第七章 土曜日のお茶会と、三日目の朝(4)
六月七日、土曜日。
振り子時計が六つ打つのを、厨房で聞いた。
ゆうべ並べたものは、ひとつも動いていなかった。型と、空き瓶。薄力粉と砂糖とサラダ油。ボウルと泡立て器。冷蔵庫から卵のパックを出して、台の端に置く。
六個。
焙煎室の戸の向こうは、もう静かだった。焔の今朝のぶんは、とうに済んでいる。厨房には、俺しかいない。
ひとつめの卵を、こつ、とボウルの縁に当てた。殻を割って、黄身を片方からもう片方へ移す。そのあいだに、白身だけが下のボウルへ落ちていく。
二つめで、黄身の膜が破れかけた。手を止めて、息を吐く。三つめからは、殻を傾ける角度が、まほろさんのそれに近づいた気がした。
黄身に砂糖を入れて混ぜ、サラダ油と水を足す。ふるいに薄力粉を入れて、縁を指で叩いた。白い粉が、黄色い生地の上に積もっていく。おととい、翠が踏み台の上でやっていたことだ。
白身のボウルを、傾けた。
最初は、大きく回す。
泡立て器が、ボウルの底でしゃかしゃかと鳴った。砂糖を一回目。白身が白く濁って、泡が細かくなっていく。二回目を入れるころ、腕が重くなってきた。おとといと同じところで、同じように重い。
三回目。
手首が、勝手に回し方を変えた。大きな円から、小さく速い円へ。そうしろと言われた覚えはない。まほろさんの手元を、見ていただけだ。
見ていればいい話じゃないのか、と。おととい、俺はそう思った。
泡立て器を持ち上げると、白身の先が、ぴんと立った。
見ていただけの手が、覚えていた。
メレンゲを三回に分けて、黄身の生地に合わせる。ゴムべらで底からすくって、返す。急ぎそうになるたびに、へらを止めた。
型に流しこんで、台の上で、とん、とん、と二回落とす。
百七十度のオーブンに入れて、扉を閉めた。四十分。
厨房に、甘い匂いが満ちはじめた。卵が温まっていく匂いに、だんだん、粉の焼ける香ばしさが混ざってくる。俺は台にもたれて、オーブンの扉だけを見ていた。
四十分が過ぎて、扉を開けた。
熱い空気といっしょに、きつね色の頭がのぞいた。型の縁から、指一本ぶん。おとといと、同じ高さだった。
ミトンをはめた右手で型をつかみ、すぐに逆さにする。
空き瓶を押さえる手が、ひとつ足りなかった。
左手で瓶の首を握り、右手だけで型を傾けて、真ん中の筒を瓶の口にかぶせる。型がぐらりと揺れて、それから、宙で止まった。
息を吐いたとき、廊下のほうで軽い足音がした。
翠が、厨房の入口に立っていた。すん、と鼻を鳴らす。
「……やけた?」
「焼けた。冷めるまで、このまま」
翠は逆さの型を見上げてから、台の上の空き瓶を、そっと両手で押さえた。
もう浮いているのに、しばらく押さえていた。
「……さく。……みんとの、とこ、いってくる」
「ああ。頼む」
*
勝手口の戸を開けると、まぶしかった。
空には、雲ひとつなかった。裏庭の土はすっかり乾いて、古い木の影が、畝の上にくっきり落ちている。
翠はミントの前にしゃがんで、葉に顔を近づけた。
「……きょう、ね。……おちゃかい。……すこし、もらうね」
待つあいだ、翠は動かなかった。やがて、こくりとうなずく。
「……どうぞ、って」
一本から、上の二枚。次の一本からも、上の二枚。翠の手のひらに、若い緑が一枚ずつ重なっていった。
*
入口の黒板に、祖父の字の下へ一行書いた。
『本日の担当は、まほろです。』
眠っていても、今日はまほろさんの日だ。
陽華はホールに立ち、雫はポットの前にいる。翠はカウンターの陰にしゃがみ、黄金はレジの前で帳簿を開いていた。
開店の前に、ひとつだけ伝えた。
「今日は、ブレンドにシフォンを一切れ付ける。なくなったら、終わりだ」
「うむ!」
「まあ。……では、わたくし、今日はいつもより、ゆっくりお運びいたしますわ」
十時に戸を開けた。
最初に来たのは、年配の夫婦だった。麻の帽子をかぶったご主人と、小さな手提げを持った奥さん。
「今日は、ブレンドにシフォンケーキが一切れ付きます。いま冷ましているところで、お出しできるのは十一時ごろになりますけど」
「あら、いいわねえ。じゃあ、それまでゆっくりしてます」
ブレンドを二杯。雫がソーサーを両手で持って、テーブル席へ運んでいく。急がない足取りだった。
振り子時計が、十一、打った。
厨房に戻って、型を空き瓶から抜く。ナイフを縁に沿わせて一周、筒のまわりも一周。皿をかぶせて返し、底を叩くと、手の中で重さがふっと抜けた。
八つに切り分けた。
そのうち一切れにラップをかけて、台の隅に置いた。
気づくと、帳簿を抱えた黄金が、厨房の入口に立っていた。
「……それ、まほ姉のぶんか」
「ああ」
「ほな、これも書いとく」
万年筆が、『ブレンド シフォン付き』の下に、もう一行を足した。
『シフォン 一切れ まほ姉のぶん』
雫が、皿を二枚、テーブル席へ運んでいった。
奥さんは、フォークを入れたところで「ふわふわ」と笑った。ご主人は黙ってひと口食べて、黙ってふた口目を切った。
*
十一時半の鐘がひとつ鳴ったころ、戸が開いて、ドアベルがカランと鳴った。
御影さんだった。
「近くまで来ましたので」
「シノ! 来てくれたのだな!」
陽華の声に重なって、閉まったはずの戸のほうで、ドアベルがもう一度鳴った。
カウンターに座った御影さんに、お茶会のことを話した。御影さんは「……そうですか」と言って、運ばれてきた皿をしばらく見ていた。
ひと口食べて、フォークが止まった。
「……以前いただいたものと、焼き色が違います」
「今日のは、僕が焼きました」
「そうですか」
それ以上は何も言わず、御影さんは一切れをきれいに食べ終えた。カップを置いて、まっすぐこちらを見る。
「ブレンドを、もう一杯お願いします」
「……二杯目にも、一切れ付きますけど」
「承知しています。本日は検査ではありませんので、決まりどおりに、いただきます」
レジの前で、黄金が「……律儀やな、お役所はん」とつぶやいた。
帰りぎわ、御影さんは戸口で振り返った。
「まほろさんに、よろしくお伝えください」
「……伝えます」
昼すぎに、若い二人連れが来た。出したのは、これで六切れ。
*
振り子時計が二つ打って、しばらくしてから、ドアベルが鳴った。
「チヨ! よう来たのだ!」
ちよばあは陽華に手を振って、カウンターの端からひとつ内側の丸椅子に腰を下ろした。それから、厨房の入口のほうへ目をやった。
腕を組んだ焔が、そこに立っていた。
「おや。焔ちゃんも、元気そうだね」
「……ちゃん付けすんな」
焔は、そこから動かなかった。
「ブレンドを、一杯おくれ」
カップを温めているあいだに、カウンターの陰から、翠がもうひとつカップを差し出した。朝のミントを手のひらで叩いて、雫が休ませたお湯で、翠が淹れたものだ。
ちよばあは受け取って、湯気に顔を近づけた。
「……翠ちゃんが、摘んでくれたのかい」
翠が、こくりとうなずいた。双葉が、ぴこっと跳ねた。
「それは、お代はいいです」
俺がそう言うと、レジの前で、万年筆がまた動いた。
『ミントティー 一杯 お代なし』
ブレンドといっしょに、最後の一切れを出した。
ちよばあはフォークの先で端を切って、口に運んだ。ゆっくり噛んで、ゆっくり飲みこむ。
「……やわらかいね」
厨房の入口で、焔が腕をほどいた。何も言わずに、奥へ引っこんでいく。
ちよばあは、俺の顔を見た。
「朔くんが、焼いたのかい」
「はい。……まほろさんに、教わって」
「そうかい」
ちよばあは、ふた口目を切った。
「ちゃんと、教わったんだね」
ひと口ずつ、時間をかけて、ちよばあは一切れを食べ終えた。ミントティーも、ブレンドも、最後まで飲んでいった。
三時すぎに来た客には、ブレンドだけを出した。
六時に、雫が戸を閉めた。
*
二階へ上がって、奥の部屋の戸を細く開けた。
まほろさんは、きのうと同じ寝息で眠っていた。枕元のカップも、口を上にしたまま、そこにある。
戸口に膝をついて、ひと言だけ言った。
「まほろさん。……お茶会、できたよ」
返事はなかった。
戸を閉めて、階段を下りる。厨房の灯りをつけると、台の隅で、ラップをかけた一切れが待っていた。
明日の朝まで、このまま置いておく。




