序章 六月の雨と、父の日の電話(2)
傘立てを、戸口の内側へ寄せた。
底には、昼の傘から落ちたしずくが、まだ少しだけ残っている。寄せたはずみで、その水の面が小さく揺れた。
「傘立てよ。今日は、よう働いたのだ」
陽華が、空っぽの傘立ての縁をぽんぽんと叩いた。家来をねぎらう王さまの手つきだった。たぶん。
ボーン、と振り子時計が鳴りはじめた。六つめの音が消えるのを待って、ガラス戸の鍵を回す。かちり、という小さな音で、今日の店が終わった。
黄金がレジの引き出しを開けた。チーン、と鳴ったのはそのときの一度だけで、あとは硬貨を指で寄せる、ちゃり、ちゃり、という音が続いた。
「雨の日曜にしては、悪うないな」
「割引しなくてよかったな」
「その話は、もう済んだやろ」
厨房の入口から、まほろさんが出てきた。
出てくる直前に、ふと背を丸めて、頭を下げた。入口の上の木枠が、三つ編みのすぐ上を通りすぎていく。
「……今日は、ぶつからなかったわぁ」
朝のことを、覚えていたらしい。まほろさんは、嬉しそうに額をなでていた。今日はぶつけていない額を。
雫がカウンターの内側でポットをすすぎ、翠はテーブル席の椅子を、ひとつずつ両手で押しこんでいる。閉店のあとの、いつもの音だった。
*
エプロンのポケットで、スマホが震えた。
取り出すと、画面に三文字だけが浮かんでいた。
『父さん』
親指が、画面の上で止まった。
震えは、手のひらから手首へ、手首から肘のほうへと、ゆっくり上ってくるようだった。薄い板ひとつが、急に重くなる。指を横に滑らせれば、それで出られる。それだけのことが、なかなかできなかった。
「サク?」
陽華が、こちらを見ていた。
「……ちょっと、出てくる」
厨房の入口をくぐって、暗い廊下に出た。突き当たりの勝手口の窓を、雨が細く叩いている。
そこで、やっと指が動いた。
「……もしもし」
「朔か」
父――恭一の声は、低くて、少しかすれていた。
「うん」
「店は、閉めたのか」
「……今、閉めたところ」
「六時だったな」
それきり、少し間があった。電話の向こうは静かだった。テレビの音も、人の声もしない。雨の音も聞こえない。同じ日の、同じ時刻なのに、どこか遠い部屋の音だった。
「親父の初盆な。八月の十日に、やることにした」
「十日」
「日曜だ。坂の下の寺で」
「……うん」
「店は、休めるのか」
日曜日。陽華の日だ。とっさに、黒板の少し太い二文字が浮かんだ。
「……決めて、また連絡する」
「そうか。時間も、あとで連絡する」
「わかった」
また、間があった。切れたのかと思って耳から離しかけたとき、声がした。
「……食ってるのか」
「食ってるよ。これから、作る」
「そうか」
ほんの少しだけ、息を吐く音がした。
「じゃあな」
通話が終わった。
耳からスマホを離すと、画面が明るくなった。ロック画面の時計の下に、今日の日付が出ている。六月十五日、日曜日。その下に、カレンダーの小さな文字がひとつ並んでいた。
『父の日』
しばらく、その三文字を見ていた。
知っていたら、何か言っただろうか。考えてみても、言う言葉は浮かばなかった。おめでとう、ではない。ありがとう、と口にするには、あいだにあるものが長すぎる。
たぶん、父も気づいていない。そういうことを気にして電話をかけてくる人ではない。気づかないまま、たまたま今日を選んだ。それだけのことだ。
それだけのことなのに、画面が暗くなるまで、目を離せなかった。
かけ直そうか、と一度だけ思った。
親指は、今度は最初から動かなかった。
*
店に戻ると、灯りの下に六柱がいた。
誰も、何も聞かなかった。雫はポットを拭く手を止めずにいて、黄金は帳簿から顔を上げなかった。陽華だけが俺の顔を見て、口を開きかけて、閉じた。
ほうきを出して、床を掃いた。テーブルを拭き、丸椅子の脚のまわりの砂を集め、カウンターの内側のふきんを替える。手を動かしているあいだは、何も考えなくて済んだ。
最後のテーブルを拭き終えたところで、ボーン、と振り子時計が七つ打った。
「腹、減ったろ。作るよ」
厨房の灯りをつけて、冷蔵庫から、昨日買っておいたものを出した。
カレーのときの鍋にたっぷりの水を張って、火にかける。湯が沸くのを待つあいだに、まな板を出した。
玉ねぎは、くし形に。包丁を入れるたびに、つんとした匂いが目の奥に届く。ピーマンは縦に割って種を指でかき出し、細く切る。ざく、ざく、と青い匂いが立った。ウインナーは斜めに。切り口が、灯りの下で薄桃色に光る。
鍋の湯が、ぼこぼこと音を立てはじめた。塩をひとつかみ落として、太めのスパゲッティを扇のように広げて入れる。乾いた束が、湯の中でゆっくりとしなだれていった。
ゆで上がったら、ざるにあける。白い湯気が、顔の前でいっぺんにふくらんだ。サラダ油をほんの少し回しかけて、大皿に広げる。
喫茶店のナポリタンは、ゆでたての麺では作らない。少し置いて、麺に水気を吸わせて、落ち着かせる。そうすると、炒めたときに、もちっとする。
麺が休んでいるあいだに、フライパンを火にかけた。
油をひいて、ウインナーから。じゅわっ、と脂のはぜる音がして、香ばしい匂いが厨房に広がった。そこへ玉ねぎを入れる。木べらで返すたびに、白い玉ねぎがだんだん透きとおって、ふちから甘い匂いをこぼしはじめた。ピーマンは最後に。緑が鮮やかになったところで、具を全部、フライパンの端に寄せる。
空いた真ん中に、ケチャップを落とした。
じゅうっ。
赤いかたまりが、油の上でふつふつと泡を立てる。最初に鼻をついた酸っぱい匂いが、木べらでならすうちに、少しずつ丸くなっていく。ふちのほうから、色が一段濃くなった。
「……赤い匂いがするわ」
背中のほうで声がした。振り返ると、厨房の入口に、朧さんが立っていた。銀の長い髪が、厨房の灯りを受けて、うっすらと光っている。いつ階段を下りてきたのか、音はしなかった。
匂いに色はない、と言いかけて、やめた。たしかに、赤い匂いだった。
「まだだ」
今度は、反対側から声がした。いつのまにか、焔が俺の肘の横からフライパンをのぞきこんでいる。
「まだ酸っぱえ。……もうちょい。……もうちょい」
木べらの下で、ケチャップが濃い赤に沈んでいく。焦げる、と思う手前で、焔が言った。
「今だ」
麺を戻した。
木べらと菜箸で、底から返すようにして絡める。白っぽかった麺に、赤がまわっていく。じゃっ、じゃっ、とフライパンを振るたびに、甘く香ばしい匂いが湯気といっしょに立ちのぼった。
「火のこと、わかるんだな」
「火のことで、アタシにわかんねえことがあるかよ」
最後に、バターをひとかけ落とした。四角いかたまりが、熱い麺の上ですべるように溶けて、赤橙の全体に、ふっとつやが出た。
フライパンひとつでは足りないので、二度に分けて作った。
菜箸で高く巻き上げるように盛ると、皿の上に、つやのある赤橙の山ができた。湯気が、そのてっぺんからまっすぐに立ちのぼって、灯りの下でゆっくりとほどけていく。ところどころでウインナーの切り口がこんがりと焼けて、ピーマンの緑がのぞいていた。
*
テーブルをふたつくっつけて、皿を八枚並べた。真ん中に、粉チーズを置く。
「いただきます」
陽華は、フォークに麺を山のように巻きつけて、ひと口で頬ばった。
「んむっ」
頬がふくらんで、目が丸くなる。飲みこんだあとの口のまわりが、きれいな輪になって赤く染まっていた。
「陽華お姉さま、お口のまわりが」
「む。……これは、あとで拭くのだ。今は、それどころではないのだ」
陽華は、もうふた口めを巻いていた。
焔は、黙って食べていた。ふた口、三口と進んだところで、しっぽの先に、ぽっと小さな火がついた。
「……ケチャップ、焦がしてねえな」
ほめているのは、たぶん自分の「今だ」のほうだ。
翠は、皿の上でフォークを動かしていた。麺を食べ、ウインナーを食べ、玉ねぎを食べる。ピーマンだけが、少しずつ皿の端へ寄せられていった。
「チビ。残すな」
「……」
「ピーマンはな、火ぃ通すと甘くなんだよ。食え」
翠は、端に寄せた緑をしばらく見つめていた。それから一本だけつまんで、目をぎゅっとつぶって、口に入れた。
もぐ、もぐ。
「……がんばった」
誰に言ったのかは、わからなかった。
「ちょっと待ち」
黄金が、フォークを止めた。丸眼鏡の奥の目が、焔の皿を見ている。
「ホムの皿、ウインナー一切れ多いで」
「数えんな」
「数えるわ。具は均等。これは原則や」
「じゃあ、お前のピーマンもらってやるよ」
「ピーマンとウインナーは、等価やあらへん」
まほろさんが、くすくす笑いながら、粉チーズを朧さんに回した。
朧さんは、受け取った粉チーズを、赤橙の山のてっぺんに振った。振って、振って、まだ振った。山の上が、うっすらと白くなっていく。
「……朧。それ、かけすぎじゃないか」
「白いほうが、落ち着くのよ」
朧さんは、真顔のまま、白くなった山にフォークを入れた。
皿の上の赤橙が、少しずつ低くなっていく。雨の音が、天井の上でずっと続いていた。
*
皿が空になったころ、フォークを置いた。
「さっきの電話、父さんからだった」
テーブルの上の音が、ひとつずつ止まった。
「八月の十日に、祖父の初盆の法要をやるって。坂の下の寺で」
陽華が、フォークを持ったまま、ゆっくりとこちらを見た。
「……宗一郎の」
ドアベルは、鳴らなかった。
まほろさんが、膝の上で両手を重ねた。
「……もう、そんな季節になるのねぇ」
雫は何も言わずに、目を伏せた。焔は空になった皿を見ていた。しっぽの先の火は、いつのまにか消えていた。
黄金が、指先でそろばんの縁をなぞった。
「十日て、日曜やな」
「うん」
「……閉めよか」
黄金は帳簿を開いて、端のほうに小さく何かを書きつけた。
「そういう日は、閉めるもんや」
そろばんは、弾かなかった。
「……さく、いく?」
翠が、袖を引いた。
「行くよ」
「お寺は、昼でしょう」
朧さんが、フォークを置いて言った。
「……たぶん」
「なら、私は留守番ね」
なんでもないことのように言って、朧さんは振り子時計のほうへ目をやった。
「帰ってきたら、話を聞かせなさい」
「わかった」
誰が行くのか、誰が残るのか、それ以上は誰も言わなかった。八月は、まだ先だった。
*
皿を洗い終えて店に戻ると、灯りはひとつだけになっていた。
店には、もう誰もいない。カウンターの端の丸椅子で、朧さんがひとり、振り子時計を見上げているだけだった。
ふきんで手を拭きながら、指の中で日曜日を数えた。来週の日曜日から、八月の十日まで。
……八回。
「朔。指で、何を数えてるの」
「日曜日」
「そう」
朧さんは、それ以上は聞かなかった。
あと七回、黒板に陽華の名前を書く。八回めの朝にも、同じ名前を書く。その日だけは、その下に、もう一行書き足すことになる。
どんな字で書けばいいのかは、まだわからなかった。
振り子が、コチ、コチと揺れている。屋根の上では、雨がまだ続いていた。この雨の向こうから、俺がこの店で迎える、初めての夏が来る。
(序章・了)




