、途中で数がわからなくなりかけた。それでも、十一で止まったのはわかった。
……あめ、くるって。……たくさん。
夕方の翠の声を思い出した。たくさん、どころではない気がした。
水を一杯飲んでおこうと、階段を下りた。
一階は、二階よりも雨の音が近かった。理由は、すぐにわかった。
勝手口の戸が、開いていた。
湿った風が、廊下まで吹きこんでいる。土の匂いがした。雨に打たれて、地面の下から掘り起こされたばかりのような、重たくて冷たい匂いだった。
戸口まで行って、足が止まった。
暗がりに目が慣れると、裏庭の古い木のそばに、人の形が浮かんできた。
まほろさんだった。
傘はさしていない。裸足だった。焦げ茶の三つ編みが濡れて、背中にぴたりと張りついている。足首まで、黒い土に沈んでいた。
両手を、斜面のほうへ向けていた。
何かを押しとどめているようにも、撫でているようにも見えた。
その頭に、角があった。
岩のように太くて、短い角だった。雨粒がそこに当たって、細かく砕けている。腰のあたりからは重たそうなしっぽが伸びて、先のほうが泥の中に沈んでいた。
梁にごつんとやるたびに、頭をさすって笑っていた人だ。その頭に、今は角がある。
「まほろさん」
呼んだ声は、雨の音に負けた。まほろさんは振り向かない。
戸口のサンダルに足を入れかけたとき、後ろで声がした。
「……行かなくていいわ」
振り返ると、店のほうから、朧さんが廊下に出てきていた。足音は、ほとんどしなかった。紫紺の目は俺ではなく、俺の肩越しに、雨の向こうを見ていた。
「いつから」
「時計が十一を打つ、少し前から」
俺より先に、気づいていたらしい。
「止めなくていいのか、朧」
朧さんは、すぐには答えなかった。
「……まほろは、わかってるのよ」
何を、とは言わなかった。
俺も、聞かなかった。聞いてはいけない気がした、というのとも違う。雨の中に立つあの背中に向かって投げられる言葉が、俺の中にひとつも見つからなかった。
「タオルを、用意しておきなさい」
ありったけのタオルを抱えてきて、勝手口の脇に積んだ。その横に腰を下ろす。開いた戸から雨が吹きこんで、足の指先を冷たく濡らした。
朧さんは、俺の後ろに立ったままだった。
ボーン、と時計がひとつだけ鳴った。十一時半だ。
雨は弱まらなかった。
古い木の葉が、ひっきりなしに鳴っている。屋根から落ちる水が、軒下の土をえぐる音がする。その全部の奥で、まほろさんだけが動かなかった。
濡れた木の皮の匂いにまじって、ミントの匂いがかすかに届いた。畝のそばの、翠のミントだ。こんな雨の中でも、匂いは消えないらしい。
雨が、ひときわ強くなった。
まほろさんの肩が、わずかに沈んだ。
――足元の土が、低く鳴った。
耳で聞いたのか、腹の底で聞いたのか、自分でもわからなかった。ただ、確かに鳴った。
そのあとは、何も起きなかった。雨だけが、同じ強さで降りつづけていた。
「朔は、寝ていいわ」
後ろで、朧さんが言った。
「起きてるよ」
「……そう」
俺は膝を抱えて、雨の向こうの背中を見ていた。
朝の流しで、シフォンの型を灯りにかざしていた背中だ。洗濯物をしまっておかなきゃねぇ、と笑っていた背中だ。同じ背中が今、雨に打たれたまま、一歩も退かずにそこにあった。
*
十二時を打ち、一時を打ち、時計の鐘をいくつ聞いたか、途中から数えなくなった。
屋根を叩く音が、だんだん細くなっていった。ばらばらという音が、ぱらぱらに変わる。それにつれて、店のほうから振り子のコチ、コチという音が、廊下まで届くようになった。
鐘が四つ鳴ったころ、勝手口の外が白っぽくなりはじめた。
古い木の輪郭が、灰色の空から浮かびあがってくる。そのそばで、まほろさんの両手が、ゆっくりと下りた。
まほろさんは、こちらを向いた。
一歩ずつ、土から足を引き抜くようにして歩いてくる。そのたびに、ぬかるみがくぐもった音を立てた。しっぽの先が、泥の上に一本の筋を引いていく。
勝手口の戸枠に、大きな手がかかった。
夕方、同じ場所に手をかけて裏庭をのぞいていた手だ。今は指の先まで、土で黒く汚れていた。
「朔ちゃん」
細い目が、いつものように笑っていた。
「……土曜日、お願いねぇ」
いつもと何も変わらない、のんびりした声だった。
返事をする前に、まほろさんの体が傾いた。
とっさに受け止めた。重かった。雨を吸った土の重さだった。膝が折れかけたところで、反対側から白い手が伸びてきて、まほろさんの濡れた肩を支えた。
朧さんだった。
まほろさんは、もう寝息を立てていた。
角は、いつのまにか見えなくなっていた。泥の上に筋を引いていたしっぽも、どこにもなかった。
積んでおいたタオルで、まず足を拭いた。指のあいだにまで、黒い土が詰まっていた。朧さんは黙って、三つ編みの先の水をタオルに吸わせていた。
朧さんと俺とで、まほろさんを二階の奥の部屋へ運んだ。階段は、一段ごとに長くきしんだ。
布団の上にタオルを何枚も広げてから、そっと寝かせた。
まほろさんは、一度も目を覚まさなかった。
一度寝ると、三日起きない。四月にも、そうだった。
眠りはじめたのが金曜の朝なら、土曜日は、そのまんなかだ。
土曜日、お願いねぇ。
いつから、わかっていたのだろう。
*
朧さんは、まほろさんの寝顔をしばらく見下ろしてから立ち上がった。
「……私も、眠るわ」
屋根裏へ上がる階段が、ひとつだけ、きしんだ。
ほかの誰も、まだ起きてはこなかった。
階段を下りて、サンダルをつっかけ、勝手口から外に出た。
雨は、やんでいた。
古い木の枝から、まだ大粒のしずくが落ちてくる。裏庭のあちこちに水たまりができて、白い空を映していた。土の匂いが、ゆうべよりずっと濃い。
木のそばに、足跡がふたつ、深く残っていた。底に雨水がたまって、小さな池のようになっている。
その向こうに、斜面があった。
昨日の夕方、翠が見上げていたのと同じ形のまま、そこにあった。
畝も、遠目には崩れていない。ミントの前にしゃがんで確かめるのは、翠の役目だ。翠が起きたら、きっと真っ先にここへ来る。
勝手口から中に戻って、厨房をのぞいた。
台の上で、シフォンの型が空き瓶に差さったまま、逆さに浮いていた。
――明日の朝まで、このままねぇ。
その朝が、来ていた。
――ええ。みんなで、ね。
その「みんな」に、今朝のまほろさんは入れない。
逆さの型は、空き瓶の上で、静かに待っていた。
土曜日は、明日だ。




