第七章 土曜日のお茶会と、三日目の朝(3)
六月六日、金曜日。
祖父の部屋で横になったのは、ほんのひととき休むつもりだった。目を開けると、階段を下りていく軽い足音がしていた。
追いかけて下りると、翠はもう廊下の先にいた。厨房にも店にも寄らず、まっすぐ勝手口へ向かっていく。
戸が開くと、湿った土の匂いが廊下まで流れこんできた。
空は一面、白っぽい雲に覆われていた。古い木の枝は、もうしずくを落としていない。裏庭のあちこちに、水たまりだけが残っていた。
翠はミントの前にしゃがみこんだ。土に顔を近づけたまま、じっと動かない。
やがて、こくりとうなずいた。
「……へいき、って」
それから畝のほうへ移って、同じようにしゃがむ。指先で、土の表面にそっと触れた。
「……みず、いっぱい、のんだ、って」
立ち上がった翠は、木のほうを見た。
足跡は、まだそこにあった。底にたまった雨水は半分ほどに減って、縁の土が乾きはじめている。
翠は足跡の前まで歩いていって、見下ろした。
双葉が、ゆっくり垂れかけて――そこで、止まった。
翠は何も聞かなかった。俺も、何も言わなかった。
しばらくそうしてから、翠は足跡をまたがずに、ぐるりと回って戻ってきた。勝手口の戸枠に手をかけて、一度だけ俺を見上げる。
「……さく。……おなか、すいた」
*
厨房に戻ると、陽華と雫が二階から下りてきていた。厨房の入口には焔が腕を組んで立っていて、少し遅れて、帳簿を抱えた黄金も顔を出した。
俺は、ひとつだけ伝えた。
「まほろさん、明け方に眠った。奥の部屋で寝てる」
陽華が、天井を見上げた。
「……そうか。マホは、また眠ったのだな」
雫は胸の前で手を重ねて、うなずいた。焔は「……ふうん」とだけ言った。黄金は、帳簿の角を指でなぞっただけだった。
台の上では、シフォンの型が、ゆうべのまま空き瓶に差さって逆さに浮いていた。
「食べよう。練習のやつ」
型を空き瓶から抜くと、瓶の底が台に当たって、かたん、と鳴った。ひと晩置いた型は、指に触れるとひんやりしていた。
細いナイフを、型の縁に沿わせる。刃を外側へ押しつけるようにして、ぐるりと一周。真ん中の筒のまわりも、同じように回す。
皿をかぶせて、ひっくり返した。型の底を軽く叩くと、手の中で重さがふっと抜けた。
型を持ち上げたとたん、甘い匂いが立った。ゆうべ厨房にこもっていた匂いより、落ち着いている。卵と、焼けた粉の匂いだ。
型の底に当たっていた面が、上になっていた。薄いきつね色だった。ナイフを入れると、刃の下で生地が沈んで、すぐにふくらみ直す。六つに切り分けた。断面は、白に近い黄色。細かい穴が、端から端まで揃って並んでいた。
起きている五柱と、俺とで、一切れずつ。
陽華が、真っ先にかぶりついた。
「うむ! 練習とは思えぬのだ!」
店のほうで、ドアベルがかすかに鳴った。
雫は両手で皿を持って、ひと口ぶんを、時間をかけて味わった。
「まあ……。しっとりしておりますわ」
焔は一切れを指でつまみ、焼き色をしばらく眺めてから、半分をひと口で食べた。
「……焼き色、ムラねえな」
しっぽの先に、火が灯った。
黄金は何も言わずに食べた。食べ終えると、皿に落ちたくずを指先で集めて、それも口に入れた。
翠は、両手で持った一切れを、すぐには食べなかった。
顔を近づけて、匂いをかぐ。それから、端のほうをほんのひとかじりした。
「……あまい」
双葉が、かすかに揺れた。
翠は残りを、ゆっくり、ゆっくり食べた。
最後に、俺もひと口食べた。
舌に載せると、生地は音もなくしぼんで、卵の匂いと、ほのかな甘さだけがあとに残った。
練習で、これだ。
*
空になった型を洗って伏せてから、チョークを取った。
祖父の字の『本日のブレンド 深煎り』の下に、一行書き足す。
『本日の担当は、黄金です。』
振り返ると、黄金はカウンターの内側で帳簿を開いていた。
「黄金。今日、何かしたいことはあるか」
黄金は、帳簿から顔を上げなかった。
「……ウチは、いつもどおりでええ」
万年筆のキャップを外す。黄金は今日の行の下に、明日の日付を先に書き入れた。
その横に、一行。
『ブレンド シフォン付き』
「明日のぶん。先に書いとく」
それだけ言って、帳簿を閉じた。
帳簿の上で、土曜日はもう一行ぶん、先に来ていた。
*
十時に、戸の鍵を開けた。
客足はゆるやかだった。坂を上がってくる人の靴には、どれも泥がはねていた。
「ゆうべは、ひどい降りだったねえ」
カウンターに座った年配の男の人が、戸口の外を見ながら言った。
「はい。すごい音でした」
キャニスターの豆は、木曜の朝に焔が焼いたぶんだ。雫が湯を落とし、陽華が「いらっしゃいませなのだ!」と迎える。翠はカウンターの陰で、温めたカップを差し出した。焔は、焙煎室から出てこなかった。
昼すぎ、雲の切れ目から、薄い日が坂に落ちた。
黄金はレジの前で会計をした。引き出しが開くたびに、チーン、と鳴った。
ドアベルは鳴り、湯は沸き、レジは開く。ひと柱欠けていても、店は回った。
二階の奥の部屋で、まほろさんが眠っていることを、客は誰も知らない。
*
六時に戸を閉めて、片付けを終えた。
カウンターの内側の棚から、白い陶器のカップを下ろした。
三月の終わりの夜、棚の奥で見つけたこのカップで、俺は最初の一杯を淹れた。
眠っているあいだ、そばに置いておくのがいい気がした。理由は、自分でもうまく言えない。
布巾でもう一度拭こうとして、ひっくり返したときだった。
高台の内側に、細い字が彫ってあった。
『八重』
指が、止まった。
八重。祖母の名前だ。
祖母が亡くなったのは、俺が六つの夏だった。顔は、壁の写真でしか知らない。祖父と並んで写っている人だ。
その名前が、どうしてこのカップの底にあるのか。
わからなかった。わからないまま、しばらく、その二文字を見ていた。
カップを元の向きに戻して、両手で包んだ。手のひらに、陶器の重さだけがあった。
二階へ上がって、奥の部屋の戸をそっと開けた。
まほろさんは、布団の上で眠っていた。三つ編みは、もう乾いている。寝息は、深くて、長い。
枕元に、カップを置いた。口を上にして。
まほろさんは、目を覚まさなかった。
聞きたいことは、いくつかあった。でも、それは今夜じゃない。
*
外は、まだ明るかった。
垣根の葉に、雨のしずくがいくつも残っている。『綾瀬』の表札の前で声をかけると、ほどなく、ちよばあが杖をついて庭に出てきた。
「おや。朔くんかい」
「急にすみません。明日、店でお茶会をするんです」
戸の外に立ったまま、俺は話した。
「ブレンドを頼んでくれた人に、シフォンケーキを一切れ付けます。……まほろさんが、やりたいって言い出したんです」
「そうかい」
ちよばあは、それだけ言った。何も聞かなかった。
しばらく、俺の顔を見ていた。
「……土曜日だね」
「はい」
「顔を出させてもらうよ」
頭を下げると、ちよばあは「気をつけて帰っておくれ」と言って、庭の奥へ戻っていった。
カップのことは、聞かなかった。八重という名前も、口にしなかった。
帰り道、そのことを一度だけ考えた。考えて、やめた。
*
夜、厨房の灯りだけをつけた。
朝に洗って伏せておいたシフォンの型を、台の上に置く。その隣に、空き瓶。ゆうべ使った薄力粉と砂糖とサラダ油も、台の端に並べた。ボウルと泡立て器も出しておく。
冷蔵庫を開けて、卵のパックを確かめた。
六個。ひとつも欠けずに、並んでいる。
扉を閉めると、店のほうで、振り子時計が鳴りはじめた。
ボーン、と九つ。
型がひとつ。空き瓶がひとつ。粉と砂糖と油。冷蔵庫の中に、卵が六つ。
明日の朝のぶんは、これで全部だ。




