序章 六月の雨と、父の日の電話(1)
六月十五日、日曜日。
雨の音は、眠っているうちから始まっていたらしい。
目を開けたとき、それはもう部屋じゅうに満ちていた。強い雨ではない。細い指で屋根をそっとなぞっていくような、さあさあという音だった。梅雨に入ってから、この音を聞かずに起きる朝のほうが少ない。
廊下に出ると、湿った空気のなかに、香ばしい匂いが混じっていた。階段を一段下りるごとに、その匂いが少しずつ濃くなる。
凪浜の町の、潮見坂の上にある古い喫茶店。祖父が長いこと続けてきたこの店を、俺――久遠朔が継いで、もうすぐ三か月になる。
そしてこの店には、竜が七柱いる。
*
厨房の奥、焙煎室の戸の向こうから、カラカラと豆の転がる音がしていた。
のぞくと、焔が手回しの焙煎機の前にしゃがんで、ハンドルを回していた。毛先の焦げた赤い髪が、火の照り返しで少しだけ明るく見える。四時半から、ずっとこうしていたはずだ。今朝焼いているのは、明日の夜に出すぶんだった。
「おう。起きたか」
「おはよう。湿気、すごいな」
「こういう日は、豆の音が重てえんだよ。水、吸ってっから」
焔は手を止めずに、ドラムのほうへ耳を寄せた。俺には同じに聞こえるカラカラの中から、焔は何かを聞き分けている。
「朔。お前、また寝ぐせ」
「……どこ」
「左。だっせえ」
口は悪いのに、教えてはくれる。左側を手のひらで押さえながら、店に出た。
カウンターの内側では、雫が銅のポットを布で磨いていた。水色の髪が、雨の日はいつもよりやわらかく波打っている。
「まあ、朔さま。おはようございます」
「おはよう。今日は機嫌がいいな」
「雨でございますもの。屋根の音を聞いておりますと、わたくし、朝から胸が弾んでしまって」
シュウッ、とポットが小さく鳴った。火にかけてもいないのに。
レジの前では、黄金が帳簿を広げ、丸眼鏡の奥で目を細めて、そろばんを弾いていた。
「店長はん。雨の日はな、坂を上がってくるお客さんが減るねん。商売の常識や」
「そうなのか」
「せやから、雨の日割引ゆうのを考えてみたんやけど」
「うん」
「計算したら、割り引いたぶん、まるまる損するだけやったわ」
ぱちん、と最後の珠を弾いて、黄金は帳簿を閉じた。考えるだけ考えて、やめた顔だった。
厨房の入口から、背の高い影がぬっと現れた。
ごん。
「あらあら」
まほろさんが額を押さえて、のんびりと笑っていた。焦げ茶の三つ編みが揺れる。
「この入口、少しずつ低くなってないかしらぁ」
「なってないです」
「そう? おかしいわねぇ」
入口が低くなったのではない。まほろさんが高いのだ。
三日も眠っていたとは思えないほど、変わらない声だった。その三日のことは、まだ誰も口にしていない。
その大きな背中のうしろから、翠がひょこりと顔を出した。頭の双葉が、ぴんと立っている。勝手口から、裏庭の声を聞いてきたのだろう。
「翠。何か言ってたか」
「……きゅうり」
「きゅうり?」
「……のど、かわいてた、って。いま、のんでる」
翠は真剣な顔でうなずいた。五月に植えた苗が、どうやら雨を喜んでいるらしい。
壁の振り子時計が、コチ、コチと時を刻んでいる。この時計の主の朧さんは、屋根裏でまだ眠っている。夜にならなければ、下りてこない。
祖父と祖母の古い写真の隣には、この火曜から、ちよばあの絵が掛かっている。灯りのついたガラス戸と、カウンターと、細い湯気を立てるカップ。いくつ並んでいるかは、もう数えなくても知っていた。
*
この店では、曜日ごとに担当の竜が決まっている。
日曜日は――。
階段を駆け下りてくる足音がした。
「サク! 雨だぞ、雨なのだ!」
陽華が、橙のポニーテールを跳ねさせて店に飛びこんできた。雨の朝でも、この声だけは晴れている。
「知ってる。おはよう」
「うむ、おはようなのだ!」
黒板の前に立って、祖父の字の『本日のブレンド 深煎り』の下に、チョークを当てた。
『本日の担当は、陽華です。』
名前の二文字だけ、少し太く書いた。陽華が後ろからのぞきこんで、満足そうに胸を張る。
「陽華。今日、何かしたいことはあるか」
陽華は腕を組んで、雨の音に耳を澄ますように天井を見上げた。
「雨の中を来る者は、えらいのだ」
「うん」
「ゆえに、今日来る者は、余がひとり残らず褒めてつかわす!」
褒められたほうがどう思うかは、来てみないとわからない。
*
ボーン、と振り子時計が十、打った。
ガラス戸を開けると、カラン、とドアベルが鳴った。雨に濡れた坂が、灰色の光を映して、下のほうまでゆるやかに続いている。湿った風が、焙煎の匂いを外へさらっていった。
黄金の言ったとおりだった。
午前中に来たのは、傘を一本ずつさした、初めて見る顔の年配の夫婦だけだった。入口の内側にある、祖父の代からの古い傘立てに、陽華が二本の傘をていねいに立てた。
「雨の中、よう来たのだ! そなたたちは、えらい!」
夫婦は顔を見合わせて、それから声を出して笑った。帰りぎわ、奥さんのほうが「また褒められに来ようかしら」と言った。陽華は、そのひと言でしばらく機嫌がよかった。
昼をすぎて、雨が少し強くなった。
カラン、とドアベルが鳴って、若い男の人が入ってきた。大学生くらいだろうか。Tシャツの肩が濡れて、そこだけ色が濃くなっている。
男の人は戸口で紺色の傘を閉じると、柄をかちりと押しこみ、骨を束ねて、くるくると巻いた。ぱちん、と留め具の音がした。腕の長さほどあった傘が、手の中で半分より小さくなっている。
陽華が、その場で固まった。
「……ち、縮んだのだ」
「え?」
「そなたの傘が、縮んでしまったのだ! 力を使いすぎたのか!? 大事ないか!?」
男の人は、自分の手の中の傘と陽華とを見比べた。
「あ、これ、折りたたみ……です」
「おりたたみ……」
陽華は、ごくりと喉を鳴らした。
「では、ひと晩寝れば、もとの大きさに戻るのか」
それは、手のひらに載るほど小さくなったときの、陽華の話だ。
男の人は少し考えてから、留め具をはずして、傘をぱっと広げてみせた。紺色が、ひと息で大きくなる。
「おお……!」
陽華が両手を打った。
カラン、カランカラン。
誰も戸に触れていないのに、ドアベルが鳴った。男の人が振り返る。戸は閉まっている。もう一度陽華を見て、首をかしげて、それから笑った。
「なんか、すごいお店ですね」
「すみません。いらっしゃいませ」
男の人がもう一度たたんだ傘を、陽華は両手で受け取った。そのまま、寝かしつけるような手つきで、そっと傘立ての縁に掛ける。
男の人はテーブル席に座ると、濡れた肩を指でつまんだ。
「あの。アイスコーヒーって、ありますか」
「すみません。温かいブレンドだけなんです」
「あ、そうなんだ」
少し迷うような間があった。
「……じゃあ、それで」
*
やかんの湯が、しゅんしゅんと鳴りはじめた。雫がそれを銅のポットに移して、湯気の向こうで温度を見ている。
そのあいだに、豆を挽いた。ごり、ごり、と豆の割れる音がする。焔が昨日の朝に焼いて、ひと晩寝かせた豆だ。中挽きの粉から、深くて、少し甘い香りが立ちのぼった。
紙フィルターの縫い目を互い違いに折って、ドリッパーにのせる。湯を回しかけて紙の匂いを流し、その湯でドリッパーとカップを温める。湯を捨てたカップの内側から、うっすらと湯気が立った。
粉を十五グラム。ドリッパーを軽くゆすって、表面を平らにならす。
「八十八度でございます」
雫が差し出したポットを受け取ると、ずしりと重かった。
細い湯を、粉の真ん中にそっと落とす。湯を含んだ粉がふくらんで、表面に細かな泡がいくつも浮かんでは、ぷつりと消えた。ここで三十秒待つ。待つあいだ、店の中には雨の音と、振り子のコチ、コチだけがあった。
「の」の字を描くように、一投め。粉の山が、息をつくようにゆっくりと沈んでいく。二投め、三投め。カップに落ちる褐色のしずくが、細い糸になってつながる。
八分目で、ドリッパーをはずした。最後の数滴は、落とさない。
カウンターを回って運んでいくあいだにも、深煎りの香りが、湿った空気の中でいつもより重たく、長く尾を引いた。
「お待たせしました。ブレンドです」
男の人は、両手でカップを包んだ。湯気が、濡れた前髪にかかる。ひと口飲んで、目を閉じて、ふうっと長く息を吐いた。
「……あ。あったかいの、いいですね。雨の日は」
「よかったです」
「来るまで、アイスがいいって思ってたんですけど。肩、けっこう冷えてたみたいで」
陽華が、テーブルの横に仁王立ちになった。
「そなたは、雨の中をよう来た。えらい!」
「え。……あ、ありがとうございます?」
男の人は戸惑いながら、もうひと口飲んで、笑った。
会計のとき、黄金がレジで四百円を受け取った。チーン、と引き出しが開く。
「おおきに。雨の日も、また来てな」
男の人は、陽華から折りたたみの傘を受け取ると、戸口の外で、今度はゆっくり広げてから坂を下りていった。陽華がガラス戸に張りついて、紺色が見えなくなるまで見送っていた。
戸が閉まると、黄金がカウンター越しに声をひそめた。
「店長はん。これから夏やろ。アイスないんか、て、なんべんも聞かれるで」
「出さないよ」
「わかっとる。わかっとるけど」
黄金は、そろばんの珠を指先でひとつ弾いた。
「……氷代、浮くしな」
結局、そこに落ち着くらしい。
*
三時をすぎると、雨はまた細くなった。
客足の途切れた店の中は、静かだった。雫はポットを磨き直して、まほろさんは厨房でゆっくりと布巾をたたんでいる。黄金の万年筆が、帳簿の上をさらさらと走る。翠はテーブル席の椅子で膝を抱えて、うとうとしていた。
陽華は、空っぽになった傘立てを、じっと見下ろしていた。
「サク」
「うん」
「傘というのは、雨がやんだら、どこで休むのだ」
「家の玄関とか、かな」
「そうか」
陽華は少しだけ考えて、それから大きくうなずいた。
「ならば、あの者の傘も、今ごろ家で休んでおるな。うむ。それならよいのだ」
カラン、とドアベルが一度だけ、小さく鳴った。
エプロンのポケットのスマホは、朝から一度も震えていない。前の仕事をしていたころは、鳴るたびに胃の底が冷えた。この店に来てからは、鳴らない日のほうが多くなった。
雨の音と、振り子のコチ、コチ。傘立てのそばで、陽華が鼻歌をうたっている。何の歌かは、たぶん本人も知らない。
その日、ポケットのスマホが鳴ったのは、店を閉めたあとのことだった。




