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本日の担当は、竜です  作者: 奉日本 灯
第一巻 閉店前夜、祖父のブレンドを淹れたら、竜が七匹起きてきた。
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終章 八つめのカップ

 六月十日、火曜日。


 店に下りると、焙煎室の戸の向こうから、カラカラと豆の転がる音がしていた。焔(ほむら)の一日は、四時半に始まる。今朝焼いているのは明日のぶんで、今日の店に出すのは、昨日の朝に焼いて、ひと晩寝かせた豆だった。


 開店の前に、入口の黒板の前に立った。


 祖父の字の『本日のブレンド 深煎り』の下に、チョークで書く。


『本日の担当は、焔です。』


 最後の一文字のところで、チョークの先がつるりと滑った。


「……字、曲がってんぞ」


 厨房の入口から、低い声がした。焙煎を終えたばかりの焔が、腕を組んで黒板をにらんでいる。毛先の焦げた赤い髪から、まだ煎った豆の匂いがした。


「まっすぐ書いたつもりなんだけどな」


「つもりで火ぃ入れたら、豆は焦げる」


 それだけ言って、焔は奥へ引っこんだ。直せとは言われなかったので、そのままにしておいた。焔にしては、甘い採点だった。


 振り子時計が十を打って、戸を開けた。カラン、とドアベルが鳴る。


 最初の客は、テツさんだった。漁のない日だから、ヤッケは着ていない。いつものように、カウンターの端の丸椅子に腰を下ろす。


 郵便受けから抜いてきた朝刊を、テツさんはカウンターに広げた。


 ブレンドを置くと、テツさんは新聞から目を離さないまま、カップを持ち上げた。湯気をひとつ吸いこんでから、黙ってひと口飲む。それから、もうひと口。新聞が、一枚めくられた。


 厨房の入口に、赤い髪がちらりと見えて、すぐに引っこんだ。


 テツさんが何も言わないときは、たいてい、言うことが何もないときだ。焔にも、それはわかっているらしかった。


 テツさんは、昼前に帰っていった。


*


 三時の鐘が鳴り終わったころ、ガラス戸の向こうに、杖の先が見えた。


 戸が開いて、ドアベルが鳴る。


「おお、チヨではないか!」


 陽華(ひばな)が声を上げると、戸が閉まりきったあとで、ドアベルがもうひとつ鳴った。


 ちよばあは、片腕に平たい包みを抱えていた。藍色の風呂敷で、四角く包んである。杖と包みを器用に持ち替えながら、カウンターの端からひとつ内側の丸椅子に座った。


「今日は、ブレンドをもらおうかね」


 雫(しずく)が、銅のポットをそっと俺の手元に寄せた。


 店のカップをひとつ下ろす。フィルターの縫い目を互い違いに折ってドリッパーにのせ、湯を回しかけて、ドリッパーとカップを温めた。豆を挽くと、深煎りの重たい匂いが、カウンターの上に低く広がった。


 ポットの湯は、もう八十八度に落ち着いていた。


 粉の真ん中に、細く湯を落とす。湯を吸った粉がまるくふくらんで、甘い匂いをひとつ吐いた。そのまま、三十秒待つ。ちよばあは杖を膝に立てかけて、黙って俺の手元を見ていた。


 「の」の字を描いて、三度に分けて湯を注ぐ。八分目で、ドリッパーを外した。


「お待たせしました」


 ちよばあは湯気に顔を近づけて、ゆっくりとひと口飲んだ。


「……うん」


 カップを置いてから、膝の上の包みの結び目をほどいた。


「朔くん。これを、持ってきたんだよ」


 風呂敷の中から出てきたのは、木の額に入った一枚の絵だった。


 坂の途中から見た、この店だった。


 四月に、ちよばあが鉛筆を動かしていた、あの場所からの眺めだ。鉛筆の細い線が、ところどころ絵の具の下から透けて見える。その上に、暮れかけの色が薄く重ねてあった。まわりがだんだん暗くなっていくなかで、ガラス戸の向こうにだけ、店の灯りがついていた。


 あの日、坂にこぼれていた灯りだ、と思った。


 灯りの中に、カウンターが見えた。


 その上に、カップが並んでいる。ひとつずつ、丁寧に描かれていた。どのカップからも、細い湯気が一本ずつ立ちのぼっている。


「ひとつ、ふたつ、みっつ……」


 いつのまにか隣に来ていた陽華が、絵の前で指を折りはじめた。


「……八つ。八つあるのだ」


 翠(すい)が、カウンターの縁につかまって背伸びをした。鼻先を、額のほうへ寄せる。


「……ちよばあの、におい」


「チヨ。なぜ、八つなのだ?」


 ちよばあは、笑っただけだった。目尻の皺(しわ)が、深くなる。


 答えは、なかった。


 陽華は首をかしげて、もう一度だけ、指の先でカップをなぞった。それから先は、聞かなかった。


 俺も、聞かなかった。


 四月に描いていたとき、そこまで描いてあったのかどうかも、俺は知らない。


 厨房の入口を、まほろさんが頭を低くしてくぐってきた。絵の前で足を止めて、細い目を、さらに細める。


「……いい絵ねぇ」


「まあ……。お店が、笑っておりますわ」


 雫が、胸の前で手を重ねた。


 レジの前から、黄金(こがね)が首を伸ばしていた。


「……ええ額やな」


 それだけ言って、黄金は帳簿に目を戻した。万年筆の先が、しばらく紙の上で止まっていた。


「飾るところは、朔くんが決めておくれ」


 ちよばあが言った。


「朔くんの店だからね」


 俺は、店の中を見回した。カウンター。丸椅子。テーブル席。黒板。


 それから、壁の古い写真に目が留まった。祖父と祖母が、並んで写っている。


「……写真の、隣に」


 ちよばあは、何も言わずにうなずいた。


 釘と金づちは、黄金がどこからか持ってきた。


 写真の隣の壁に釘を当てて、金づちで叩く。とん、とん、と乾いた音が、店の中に響いた。額を掛けて、二歩下がって見る。


「……右、下がってんぞ」


 厨房の入口から、また低い声がした。振り返ったときには、赤い髪はもう引っこんでいた。


 指先で、額の右の角をわずかに持ち上げた。今度は、何も言われなかった。


 翠の双葉が、ぴこっと跳ねた。


 ちよばあはブレンドを最後まで飲んで、レジの前に立った。黄金が四百円を受け取って、引き出しが、チーンと鳴った。


 戸口へ向かう途中で、ちよばあは一度だけ足を止めた。壁の写真と、その隣の絵を、黙って見上げていた。


「じゃあ、帰るよ」


 翠が戸口まで出て、手を振った。


 杖の音が、坂の下へ遠ざかっていった。


*


 店を閉めて、まかないを済ませた。皿を洗い終えて店に戻ったころ、振り子時計が八つ打った。


 灯りをひとつだけ残して、ほかを消す。カウンターを拭き終えて顔を上げると、いつのまにか、絵の前に朧(おぼろ)さんが立っていた。


 足音は、聞こえなかった。


「ちよばあが、四月に描いてたやつなんだ。今日、持ってきてくれた」


「そう」


 朧さんは、絵を見上げたまま答えた。


 長いこと、そうしていた。


「……八つ、あるのね」


「陽華が、数えてた」


 朧さんの口もとが、わずかにゆるんだ。


「朔は、数えないの?」


 答える前に、朧さんは絵の前を離れた。厨房の入口の暗がりへ、するりと戻っていく。


 店には、俺と、振り子時計の音だけが残った。


 コチ、コチ。


 絵の前に立つ。


 残した灯りの下で、絵の中の灯りが、ぽつりと浮かんで見えた。


 三月の終わりの夜を、思い出した。椅子を逆さに載せたままの店で、コーヒーを一杯だけ淹れた。開いたノートの隅に、震えた字があった。


『一杯のコーヒーは、一人ぶんの居場所だ』


 あの夜、最初にカウンターに置いたカップは、ひとつだけだった。


 あのときは、それで足りると思っていた。


 絵の中のカップに、指先を近づける。


 ひとつ。ふたつ。みっつ。


 よっつ。いつつ。むっつ。ななつ。


 ――八つ。


 八つめのカップからも、ほかと同じように、細い湯気が一本、立ちのぼっていた。


(終章・了)

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