第七章 土曜日のお茶会と、三日目の朝(5)
日曜日の朝、厨房でやかんに水を汲んでいると、階段のほうから足音が聞こえた。
一段ずつ、ゆっくりと下りてくる。陽華の足音よりずっと重くて、一段ごとの間が長い。
足音は廊下を渡って、厨房の入口の前で止まった。
ごん、と鈍い音がした。
「あらあら……」
入口の上に片手を当てて、まほろさんが首をすくめていた。
焦げ茶の三つ編みは、ところどころほつれていた。もう片方の手に、白いカップを持っている。口を上にしたまま、包むみたいにして。
「おはよう、朔ちゃん」
三日前と同じ顔で、まほろさんは笑っていた。
蛇口を閉めるのを、しばらく忘れていた。
「……おはよう、まほろさん」
水を止めて、やかんを台に置いた。火にはかけなかった。
「お茶会、できたよ」
きのう、眠っているまほろさんに言ったのと同じことを、もう一度言った。
まほろさんは、俺の顔を見ていた。それから、台の隅に目を移した。ラップをかけた一切れが、そこにある。
「……そう」
糸のような目の奥で、何かがかすかに揺れた。
「来てくれた人に、ちゃんと出せたのねぇ」
「ブレンドに付けて、七切れ」
「そう。……じゃあ、片付けを手伝わなきゃねぇ。来てくれた人にも、お礼を言えなかったし、それから――」
まほろさんにしては、ずいぶん早口だった。カップを持ったまま、もう流しのほうへ歩きだしている。
「まほろさん」
呼ぶと、大きな背中が止まった。
「座って。一杯、淹れるから」
*
まほろさんは店に入ると、まずカウンターの内側に回って、白いカップを棚に戻した。指先でそっと向きを直してから、客席側の丸椅子に腰を下ろした。
俺はカウンターの内側に立って、やかんを火にかけた。
棚のキャニスターから豆を量る。十五グラム。祖父の木のミルに移して、ハンドルを回す。
ごり、ごり、ごり。
朝の店に、乾いた音が響いた。引き出しを開けると、挽きたての香りが立った。
沸いた湯を銅のポットに移して、温度計の針が八十八度に下がるのを待つ。店のカップをひとつ下ろし、フィルターの縫い目を互い違いに折って、湯を回しかけてドリッパーとカップを温めた。カップの湯を捨てて、挽いた粉をフィルターに移す。
粉の真ん中に、細く湯を落とす。焦げ茶の表面がふつふつと泡を吹いて、こんもりと持ち上がった。
三十秒。
「の」の字を描いて、二投目。三投目。細い流れがカップの底を叩いて、かさを増していく。八分目でドリッパーを外した。最後の数滴は、落とさない。
ソーサーに載せて、まほろさんの前に置く。
まほろさんはカップを両手で持ったまま、まだ厨房のほうを見ていた。台の隅の一切れか、流しか、その先の何かを。
「飲んだら、すぐ手伝うわねぇ」
俺は首を横に振った。
「……いいよ。ゆっくりで。コーヒーが冷めるまでは、ここにいていいから」
まほろさんの手が、カップを包んだまま止まった。
何も言わなかった。振り子時計の振り子だけが、コチ、コチ、と鳴っていた。
「……ええ」
まほろさんは、湯気の向こうで目を伏せた。それから、ひと口飲んだ。
急がずに、ひと口ずつ。カップが空になるまで、厨房のほうは一度も見なかった。
*
階段を駆け下りてくる足音がした。
戸も開いていないのに、入口のドアベルが、カラン、と鳴った。
「マホ!」
陽華が、カウンターの前に飛びこんできた。
「起きたのだな!」
「ええ。おはよう、陽華ちゃん」
陽華のうしろから、雫がそっと顔を出した。胸の前で手を重ねている。
「まあ……。まほろお姉さま」
勝手口のほうから、翠が小走りに来た。まほろさんの膝のそばまで来て、じっと見上げる。
「……まほねえ。……おきた」
帳簿を抱えた黄金が、厨房の入口で足を止めた。そのうしろから、焔が黙って顔だけ出していた。
俺は厨房に戻って、台の隅の皿を取った。ラップを外すと、卵と砂糖のやさしい匂いがのぼった。まほろさんの前に置く。
「まほろさんのぶん。取っておいた」
「せやで。帳簿にも、ちゃんと『シフォン 一切れ まほ姉のぶん』て書いてあるんや」
黄金が帳簿を軽く叩いた。
まほろさんは、一切れを見下ろした。翠がカウンターの縁につかまって、背伸びをする。
「……まほねえ。……いま、たべる?」
「ええ。みんなで、ね」
まほろさんは立ち上がって、厨房からナイフとまな板を持ってきた。
一切れをまな板に横たえて、細く、細く切っていく。刃がやわらかい生地に沈んで、音もなく抜ける。
まほろさんは、切り分けたひとつひとつを、指先で数えるように並べた。八つ。ひとつが、指一本ぶんほどの細さになった。
そのうちのひとつを小皿に取り分けて、さっきのラップをそっとかけた。
「これは、朧ちゃんのぶんねぇ」
残りは七つ。陽華、雫、焔、黄金、翠。俺と、まほろさん。
ひとつずつ、手渡されていった。
「はい、焔ちゃんも」
「……ちゃん付けすんな」
焔はそれでも受け取って、ひと口で食べた。
「……まあ、食える」
陽華は「うむ!」とうなずいて、ふた口に分けて大事そうに食べた。雫は両手で持って、目を細めた。
「やさしいお味ですわ」
黄金は黙って口に入れて、帳簿の角を指でそろえた。翠は両手でつまんで、端からかじった。双葉が、ぴこっと跳ねた。
まほろさんは、最後に自分のぶんを取った。
指先でつまんだ細いひと切れを、眺めていた。それから、口に運んだ。
目を閉じて、ゆっくりと噛む。
誰も、次のひと口を急がなかった。
「……ちゃんと、角が立ってたのねぇ」
まほろさんが、目を閉じたまま言った。
メレンゲのことだと、すぐにわかった。
「教わったとおりに、やっただけだよ」
「そう」
まほろさんは目を開けて、俺を見た。細い目が、なくなるほど細くなっていた。
「ちゃんと、教わったんだね」と言ってくれた人がいたことは、言わなかった。
「それと、御影さんが。まほろさんに、よろしくって」
「……そう。今度は、焼きたてをお出ししなきゃねぇ」
*
開店の支度に、それぞれが散っていったあと、俺はカウンターの内側に戻った。
棚からカップを下ろそうとして、指が白いカップに触れた。
ほんのりと、温かかった。
朝から、誰もこのカップに湯を注いでいない。まほろさんが棚に戻してから、もうずいぶん経っている。
理由は、わからなかった。指を離して、隣のカップを下ろした。
*
黒板の、祖父の字の下に、チョークで一行書いた。
『本日の担当は、陽華です。』
陽華の二文字だけ、太くした。
振り子時計が十を打って、俺は戸の鍵を開けた。
戸口から見上げると、坂の上まで晴れていた。日差しが、きのうより夏に近い色をしていた。
日曜日の店は、いつもの足音で、だんだん埋まっていった。陽華がホールで客を迎え、雫がソーサーを両手で持って運んだ。
昼すぎに来た若い女の人が、カウンターの向こうから遠慮がちに聞いた。
「きのう、ケーキが付いてたって聞いたんですけど……」
「すみません。ケーキは、きのうだけだったんです」
女の人は「じゃあ、また今度」と笑って、ブレンドを一杯飲んでいった。
午後になって、厨房のほうから、まほろさんのひとり言のような声が聞こえた。
「卵、買ってこなきゃねぇ」
*
六時に、戸を閉めた。
カウンターを拭いていると、厨房から水の音が聞こえてきた。
しゃあ、と蛇口から水が落ちる。その合間に、何か軽いものが流しの縁に当たって、こつん、と鳴る。
のぞかなくても、わかった。祖父のアルミの型だ。
水の音が止んで、また流れはじめた。
布巾を持った手を止めて、俺はその音を聞いていた。
(第七章・了)




